3 ありがとうと、ごめんなさい
五月に入って間もないある日の休み時間。
森下さんにごめんなさいとありがとうを伝えられるチャンスがきた。
彼女が、僕の左側に、筆箱を落とした。
この時、僕の頭は想像以上のスピードで回転した。心臓の鼓動が勢いを強めた。
――これを拾って、渡して、そしてもし「ありがとう」と言われたら、「こちらこそこの前はありがとう」と言おう。できることなら、謝ろう」と。
作戦はよかったけど、あせったのがいけなかったんだろう。
――ゴン。
僕らは、筆箱を同時に拾おうとして、頭をぶつけた。
「いたっ」
声をあげたのは彼女だ。きっと、周りからも間抜けな光景に見えただろけれど、例によってそんなことは僕の意識の外だった。
またやってしまった。あるのは、そんな気持ちだけ。
彼女が先に、
「ごめん、大丈夫?」
と言葉を発した。
「うん、大丈夫。こっちこそごめん」
あまり痛くはないけれど、反射的に左手で頭をおさえながらかえす。彼女の目はまっすぐこちらを見ていた。少し潤んでいるようにも見える。
そして、今度は彼女が動かないことを確認してから筆箱を拾って彼女に渡した。
「ありがとう」
この次が肝心だぞ!言え!と頭の中の僕が命令する。今度は、素直に従うことができた。
「こ、こちらこそありがとう」
予定していた「この前は」という言葉をつけるのを忘れたし、今思えば一か月近く前のことなので、彼女は何に対してお礼を言われてるのかわからないじゃないかと思った。
突拍子のなさすぎる発言だった。
でも、彼女は、察してくれた。そして、申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、おせっかいをやいて。その・・・それだと、大変だと思って。でも、そんなことなかったね」
その言葉から、彼女が勇気を出して僕に声をかけたということ、そして、後悔させてしまったことを理解した。申し訳なく思った。
「ごめんはこっちだよ。せっかく言ってくれたのに、ことわっちゃって」
「右手、大丈夫?」
「あ、これ・・・うん。もう少しでくっつくんだ。痛みもほとんどないよ」
はやく治るといいね、と彼女はやさしい笑顔で返す。
何か手伝えることがあったら言ってね、ということは言わなかった。言わなかったけれど、これから僕が困っている時があったら彼女は助けてくれようとするだろうということは分かった。
やっぱり、彼女のとなりは居心地がよかった。
そんなことがあってから、僕らはお互いに朝のあいさつを交わすようになった(「じゃあね」とか「また明日」を言うほどではないということ)。
そして、この前と同じように紙を切り取る必要がある時、僕は彼女に『ごめん、お願いしてもいいかな?』ときき、彼女は『うん』とだけ返して快くやってくれた。今度は少しだけ周りの目が気になった。
あと、美術の時間。果物のデッサンを描く授業だったのだけど、その時は控えめながら隣から彼女の視線を感じた。僕が慣れない左手で描いていたものだから、気になったのだろう。
絵は課題だから、流石にそこで助けてもらうわけにはいかない。時間をかけて一生懸命描いたものの、出来栄えは最悪だった。
それ以外は、今まで通り。彼女は前と変わらず、僕に関心を向けていないようだった。
しかし困ったことに、僕の方は彼女に関心を向けざるを得なくなっていた。となりにいて、妙に落ち着く雰囲気。見返りをもとめない優しさ。控えめな態度。
彼女の心は、その瞳と同じように、きれいだと僕は思う。どんな環境がこんな心の持ち主を育てたのだろうかと少し興味がわいていた。