毒を盛る
88.毒を盛る
ニ日目は朝一番から始めて昼になり、会議室でようやく彼らは筆者への警戒を緩めた。が、嫌疑が完全に晴れた訳ではない。宿泊費はニ泊分しかない。手持ち時間は残り半日で、このままでは何も成果を得られない。手ぶらで帰国する訳には行かない。
相手側が警戒を緩めたのは、言い換えれば、疲れとダレた空気がミーテイングルームに漂い始めたのを意味する。先に書いたように私のセールス方程式は、一期一会。決めるべきは「今この時」以外に無い。このままではーーー、「じゃ、貴方の提案は社内で慎重に検討して、後日改めてーーー」という最悪の締め括りになりかねない。「後日」というのは決して存在しないのだから。反攻のチャンスを伺いながら、筆者は内心でジリジリと焦った。
ゲルマン人側は態度を決めかねていた:「地獄に隣接するように見える遠隔地の極東の日本へ、大きな資金を投じて、販売拠点を作るべきかどうかというのは、経営上の根幹問題である。それを、何処の馬の骨とも知れない「初対面の男へ賭ける!」のだ。能力・人物の両面で相応しいかどうかーーー。いきなり決断を迫られた問題としては、平和な田舎っぺの会社にとって、余りに話が大きい。「ヤツの自称トップセールス」というのも何か証拠がある訳で無し、疑えば火星人みたいに怪しい」
明朝にはドイツを立たなければならない。時間は午後三時半ごろになっていたが、筆者の向かいに座っていた社長が、自社の製品サンプル一つを何気なしに筆者の方へ押しやった:「コレを私に売りつけてみせよ!」
セールスマンなら実際にセールスしてみよ、である。ヤマトの国の「カミサマ」の力を試してやれという訳だ。弛緩した空気を打破するチャンス!に違いなかった。筆者はこれに飛びついた。
「売りつける」のは、筆者の得意中の得意で赤子の手を捩じるより易しい。「座したまま、口を動かすだけ」のセールスではいけないーーー、そう感じた。サンプルを片手で鷲づかみするや、直ぐに立ち上がり五名を眼下に睥睨した:
製品の特徴と思われる点(=掴まされた製品の特徴を、実は筆者は何も知らなかったが)を推測で手短に説明し、即興のセールスを演じて見せた。筆者には当たり前の仕事で、取り立てて言う程の見事なセールス振りではなかった。けれども、お仕舞いに五名をゆっくり見回してニヤリと笑い掛けた。国内のセールスの時と同じように、思い切って「毒を盛った」のである。賭けた:
「この超スピードの素晴らしい機械を使えば、三時間の仕事がたったの一時間で済みます。浮いたニ時間で、彼女とホテルへ行けるじゃないの!」
ミーテイングルーム内が、一瞬凍った。次の瞬間、「ホウッ!」というため息が漏れ、続いて全員が爆笑した:
「やるじゃないか、お前!! ベストセールスマンだ、間違いない!」
この世は舞台、人はみな役者である(シェークスピア)。ユーモアが潮目となり、空気がガラリと変わった:
「明日、ウチの工場を見せてやろう。ワシが案内する。ホテル代は全部当社で負担するから気にするな!」と、社長が応えた。「自分を笑わせた人間を嫌う人は居ない」の方程式の「定理」通りに事が運んだ。最も気難しく見えた社長が、筆者を最も好きになったのである。それも大好きと来た。W社側の要請で、滞在は結局5日間へ伸びる事になる。帰りが遅いので、配偶者は夫がドイツで拉致されたかと心配したろうか。




