11 遠い存在
次は、学校の廊下でのシーンだった。夢ではなく、現実だ。
男の子は、職員室の前を歩いている時に中から担任の先生の声を聴いた。
『彼は、足手まといなんかじゃありません!』
ただならぬ雰囲気を感じて、男の子は聞き耳をたてる。担任の先生が自分の名前を口にしたことにも驚いていた。
『とは言え、彼は何度やっても上手く跳べないじゃありませんか。おかげで、先生のクラスの記録は一向に伸びる気配がない。他のクラスはもう例年の基準を超えているというのに』
この声は、教頭の声だった。男の子のことを、けなしている。
『だからと言って、彼を除外するなんて、そんなことはできません!』
先生が反論する。
『私は、彼に「応援役をやらせてみては」と提案しているのです。応援だって、クラスにとって必要なことです。除外ではありません。それに、「彼がいるから家のクラスの記録がのびない」と、保護者から苦情が来ているのですよ』
『全員が跳んでこその大縄跳びだと思います。彼抜きで跳び、それでもし記録が伸びて優勝したとして、彼は、クラスの子どもたちは心から喜ぶことができるでしょうか。そんなこと、できないと思います!』
先生の声は、震えていた。先生が、泣いている。
男の子も、胸が苦しくなって、涙をこぼした。そして、頭の中には、ある映像が浮かび上がった。
あの、イルカだ。
『あなたは、私にとって、あのイルカだった。私のために、一生懸命になってくれたわ』
あの女の子は、そう言った。
自分には、「だれかのためにがんばれる」という素晴らしいところがあると。
正直、男の子は自分にはできるとは思えなかった。何度チャレンジしても跳べなかったのだから。あの女の子は男の子が自分を助けてくれたと言っていたけど、男の子はそのことを覚えていないのだから。
でも、男の子は燃えていた。できるという確信はないけれど、自分のためではなく、あそこまで言ってくれる担任の先生のためにがんばりたいと思っていた。
男の子は、速足で職員室をあとにした。
・・・僕はノートを一度閉じ、頭の中を整理した。
なるほど、と思った。
夢の中で女の子が男の子に話してくれたイルカのエピソードは、男の子を勇気づけるための話だったんだ。それが本当の話かどうかはわからないけど、それを聞いた男の子は同じような場面に遭遇し、イルカと同じように人のためにがんばろうと心に決めた。
ここでノートは終わっていたけれど、これからきっと男の子はイルカがその芸を上達させたように、大縄を跳べるようになるんだろう。
僕は、部屋の天井をぼんやりと見上げた。
―――だれかのためにがんばれる人、か。
僕の頭に森下さんの顔が浮かんだ。僕は今、森下さんのために頑張って絵を描いている。そのことは確かだ。
・・・でも、何かが違う。
彼やあのイルカは、人のために、「自分の苦手なこと」をがんばると決めた。
僕が今がんばっているのは、「自分の得意なこと」だ。ラグビーからは、逃げている。
それでいいじゃないかと言う自分もいるけれど、それで心に引っ掛かりを感じている自分がいるのも事実だ。
あんなに近い存在だと思っていた主人公の男の子は、僕にとって遠い存在になっていた。
僕は自分で描いたイルカの絵を手に取って眺めた。
悠々とイルカは泳いでいる。
僕は、このイルカのように泳ぐことのできる自分を想像することができなかった。