12 ごきげんよう
次の日の登校中、電車の中で僕はまだ考え続けていた。
自分が、あのイルカや、男の子のようになる方法だ。それも、ラグビーの世界で。
そもそも、自分はなぜラグビー部に入ったのか。その疑問に対する答えは、すぐには出てこなかった。勧誘されたから?仮入部が楽しかったから?
どちらも合ってはいるが、完全解答ではなかった。一体なぜ?
考えごとをしていて、ふと気が付くともう教室に入っていた。完全に無意識の自分が僕を教室に運んでくれていたことに驚く。そしてさらに、
「おはよう、日比野くん」
「えっ、あ、あぁおはよう」
森下さんがそこにいたことにも驚いた。なぜなら今日は水曜日だったからだ。
ノートは、昨日もらったばかり。
「今日も早いんだね」
「うん、二日もこの時間に来てたら、こっちに慣れちゃって」
「へえ、すごいね」
僕は、適応が早いなあと感心する。
「日比野くんだって。毎日、朝練習お疲れ様。」
彼女は『お疲れ様』と言うのに合わせて小さく頭をさげる。
「あ、えっと、・・・」
「ん?」
返事をにごす僕に、彼女は不思議そうな顔を向けた。
「あの、それが『お疲れ』ではないんだ」
「えっ、毎朝練習してても疲れないの?」
彼女は、目を丸くして尋ねる。
「ううん、そういうことじゃなくて。・・・えっとね、『お疲れ様』という言葉が合わないというか。」
僕は頭の中を整理していた。
どうして?という表情で彼女はじっと僕を見ながら次の言葉を待ってくれている。
「・・・おれらは好きでラグビーをやってるんだ。仕事としてじゃなくて、好きなこととしてやってる。
でも練習のキツさのせいで、どうしてもその練習を「こなすもの」「やらされているもの大変なもの」だと考えがちになる。
そうなると練習に対して受け身になってさ、個人としてもチームとしても成長できなくなっちゃうんだ。
『お疲れ様』を言わないのは、『自分たちがラグビーや仲間が好きだから』という理由で、自分の意思で部活に取り組んでいることを忘れないようにするためなんだ」
「そうなんだ・・・」
彼女は、すごく納得したようにうんうんと頷いている。
「すごく素敵だね。」
「監督の考えなんだけどね。でも、おれらはそれを聞いて、自分たちの意思で『お疲れ様』と言わないことに決めたんだ。」
「確かに、やらされてるって思うってことは、自分で自分の行動に責任を持たないってことだもんね。自分は、自分の意思で頑張ってるんだって考えることは大事なんだね。見習わなきゃって思ったよ。日比野くんありがとう」
「いや、おれは監督の考えを伝えただけだよ」
彼女は小さくかぶりをふってから「ふふっ」と笑って
「でもその監督の話を受け入れて、実践したのは日比野くんの意思でしょ。だから、実際にやってその効果を実感してる日比野くんの言葉には説得力があったよ。
それに、私が何気なく言った『お疲れ様』を受け流さないで、きちんと答えてくれたのも日比野くんの意思。うれしかったよ」
・・・彼女は、うれしいとか、好きだとか、そういうプラスの感情を言葉にしてストレートに伝えてくる。
その言葉はたいてい、僕の中の、僕が知らない価値を見出してくれるものだ。
そんな時、僕の中で言いようもない嬉しさがこみ上げてくる。
プラスの感情は、言葉にして口にした方がいいんだ。
彼女にならって、僕も自分の今の感情を言葉にする。
「ありがとう、そう言ってもらえると・・・うれしいよ」
まだ気恥ずかしさもあるが、安心感もあった。彼女は必ず受け入れてくれる。
「でも、『お疲れ様』って、結構あいさつで遣う言葉だよね。ラグビー部のみんなはどういうあいさつをしてるの?」
「『おはよう』とか『こんにちは』が基本だけど、普通だったら『お疲れ様』を言うような場面ではね、」
彼女は興味深そうに僕を見ている。僕は少し間をあけてから、右手を軽くあげてその言葉を口にする。
「『ごきげんよう』」
彼女はまた「ふふっ」と笑ったことは言うまでもない。屈強な男子高校生たちがそんなお嬢様が口にするような言葉であいさつをし合う光景はすごくシュールだ。
でも、僕らはこの言葉を気に入っていた。目下、目上に関係なく、会った時も別れる時も遣える挨拶。相手の健康を願っていることを伝える意味がある。
そのことを彼女に言うと、彼女はまたうんうんと頷きながら聞いてくれた。そして、
「わたしも、日比野くんにはそう言ってもいいかな?」
と、いたずらっぽく、それでも控えめに尋ねた。
僕はもちろん、と言って早速あいさつをして朝練へ向かった。
じゃ、ごきげんよう。
うん、ごきげんよう日比野くん。
自分から提案しておいて、彼女の顔はさらに赤くなっていた。でも、嬉しそうだった。
グラウンドに向かう間、その時の彼女の笑顔は僕の脳裡に焼き付いていた。
今日の朝練は、自主的なものだった。試合前であればサインプレーやフォーメーションなどを確認するために全員参加の朝練があるけど、それ以外は基本的に自由だった。
練習用のタックルバックに思いっきりタックルする。上手く入れた時には肩とバックがぶつかる瞬間にパアンと何かが弾けるようないい音がする。今日は、調子がとてもいい。
インターバルをとっている間、僕はさっき森下さんに話したことを思い返していた。
――自分の意思で、好きで、やっている。
正直、最近の僕はそのことを忘れかけていたようだ。この毎日の朝練も、もはや習慣化しすぎて「毎日こなすもの」という認識になっていた。
今年こそはスタメンになりたいと意気込んでいたのに、三年生になってすぐに怪我をしてしまった。治ってからも中々調子が戻らず、焦りの気持ちを抱えながら練習していた。
がんばってもがんばっても練習についていくことで精いっぱいで、辛かった。
もし、誰かが僕に『お疲れ様』を言うことがあったら、「ああ、すごく疲れてるよ」なんて口にしてしまっていたかもしれない。
本当はそうじゃない。確かにキツいけど、ラグビーや仲間が好きだからやってるんだ。
彼女は、僕に『お疲れ様』を言ってくれた。その時僕は、自分の意思で、その言葉を受け入れることをしなかった。彼女は、僕に気づかせてくれた。
そういう考えに至った時、僕の中で何かがつながった。
朝から気になっていたこと。
僕が、なぜラグビー部に入ったのか。
その答えは、その、『好き』という感情だった。
ユーモアにあふれ、温かく接してくれる先輩たちが『好き』になった。
『ワンフォアオール、オールフォアワン(一人がみんなのために、みんなが一人のために)』というラグビーの精神が『好き』になった。
勇気を振り絞り、身体をはってチームのピンチを救う、タックルというプレーに憧れ、『好き』になった。
僕は、『好き』になったから入部したんだった。でも今は、そんなラグビーを辛いと思って練習している。
スタメンになりたい。でも、なれない。つらい。そんな考えじゃ、スタメンになれなくて当然だ。スタメンは『好き』な気持ちをもって、自分の意思で一生懸命に練習した結果としてついてくるものだ。『スタメンになるために頑張る』は、僕のやる気を高めるモチベーションになんてなっていなかったんだと気づいた。
僕は、あの絵本の中のイルカと、主人公の男の子のことを思い出した。
――だれかのためにがんばれる人。
僕がラグビーを頑張ることは、誰のためになるんだろう。
仲間のため。チームのため。そうだ。僕は、自分のためじゃなく、自分が好きな、仲間のために頑張るんだ。
僕は、立ち上がり、再びタックル練習をはじめようとした。
「ごきげんよう。日比野、今日もがんばっとるな。」
「先生、おはようございます」
すると、監督がグラウンドに出てきていた。
ああおはよう、と言うと監督は手に持つタイプのタックルバックを拾って、右手にセットした。そして、パンパンとそれを左手で叩いた。
「一発はいってみい」
「えっ」
僕は驚いた。監督は、自分にタックルをせよと言っている。彼はラグビーをしていたとはいえすでに五十歳を過ぎていて、身体も細身だった。
僕が本気でタックルをしたら、吹っ飛んでしまうだろうと想像した。
「大丈夫や。いいから、はようせい」
監督は僕の表情から心配していることを察したのだろう。そういうと、タックルバックを構えた。
「では、いきます」
僕は、やるからには、と本気でタックルをした。
ヒットした瞬間、パアンと大きな音が鳴る。その衝撃は予想以上に重かった。監督は倒れることなく受け止めた。
「・・・いいタックルや。自信持てよ。焦るなよ。」
「・・・はい」
監督は、タックルバックを手から外した。監督は、こうやって早く来たり、学校に遅くまで残ったりして、僕ら選手の個人練習に付き合うことが多い。でも、自分自身にタックルをさせたのは見たことがなく、僕ももちろん初めてだった。
どうして?
僕は気が付くと、その場を離れようとする監督を呼び止めて思ったことを聞いていた。
「あの、先生。先生は、何のために頑張ってらっしゃるんですか」
監督は、ちょっと驚いた顔になり、少し考えてから僕の方をまっすぐに見て答えた。
「お前らと、喜びを共有するためや」
「喜びを、共有するため・・・」
「ラグビーは、キツいスポーツや。それに、シンプルだからこそ難しい。強敵から一つのトライを奪うことはそう簡単やない。そのためにはそいつら以上に練習せなあかん。
吐くような思いするかもわからん。でもな、だからフィフティーン全員の力でトライを取った時、勝った時、嬉しさは大きいんや。
人数の分、その喜びは倍増する。それまでの努力が報われる瞬間や。ラグビーは球技の中で一番人数が多いやろ。だから一番勝った時に嬉しい競技なんや」
僕は、試合に勝った時の経験を思い返していた。確かに、これが一人でがんばっている競技だったら、嬉しさはそこまで大きくないかもしれない。
「その喜びを、お前らと共有したい。だから俺はお前らのために俺にできることはなんでもする。」
僕は、監督が今まで僕ら部員のためにしてくれたことを思い返してみた。
思えば、毎日部活の最初から最後までいてくれるのは監督くらいだった。
自分の仕事は、練習が終わったあとにしているのだろう。
テーピングや、マッサージなどのトレーナーの役割も担ってくれている。
合宿の前には、より多くの強豪と練習試合ができるように何度も頼み込んでくれた。
今年の年明けには、部員全員にお雑煮を振る舞ってくれた。
数え切れなかった。数え切れないくらいお世話になっている。僕という一人の補欠部員のためにも、練習を見てくれ、アドバイスをしてくれた。
「お前らのために何かをやる分だけ、喜びは大きくなる。つまり、お前らのためとか言うとるけどな、つまりは自分のためやねん。お前らと喜びを共有したいっていう自分の目標のためにがんばっとるわけや」
監督は、そう言ってタックルバックを片づけると、「じゃ、ごきげんよう」と言ってグラウンドをあとにした。
監督の言葉を聞いて、今まで僕は一つ勘違いをしていたことに気が付いた。
それは、『誰かのためにがんばるということは、その誰かのためにしかならない』ということ。
でも、それは違った。誰かのためにがんばることは、自分のためにもなるんだ。いや、自分のために、誰かのためにがんばると言ってもいい。
僕は今、森下さんのために絵を描いている。でも、それによって僕は誰かに必要とされる自分でいることができるし、僕自身も色んなことを学んでいる。現に、大切なことに気づくことができている。
あのイルカや男の子は、飼育員さんのために頑張ることで自分の生き方を見つけた。
たとえ自分にそんなつもりがなくても、誰かのためにがんばることは、結果として自分のためにもなっていんだ。
さっき僕は、『仲間のため、チームのため』にがんばろうと心に決めた。その気持ちは変わらない。でも今は、『自分のために、仲間のため、チームのため』にがんばろうと考えている。
『仲間』の中には、監督も含まれている。ここまで僕らのためにがんばってくれている彼は、僕らと喜びを共有したいと思っている。
その思いに応えたい。彼の夢が叶ったら、僕も嬉しい。
だから、がんばることは僕のためにもなるんだ。
僕は練習を再開した。
今までは目の前のタックルバックしか見えていなかったけど、今度はもっと別なものが見えた。
グラウンドは、花園予選決勝の舞台に見えた。
自分の服はユニフォームに見えた。
周りには、仲間がいる。
自分のために、彼らのために、この一本のタックルは大切なプレーなんだと思いながら、僕はいつもより長く、ぎりぎりまで練習を続けた。