刃物は要らない
7. 刃物は要らない
家族とガキ達とローンを抱えての一年半以上に及ぶ長期の失業。辛さは三つある。「一番辛い」のはお金の無さや適職が見つからないという苦しさではない。むしろ「目に見えない」部分にある。それは自分が「男である」事による。男の値打ちは「稼いでなんぼのもの」・「家族を食わせてなんぼ」、というオス動物特有の心理。
因みに:今の男女平等・機会均等の社会にあって、それが古風な考えだと勘違いしてはなるまい。生物進化学的に根拠のある人の本能の部分で、理屈ではない気がする。
例えば、孤独の中に置かれると「寂しい」と感じるのは当たり前の事と思うかもしれないが、本当は当たり前ではない。実は(外敵から身を守る為に)一人で居ると、不安感を生み出すように遺伝子が選択されて、人が進化してきたからだと言われる。一人よりも、集団の方が外敵に立ち向かう大きな力を生み出すからだ。「寂しい」の意味は、遺伝子が集団に加われと命じている事にある。
「男である事」も、これと似ている。健康な子孫を残す為に「セックスをさせて貰い・稼いで・家族に食わせてなんぼ」として男は進化してきた。使命感が植えつけられている。
太古の昔から、ヤリを担いでマンモスを何頭取って来て女と子に食わせてやれるかが男を測る物差しで、そんな男を女も優先して選択してきた。一緒に居て食えない男は進化の過程で「役に立たないオス」として淘汰された。証拠に定職の無い男は、今の時代でも女にもてない。
人類史七百万年掛かって出来上がった男の精神構造で、骨の髄まで刷り込まれているから、現代になってさえ遺伝子が職の無い男を苦しめる。
英語でフリーターと言えば恰好良さそうだが、実はマンモスを狩れない落伍者。遺伝子が本能的に「強い責任感」を生じさせ、結果的に「値打の無い人間」と思わせてしまう。中年男の自殺は大抵これで、マンモスのせいである。
長期失職の二番目の辛さは精神的な恐怖: 一緒に学校を卒業した同級生は何処かの会社で、もう二十年も先を走っている。キャリアを積み重要な仕事を任されて、係長か課長くらいにはなったろうか? 四十過ぎと言えば油の乗った年代で、既に世で名をなし活躍している人も少なくない。
だのにーーー自分は食うに困り、スタートラインにさえ取り付いていない。どんなに頑張っても生涯追いつけないーーー。一見競争意識と似ているが、少し違う。競争意識とは対等な者同士に生まれる感情。そうではなく、「じっと(我が)手を見るーー」啄木の心境に近く、「人生の落伍者」をしみじみと噛み締めるからだ。
中年期の5~10年は人生の中で最も充実すべき大切な時期である。若い時代に鍛錬した苦労が花を咲かせ実を付けるべき時だ。そんな大事な年月が、取り返しもつかずズルズルと失われて行くーーー。「人生を失いつつある」という自覚は空恐ろしく、三十年後の今の歳になっても時々悪夢にうなされる。
☆教訓⑤: 中年になっての失業の辛さは、ズルズルと音を立てて人生が失われて行く事。
三番目に辛いのは、夫婦である事にある。
先に述べた二つの辛さだけなら、男は何とか耐えらない事は無い。自分の能力の無さと思えば諦めも付くし、ある意味、自業自得だから。が、耐えるのを要求されるのは、愛する者達、配偶者と家族をも「道連れ」にするからだ。これは辛い。
これに平然と耐えられる男、或いは父親が居るだろうか? 家族を幸せにしてやりたいと、願わない男は居ない。女・子供の幸・不幸が、男の「器量次第」という現実は、器量が足りない男には残酷物語。将来を見込んだからこそ、女が惚れたし結婚してくれた筈なのだ。そう思うと男はいたたまれない。
夫婦は、良い時にはこれほど楽しい関係はない。掛け値無しに相手の喜びを自分の喜びに出来るから、喜びは倍になる。他人の前では、恥ずかしくて言えない自慢話も、許される。それだけに一旦暗転すると、男は独りの時の「倍の辛さ」を味わう。映画のトラさんではないが、文字通り「男は辛いよ」以上のものがある。
逆境でこそいたわり合うのが夫婦じゃないかと言うのは、経験の無い人。失意の夫を慮って妻が慰めの言葉を掛けようとするのは、一見心温まる夫婦の情愛に見えるが、男とは複雑なもので、こんな場合の慰めの一言一言が人格に拘わる問題で、「男の誇り」を一つ一つ潰して行く。慰めは残酷な刃物なのである。
こんな男を夫に選んで「私貧乏くじ引いたのね」と、女はがっかりしているに違いない。「親・親類に対して肩身が狭かろう」と様々に邪推して、男は女の心の内を覗き込む。女も男に「覗き込まれている」と判るから、二人の気持ちがすくむ。
路上生活のホームレスやルンペンを見給え。プライドの無さ・惨めさにどうして耐え得るとお思いか? 男が殆どだが、彼らが「夫婦でない」のにお気付きだろうか。無論、妻や子を養うだけの収入が無い為が一番ではあるが、それとは別に「夫婦でない事」が、男に「安らぎを与えている」と思考してみた事があるだろうか? 彼らは家族への責任という重圧が無い。道端をふらふら歩くルンペンの姿を眺めて、心から羨ましいと思った。
男は案外デリケートな生き物で、このストレスが原因でインポ(不能)になって女を愛せなくなり、何割かは生涯回復が出来ないと聞く。悲劇と思うけれども、ただ、女の側は少し違うようだーーー。ずっと後になっての話だが配偶者に訊いてみたら、こんな風に応えた:
「セックスなんて犬でも猫でもするではありませんか。どうって事ありませんわ」
☆教訓⑥: 仕事が無い事で、男は誇りも何もかも失くす。男を殺すのに刃物は要らない、ただ、女が慰めてやりさえすればよい。