記憶
人は私たちを憶屋と呼ぶ。記憶を形に詰める者。
ベルが涼やかな音を告げるのが、私たちを必要としてくれるひとがいるというサインだ。
開店前に表を綺麗にするために表ドアのカーテンを引くと、お客さんの顔がガラス越しに目の前にあってびっくりしてしまう。
きゃっと飛び出しそうになった悲鳴を飲み込んで、急いで鍵を開けた。
「香屋のばあさま、朝一番ね。お付きの方は連れてきていないの?」
扉の前には、いつもいい香りをまとったばあさまが、申し訳なさそうに立っていた。
ストールの刺繍が朝日を反射してキラキラと光る。
「ごめんなさいね。この時間はみんな忙しいから馬車でそこまできたの。どうしても待ちきれなくて、開店前から待っていようと思ったのよ」
「大丈夫よ。お師匠様がきっちり間に合わせてくれたから。さあ、中に入って」
染め粉にも使われる香の原料で染まった、ほのかに赤い手を握って、ばあさまを中に招き入れる。
その手は冷たく、この老齢の淑女がどれだけ自分たちの仕事を待ちわびてくれたのかが伝わってきた。
まだ火をいれていない暖炉前の椅子にばあさまを導く。
「こちらへどうぞ。今温かいお茶をいれるから」
火種をつけて薪をくべるのを見ていたばあさまが、そわそわと落ち着かないのが背中越しにもわかった。
しばらくして痺れを切らしたようだ。
「ありがとう。アシャ。けどそれよりも」
ばあさまの言いたいことは皆まで言わずともよくわかった。
商品がもうできていると聞いて、その手にうけとるのを待ちきれないのだろう。
そんなばあさまをやんわりと諌める。
「ダメよ。はやる気持ちはわかるけど、記憶はゆったりとした気持ちで味わうものなの。焦って見たらその光景は残っても、そのとき感じた気持ちを置き去りにしたり、ちがったものにしてしまうから。私たちは気持ちまでは小瓶に詰められないの」
「そう、そうだったわね。こんな年になっても我慢がきかないのはだめね」
ばあさまは一瞬落胆したようだったが、わかってくれた。
とはいえ、ばあさまの気持ちもよくわかる。
はやくお茶の用意をしようと勢いよく内間に足を向けると、目の前に壁があってのけぞる。
不機嫌な顔をしたお師匠様が私の前に立ちふさがっていた。
いつもならこの時間には寝床に潜り込んでいるはずが、ばあさまの記憶詰めで仕事が長引いてそのままおきていたのだろう。
目の下のクマが不気味さを増幅している。
くしゃくしゃの髪もお客さんの前に出る体ではないが、ばあさまなら大丈夫だろう。
「アシャ」
私の名を呼ぶ声も、心なしかいつもより低い。
「はい」
「お客にお前の美学を押し付けるんじゃないといつも言ってるだろう」
「……はい」
お師匠様に何度も言われてきたことだが、このことに関してはなかなか納得できない。
お客さんの前で訴えるわけにもいかず、一応の返事をするのだが、自然と勢いもなくなる。
「その声は、どちらさま?」
ばあさまが、聞きなれない声にびっくりしたようだ。
もしかしたらこの不穏な雰囲気に助け舟を出してくれたのかもしれない。
「申し遅れました。店長のクオークです」
「まあ、あの店長さん。じゃあ、小瓶に詰めてくださるのはあなたなのね。南エグリントンで香屋を営んでいるセシリアと申します」
挨拶のために立ち上がろうとしたばあさまをお師匠様が留める。
「アシャが失礼をしました。確かに記憶を味わう正式な作法としてはアシャの言った通りですが、これはセシリア様ご自身の記憶ですので、セシリア様の思うように味わっていただいて構いません。ご希望でしたら、すぐにでも小瓶を持ってこさせます」
ばあさまは少し考えると、首をふった。
「いいえ。お茶を先にいただこうかしら。先ほどは気持ちが逸っていたけれど、私の見たいものはその光景ではなく、その時に感じた気持ちなのよね。アシャの言葉で思い出したわ」
それからお師匠様に笑いかける。
「それにね、私はアシャに弱いのよ。小さい方の孫と同じくらいの年だからかしら。あまり叱らないであげてくださいな」
珍しく表に出てきたお師匠様は、出来の確認を私にまかせてすぐに奥の自室に引っ込んでしまった。
ばあさまの店から卸した香を焚こうと好みを聞くと、ばあさまは自分の懐から香を取り出した。
「これを焚いて頂戴」
火を付けると、渋みのある深い匂いがふわりと湧き出る。
どうしてだろう、なぜだかとても落ち着く気がした。
「久しぶりに香を練ったの。あの人には遠く及ばないけど、うまくできたみたいで良かった」
お茶を飲んでリラックスした様子のばあさまは、椅子にゆったりと腰掛けてガラスの小瓶の蓋を外した。
小瓶から、ばあさまの手と同じ、ほのかに赤い雲が出てきた。
私の予想通り、ばあさまの記憶は美しい色をしていた。
記憶を吸い出した時から、絶対そうだと思っていたのだ。
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アシャが焚いてくれた香がふわりと鼻を擽る。
これは私にとって大切な香り。大切な時、いつもとなりに寄り添っていてくれた香り。
蓋に手をかけた時、自分が呼吸を止めているのに気づいて、一つ深呼吸をした。
小瓶は力をそれほど込めずとも、すんなりと口を開いた。
しばらくなんの変化もなかったが、次第に遠いところから音が近づいてくる。
赤ん坊の鳴き声だ。
「元気な子だ。こんなに足を動かして。泳いでるみたいだ」
「きっと私のお腹にいる時もこんな風に蹴っていたんだわ」
「こうやってみると君のお腹が破れなかったのが不思議だよ」
そうあの人の声は、こうだった。
頭の中で思い出そうとしてもうまくいかなかったあの人の声が、きちんと耳を震わし、心の奥まで届く。
膝にだいていた赤ん坊の重さが、今もここにあるような気さえする。この子は昔から元気で、泣き声も他の子よりずっと大きかった。
「不安なのね。こんな狭いところから、こんな広いところにいきなり連れてこられたんだもの」
私はこのとき、自分のお腹を撫でたのをはっきり憶えてる。するとあの人も後ろから私に手に手を重ねたのだ。
「お疲れ様」
その言葉が嬉しくて、涙が出てきた。
何十年も経っているのに、今の私も、やはり涙を止めることはできなかった。
あの人は私を胸にだいて、苦笑した。
「今度は僕の番だね。きっとここで一人前の香師になってみせるよ。そしてきみたちを幸せにする」
なさけないことに、その時の私には何とも無謀な話だと思っていた。
その時のお師匠様のお弟子さんはすでに十三人いて、あの人は一番下っ端の十三人目になったばかりだった。
入った年齢も他のお弟子さんよりずっと上だった。
早くいた人が工房を継ぐのが普通で、その他の弟子は工場で量産品を作るか、田舎に戻って家業を継ぐものだ。
それをあの人は工房は継がないながらも、お師匠様の次期印のもと、まだ小さかったこの街に自分の工房を作ってしまった。
大変なこともあったけれど、いつもあの人とこの子と私とで、乗り越えてきた。
「愛しているよ」とあの人は、私と腕の中の娘に言った。
私は夫と子供に囲まれて、これ以上にないくらい幸せだった。
いや、今も幸せだ。
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「夢のようね」
ばあさまは、閉じたまぶたから流れる涙をぬぐいもせずに呟いた。
「夢じゃありません。ばあさまの中に大事にしまわれていた思い出よ」
「ええ。でも……ああ、あの人の声がもう一度聞けるなんて」
ばあさまは感極まった様子で言葉を途切れさせた。
「私はね、恐ろしかったのよ。あの人が逝ってしまって、私も目をダメにしてしまってから、自分の記憶にどんどん自信がなくなってしまったの。最初は声、次に顔、それから思い出まで疑ってしまったの。あの人、本当にこんな声だった? 顔だった? これは本当にあの人がいったこと? どんどん忘れていく、というよりも遠くなってしまった気がしていたの」
自分の胸に手をやり、ばあさまは呟いた。
その手の内の小瓶が、炎の色を反射して赤く光っている。
「でも、やっぱり遠くになんて行っていなかった。ちゃんとここにいたのね。顔が見えなくたってわかるもの。あの人の声も、思い出も私がきちんと持っていたのね」
婆様の手の内の小瓶に、ぎゅっと蓋を詰める。
この時間を邪魔したくはなかったけれど、この小瓶は有限のものだ。
詰めた魔力を無駄にしてしまうと、それだけ見れる時間が少なくなってしまう。
「私ね、記憶ってばあさまの手と似ているなって思うの」
そのままばあさまのしわしわの手を包んだ。
「ばあさまの手は、皺がいっぱいで、それから花の染料で赤くなってしまっているでしょう。手はちゃんと覚えてるのばあさまがどれだけの花をその手に持って抽出してきたかって。それと一緒で記憶もちゃんと覚えてるのよ。嬉しかったこと、悲しかったこと、大事な人のこと」
ばあさまはしきりにそうねと頷いていた。
ばあさまは私がこの街へきたときからずっと優しくしてくれた。
緊張で肩の張った私に、ラベンダーがベースの香をくれたのだ。
そして今、私の手の中にもその時と同じ色のものが握られている。
でもあの時と全く一緒じゃなくて、ばあさまがてづから調香してくれたものだ。
ばあさまが馬車に乗り込む時、本当は追いすがって泣きたかった。
私は憶屋の見習いだけど、だからこそ記憶は記憶でしかないということを知っている。
だからいくら小瓶に記憶を保管して何度も何度もばあさまの顔や声を見ることができるとしっていても、この別れの時はさみしい。
もう会えないかもしれないという言葉を何度も飲み込んで、ばあさまにお別れを言った。
ばあさまは旦那さんと暮らしたこの街を離れる決心をついにしたそうだ。
工房はお弟子さんに譲って遠くの娘さんの家族と一緒に住むと、嬉しそうな寂しそうな表情でばあさまが言った時から、この時がくるのは知っていた。
「ばあさま、お元気で」
「あなたも健やかに」
ばあさまはそう言って、額にキスをして、旦那さまのいない新しい思い出へと旅立った。
しりすぼみです。