1 出会い
その子を見るのは、初めてのはずだった。
でも、そうじゃない気もした。
その澄んだ瞳の輝きに、既視感を覚えた。
受験生となった四月から、僕のクラスには一人の転校生がやってきた。
彼女は、たまたま僕のとなりの席になった。となりの席の僕は「よろしく」でもなんでも声をかけて緊張をほぐしてあげるべきだったのだろうけれど、初めて見た時も僕らは言葉を交わさず、軽く会釈をしただけだった。
「あの・・・それ、やろうか?」
新学期が始まってから2週間ほどたったある日、転校生の彼女が僕に向けて初めて発した言葉だった。
「え・・・!あ、いや、だいじょうぶ!・・・です」
限りなく澄んだ親切心を、きっと大きな勇気から生まれたその申し出を、僕は驚きのあまりことわって
しまった。
何がだいじょうぶだ。右手にギブスをはめている状態で、模試の申込み用紙を切り離そうと苦心している様子は、さぞ滑稽に見えただろう。
けれど、僕の意識の中には、周りからの目というものは存在しなかった。あるのは、彼女から声をかけられたことへの驚きと、とっさに断ってしまったことへの後悔だけ。
彼女は、愛想を振りまいたり、必要以上におせっかいをやいたりして自分を周囲に売り込んでいる女子(僕にはほとんどの女子がそう見えていた)とはちがった。
むしろ、注目されることはさけたいと考えている人だと思う。
ただ、今は本当に困っている僕を見て勇気を出して声をかけたのだ。
彼女の遠慮がちに伺うような声色からそのことは容易に察することができる。
そう考えると、本当になんてことをしてしまったんだろうという思いがこみ上げてきた。
僕は、彼女に顔をむけられないでいる。
僕は、できるだけ手早く、少しだけ痛みを我慢しながら右手で紙をおさえ、左手で切り取った。
――親切に、ありがとう。
頭の中で、そう言えと強い口調で命令する自分がいる。
しかし、また別の自分によってその命令は退けられることになった。
僕は、やっぱり彼女の顔を見ることができなかった。
その日の部活でも、僕は一年生の練習を見ていた。春休み中の合宿で、僕は骨折の怪我を負った。不覚だった。
とは言っても、いつどうやって折れたのかは分からない。練習試合が終わり、クールダウンをしている時に、右手親指の付け根あたりに痛みを感じた。見ると、大きく腫れていた。監督に見せると、監督は僕の手をとり、腫れている部分に触れた。鋭い痛みが走った。
その時放たれた監督の一言に、僕は大きなショックを受けた。
「折れとるな、こりゃ」
・・・いつだ?いつ折れた?ボールをもって突進してきた相手選手をタックルした時か。逆に、された時か。それは、今でも分からない。試合中の骨折を、それが終わるまでずっと気づかないんだから、ラグビーというスポーツは相当にアドレナリンが分泌されるものなんだなあと半ば関心してしまったものだった。
「つぎは、スクラムの姿勢を教えるよ。ベンチの前に片手の間隔をあけて並んで」
はい!と一年生は返事をして素早く移動する。入部して一週間足らずだけど、彼らはやる気充分だった。その姿に、二年前の自分を重ねた。春の試合で先輩たちが強豪たちにも臆せずに全力で立ち向かう姿に感銘し、その姿に少しでも近づきたくて練習に励んだものだった。
「よし、もう一本いくぞぉ!」
遠くから、上級生の練習の声が聞こえる。いや、距離的にはそれほど離れていない。でも、怪我をして一年生の指導にあたっている僕にとって、その声はあまりにも遠い。
春の大会でも、僕らのチームは準優勝だった。もう、十年以上、同じ高校に決勝で負け続け、花園出場を逃している。今年こそは。みんな、同じ思いを抱えて練習していた。
ぼんやりと、そちらを眺める。一つのボールを、身体をぶつけ合いながら全力で奪い、守る。そして、15人の力を結集して相手の陣地まで運び、トライする。単純なスポーツだ。でも、単純な僕らはこのスポーツに熱中していた。はやく、あそこに戻りたい。
「並びました!」
一年生の声で、我に返った。
「よし、じゃあはじめるよ。まず手本を見せるから、それをよく見て――」
一年生の指導だって、チームの今後のための大事な仕事だ。それを任された限り、僕はそれに集中する。
「日比野」
「やあ、相良」
片づけをしていると、同じクラスでチームメイトの相良が話しかけてきた。あたりはもう暗い。ラグビー部は、学校の中でも練習が終わるのが一番遅いのだ。
「今日も激しくやってたね」
「ああ、だいぶね」
「どう?右手の調子は」
「痛みはほとんどないね。ただ、やっぱり利き腕だから不便。それに身体は元気だから早くそっちの練習に参加したいよ」
「そうだろね。でも休憩中に見たけど、一年生だいぶ上手くなってるじゃんって思ったよ。日比野教え方うまいんだな」
「一年生のやる気がすごいんだよ」
僕の目は自然と全身泥だらけな相良のジャージを見ていた。それが、練習の激しさを物語っていた。対照的に自分のジャージはほとんど汚れがない。
相良は、二年生の時からAチームのスタメンだ。対して僕はBチーム。去年三年生が引退してからも、試合にスタメンで出たことはない。最後となる今年は、スタメンで出たい。そんな思いで必死にやっていた中での怪我だった。
「あー、はやく、日比野のタックルを受けたいわ」
「・・・あれかな。相良はマゾなの?」
「ちがうちがう。今、Aの練習相手ってほぼ二年生じゃん。まだ未熟だから、あんまり練習にならないんだよね。簡単にふりほどけるっていうか。それにひきかえ日比野のは強烈だから、試合の感覚にすごく近くなるんだよ」
誰にでも、プレーによって得意不得意がある。僕の場合は、タックルが得意だった。逆に言えば、その他のパスやボールを持ってせめるランなどは並み以下だ。
僕はそんな自分を選手としてまだまだ未熟だと思っていたけれど、チームメイトに一つでも一目おかれていることは素直に嬉しかった。
「そういうことなら、早く治さないとね。復帰したら相良んところに一番にタックルにいってあげるよ」
「そう言われると恐いわ!」
そんな冗談めいたやり取りをしながら僕は、
――怪我をしていなかったら、今頃僕のジャージもドロドロだっただろう。悔しい。早く、復帰したい。
そんなことを考えていた。
森下華乃。
部活を終えて帰宅した僕は、お風呂場で汚れたジャージの下洗いをしながらその名前を心の中でつぶやいた。
今日、声をかけられたあの瞬間、反射的にそちらを向き、目があった。ベージュ色の眼鏡の奥にある瞳は、すごく、澄んでいた。柔らかくやさしい光を放っていた。
そのあとすぐに、思わずななめ下を向いて「あ、いや・・・・」と断わった僕は、その後の彼女の様子を把握していない。申し訳なさそうな顔になる彼女の顔が想像された。
素直に、お願いすればよかったのに。
この時ほど、一日をやり直したいと思ったことはなかった(どうやって怪我をしたのかも分からないし、全力で試合に臨んだ結果だから、怪我をしたあの日はやり直したいとは思わなかった)。
初めまして!涼木玄樹と申します。
素晴らしい小説がたくさんある中、この小説のページを開いてくださり、ありがとうございます。
この物語は、毎朝出勤前にこつこつ書いてきた、私にとって初めての小説です。
なんとか書ききることができて、嬉しさと、ほっとした気持ちでいます。
というのも、書いている間、登場人物が勝手に考え、行動を選択し、話し、動いているような感覚を覚えたことからです。初めての感覚でした。登場人物のためにもこのお話はなんとか完成させなければ、という思いでした。
結果として当初のプロットとは大幅に変わることになりましたが、納得のいく終わり方ができたと思っています。優しい気持ちになりたい人に、読んでいただきたい作品となりました。
長さはまちまちですが、短時間で読めるように区切っています。
エピローグも含め、全47部分です。最後までお付き合いいただければ幸いです。
また、最後の部分「あとがき〜第一の作者から〜」を始めにお読みいただき、「これはどういうことだろう?」という疑問を抱いてから本編を読むというの読み方でもお楽しみいただけると思います(もちろん、ネタバレが苦手という方は最初からお楽しみください!)。
感想や、ご指摘など、どんな意見でも大歓迎です。
どうぞよろしくお願いいたします。
2019年1月 加筆⇩
小説紹介ページでも書かせていただきましたが、2019年2月28日に本作はスターツ出版文庫様の書籍として発売されます。
よりこの作品のメッセージが伝わるよう、加筆・修正を行いましたが、サイト上の小説には反映しておりません。以下、主な変更点です。⇩
・主人公のスポーツの変更
・絵本の物語を主人公による説明調ではなく、絵本の文章そのものに
・いくつかのエピソードの追加・変更
物語の大筋は変えていませんが、以上の部分が出版されるものと異なりますのでご了承ください。
それでは、本作をどうぞよろしくお願いいたします!