エリートコースの転落
3. エリートコースの転落
今回不採用になった先の四十二の男は、実は三十数年前の筆者と同じ。当時、尾羽打ち枯らした失業者で、カアともよう鳴かなかった。
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何を隠そう歴史を紐解けば、筆者も同じくエンジニア。しかも生意気だったと来た。大学の工学部を出て、世間で言う一流企業T社(大阪)へ就職した。二十代の後半に、当時昭和四十五・六年であったが、海外へ派遣された。持ち出せる外貨が最高500ドルと制限されていた時代にあって、これは一種の誉れ、社内でエリートコースと目され、相応しく、女にも持てた。
因みに、筆者の今ある語学力はこの時期に鍛錬されたもの。当時の上司も優れた人だった。語学の知識は生涯を通じて宝となり、後年ビジネス面で筆者を助け、現在も恩恵に浴している。もし若い人からアドバイスを求められるなら、迷う事はない:「若い時代に、実用的に使える英語をマスターしておきたまえ!」。貴方の人生で、チャンスと視野を世界規模に広げてくれる。疑うなかれ、しくじりを重ねた筆者の人生の経験の中で、証拠は様々な方面から得られている。
良い会社ではあったが、給料が安かった。それが嫌さに八年在籍した後、文字通り「語学力を生かして」地方都市高知市の中規模のベルギー外資系会社FN社(=FN Herstal)に転職した。序に社内の美人をたぶらかして(=本人の弁)かっさらって同行させたのが、今の配偶者。先般筆者をカアでやり込めた女で、婚姻を結んで以来抜群の記憶力はしばしば筆者を窮地に追い詰める。
転職で多少アップしたとは言え、大した年収でもなかったがーーー、地方都市高知で物価が安かった。お陰で数年経ってから家も建てた。太平洋を見下ろす高台に建てたから心地が良く、二階の窓からアメリカ大陸が見えたくらいだ。前職のT社に留まっておればこうは行かなかったろう。決断は人生に大切である。
仕事は楽だったから狂ったように働きまくる必要も無かった。家族で贅沢な外食をし、海辺のレストランを巡って伊勢海老をたらふく食べ回って栄養状態を改善したから、なかなか豊かな暮しぶり。この仕事を生涯続けてもよいと思った。
「不幸にならない為に金を貯めておく」なんて思いつきもしなかったし、危険な事はめったになく、人生順風満帆とは正にこれで、天国の神様以上の生活。
ところがーーーである。あにはからんや神様より優位は長くは続かなかった。不幸というのはある日何の前ぶれも無く突然開始する。人生も半ばの四十になって、勤務先のFN社が日本の事務所を閉鎖することになったのだ。本国ベルギーにある本社の調子が悪くなったからで、青天の霹靂・予想外・死ぬほどびっくりとはこの事で、天国の生活に終止符が打たれた。妬み深い神様が仕返しをしたのである。
こっちは、大事なチン毛に白いものがチラホラ混じり始めたナイーブな年頃。ショックは二重で、職を失って酷く途方に暮れた。定年間際に肩たたきに合って優雅な割り増しの退職金を手にする、という場合とは違った。幼児二子が居る為に配偶者に「働け!」と言う訳にも行かず、返済すべき家のローンの支払いが迫り、しかも預貯金は舌足らずという苦境に立ち至った。マメなアリではなく、遊び過ぎたキリギリスだ。自分が寓話のモデルになるとは思わなかった。
元はエリートコースだったってーーー? これはプライドだけが高い頭でっかちな、世の中の仕組みを知らない「お坊ちゃん」の代名詞。会社という庇護と看板を失えば、ただの薄汚い「中年のオッサン」が一人出来上がっていた。
戦いに勝利する時、私達は自分に「資質があったからだ」と思いたがる。なに、多くの場合、本当は「偶の然」と「運の良さ」に過ぎないのだが、これに気付かない阿呆。そんなものを一家の大黒柱と錯覚して頼りにしていたから、幼児を含めた家族四名は厳しい試練に直面した:
建てた家が高知市にあったからだが、地方都市の悲しさ、失職後その地で一年頑張って足まめに探したが、仕事を見つけられなかった。観光施設でトイレ掃除の仕事はあったが、臭いのは嫌いだから止めた。
失意と家族を抱えて、生まれ故郷の神戸市へ舞い戻って来た。当時年老いた両親は須磨の潮見台という処に健在であったが、同居せずに神戸の西の端の明石市に近い辺りに賃貸を借りた。
家賃が安かったから、その分狭くてひしめき合って暮らす事になったが、敗残の身を晒してこの歳で親にぶら下がるのが辛かったからでもある。今の世の安易なスネカジリのプー太郎息子とは、せめてその辺りは立派に違った。
神戸で改めて職探しを開始した当初、エリート意識と錯覚だけはたっぷりあった。A大学工学部卒・語学堪能・経験豊か・人物は極上ーーー。これだけの嫁入り条件が輝きを放っていた。採用する側も追加訓練の手数が省けて、引く手はワンサとあるに違いない、とたかを括っていた。
ところがどっこい、世間の会社は例年以上に採用意欲が旺盛ではなかった。「引く手ワンサ」と考えていたバカは本人だけ。学校の部活なら気楽だが、中年が就活を始めて数ヶ月以内に、世の九九%の企業はバカではないと分かった。その意味で日本の将来は明るいと言える。
伊勢海老太りした四十男に来て欲しいという情のある大手会社は、一社も無かった。三菱重工からも本田技研からも、日立製作所も関西電力からも要請が来なかったから、彼らは「目が肥えていた」と言える。
実はこれは当たり前であって、大手は中途採用をしないのである。常識というのは、世間へ出て初めて身につくと気付いたが、明らかに遅すぎた。大企業に就職しようというロクデモナイ考えを、きっぱり捨てざるを得なかった。
つづく