桃太郎
36.桃太郎
「肉盛り屋」のドングリ目君は新入りではあっても、先輩から委譲されて、特定の工場を詳しく知っている。 こっちはその「情報が狙い」なのは言うまでもない。 ウンコを逆さまに出すのと引き換えに、筆者は多大な「見込み情報」を手に入れた。
二十近くも歳が離れていたが、彼は筆者を煙たがらず何故かウマが合った。助手席に乗せたドングリ目君の案内で、中堅の工場を順次回り始めた。 無論、工場内では一緒に行動・同席する割合が多かったけれども、中には訪問した工場内で、彼は(筆者に関係の無い)A部署で自分の専門をPRして「肉盛り仕事」の注文を取った。
筆者の方では(彼が事前にアポを取って呉れていた)別のB部署やC部署へ行き、一人で自分の商品をPRした。これは先に安井親分の処で紹介した「オレに任しとき!の定理」そのまま。安井親分と同じく、ドングリ目君も同じ時間内に二倍の仕事がこなせたから、大いに喜んだのは言うまでもない。
受注になればK社内で彼の手柄になるのだから、彼が筆者を好きになり、よくなついたのは当然である。電車を利用しての訪問に比べて、営業効率もぐんと上がったから、上役のフカも感謝した。
一緒に同行訪問する時に、(販売店や代理店は)「必ずメーカーと同席」しないといけない(或いは、そうしないとメーカーに対して非礼だ)と、一般に思い込んでいる。一方でメーカーの方でも販売店に対して、何がしかの役割を「期待している」風にさえ見える。それは顧客への受注の根回しを販売店に期待するためであろうか? これが世間の常識で、互いが相手に頼っている。
だから、「販売店と筆者」の間の関係で、訪問先で筆者がたった一人で活動する「任しとき!の定理」は常識に反しているように見える。が、そんな事はない: 例えば、仲の良い夫婦が必ずしも一日中一緒に行動するとは限らない。お爺さんは山へ柴狩りに、お婆さんは川へ洗濯に出かける桃太郎の童話のように、日本では別行動が古来からの習わしで、分業なのである。
自分の商品の説明をしている時、そこへ販売店の人が同席しようがしまいが関係が無く、貰った情報を生かすも殺すも「自分の腕次第」と筆者は考えていた。販売店の人に同席して貰って、仮に彼に「何かの役割を期待」しないと売れないものならば、メーカーである自分にはセールスの「能力がありません・自信がありません・助けて下さい・死刑にして下さい」と言うのと、同じではないか? そんな風に筆者は考えていた。
死刑になるほど自分に自信が持てないなら、セールスマンを廃業しなさい。見込み情報を貰う以外に、筆者は1%も他人をあてにした事は無かった。自ら客を説得し・なだめすかし・脅し、自ら受注を決めた。何もかもやるのが、自分の仕事と考えていた。
何もそこまで「しゃかりき」にやらなくても、と人は思うかも知れない。「仕事も生きるのも、適当にやればよい」のとは違った。骨身を惜しまず給料分以上に働いていたからで、その意味で筆者はサラリーマンでありながら、最もサラリーマンらしくなかった。思うのに、筆者をそうさせたのは、過去の酷い失業体験に根差している。(二度と職を失ってはいけないという)強迫観念と家族に対する責任感が、損得無しに筆者を駆り立てていたのかもしれない。
そんなやり方が良かったかどうか、当時の筆者に確かな確信があった訳ではない。けれども後から振り返ってみると、この時の考え方と経験は以下の二つの形で筆者の身体に浸透し血肉となって、後半生を根本から支える哲学となった:
①
一流のセールスマンへと導く切っ掛けとなった。受注出来るかどうかについて、即ち売り上げを上げる為に他人を当てにしない習慣は、(生きてゆく為に)自分個人の腕を磨き上げる以外に無いと悟った事だ。本当の意味で、プロのビジネスマンを作り上げた。
②
自分の腕次第という考えを裏返せば、もし受注出来なければ、それは販売店の責任でもないし、顧客の責任でもないという事を意味した。一般によくあるケースだが受注出来なかったセールスマンは、「販売店が悪かったから」とか、「ユーザーに買う意思が無かったから」とか「ユーザーに買うだけの予算(お金)が無かったから」と言う風に、自分以外へ責任を押し付けがちだ。
筆者はその正反対で、こっちが売ろうとする製品を「買うかどうか決める」のは、顧客である相手ではなく「筆者が決める問題」だと当時考えていた。つまり売る側が決めるのだ。大抵の人は、買う側が決めると考えている。だから大抵の人は、トップセールスマンにはなれない。
奇妙に思われるかもしれないが、これは「販売とは何か?」・「売り手と買い手は五分五分の対等、むしろこっちが六分」を筆者に考えさせる重要な切っ掛けとなった。大事なので改めて後ほど詳細に説明するが、後年会社を経営する上で大局的な立場に立った時に、大変有用で基礎的な思想になった。