赤樫の木刀
13. 赤樫の木刀
全社員へ突然「早退せよとはーーー、このけちけち会社が」、まさかと思って筆者はあっけに取られた。しかし同室の同僚らは誰一人あっけもそっけも取られず、「またかーーー」という風に手馴れた感じで帰り支度を始めたから、不審に思った。
隣の同僚に「何かあるのかい?」とそっと訊くと、よくぞ訊いて呉れたとばかりに、ニヤリとして耳打ちが反って来た:
「『出入り』があるんだよーー、今夜」
「デ・イ・リーーー!?」
こっちの怪訝な面持ちに、彼は追い打ちを掛けた:
「知るまいが、この事務室の続きに社長の寝室があるんだよ。そこが奥之院だ」
「シ・ン・シ・ツ? オ・ク・ノ・イ・ンーーー?」 ますます不審である。まさか会社に好きな女でも飼っているのかーーー? 飼うのは犬じゃ足りないのか。筆者は想像が逞しいほうである。
食肉の輸入卸販売で儲けて、社長は桁外れな大金持ちと伝え聞いていた。高級住宅地に広大な屋敷でも構えているのだろうとばかり思っていた。だのに、雑多な臭いに満ちた市場の屋根裏が社長の生活の場だというのだ。屋根裏のスペースを、会社の事務所と生活の場で分け合っているというのだ。事務室が立て込んでいる筈だ。
奥さんもそこに一緒に住んでいるのか? ウチの借家住まい以下だから、にわかには信じられなかった。
ぎゅうぎゅう詰めの事務室・暗い照明・屋根裏で生活する大金持ちの社長ーーー、このアンバランスは一体何処から来るのか? 会社の創業者には、個性の強い人も居て、往々にして偏屈に超の付くドケチな人物がいると聞いた事はある。出世しても、身に浸み込んだ貧乏性が抜けずケチが徹底しているそうだが、ここの社長はたまたまそれなのかーーー? 様々な憶測が筆者の中で駆け巡った。
「ヒ・カ・エ・ノ・マーーー?」 肉体美の若い夜伽の女が、毎夜そこに侍っているんだなーーー。超大金持ちの肉屋の殿様と聞くから年がら年中姦淫しっぱなしなんだ、うらやましい。ついそんな方へ邪推が行くのは、こっちの品の無さか。
けれどもここは江戸城の大奥ではない:
「控えの間に木刀を構えた腕っ節の強い用心棒が、毎晩寝泊りしている」
「ーーーー?」
女でないと知ってがっかりしたが、あにはからんやの展開になった。
「木刀は本赤樫だから、強靭で折れにくいんだ。一本五万円するんだぜ。殴られると頭が赤いざくろになる。下からやられるとキンが玉に砕けてギンタマだ。用心棒は二本持っているから、一本が折れても大丈夫ってわけさ。複数の敵にも対処できる」
筆者の笑顔が強張った。それまで同僚らが仕事中に、筆者の方をチラチラ眺めていたのは、どうやらこっちの「肝試し」をやっていたらしい。大学出が何時辞めるか、賭けをしていたのだ。魅力的な給料だったが、「肝試し」に弱いこっちは、間もなく辞表を提出した。「ああ、そうかい」と引き止める懐柔策も無く、向こうからあっさり始末をつけてくれた。