錆びた歯車⚙️
零
(あたたかい、もの)
ここは、いつもひどく冷えているというのに。 天井の染みの奥、コンクリートの隙間に身を丸めていると、ときどき下の世界から、ドロドロに煮詰まった熱が這い上がってくる。恐怖だったり、安堵だったり、誰かを正しく裁いたときのねっとりとした快感だったりする。
それをただ、ぼんやりと吸い込む。名前などとっくに忘れた。
いつ、どうやってこの床のどこかに挟まってすり潰されたのかも思い出せない。
ただ、私という残骸が血を流して乾いたあとの溝を、今の人間たちが「正論」というピカピカの道具を片手に、寸分違わずなぞって生きていることだけが、乾いた手触りとして分かる。
一
職員室のエアコンから、微かに油の焦げる匂いがした。
国語教師の三好は、スチールトレイに置かれた保護者からの抗議文を見つめている。
『うちの子をクラスのグループから外さないでください。
担任の先生も、見て見ぬふりをしているなら同罪です』
頭の奥で、ジリジリと耳鳴りが鳴る。
――同罪、か。
反射的に言い訳を探す。
「俺だって精一杯やっている」
「学校全体がこういうシステムなんだから仕方がない」。
指先は小刻みに震えるが、その紙を破り捨てることすらできない。
数日前、昼休みの職員室。 主任の高村が、若手の臨時講師である木下に向かって、穏やかな、慈愛に満ちた口調で言った。
「木下先生、君の担当クラス、また提出物の不備が目立つね。
組織の一員として、子どもたちの未来を守るためにも、もう少し私たちの『正しい輪』に馴染む努力をしてくれないか。
君のためを思って言っているんだよ」 怒鳴り声など一切ない。
それは完璧な「善意」と「正論」の衣をまとった刃だった。
周囲の同僚たちも、コーヒーをすすり、答案用紙に赤ペンを走らせながら、誰もその洗練された排除に異を唱えない。
そのとき、三好はどうしたか。
木下と目が合った瞬間、すっと視線を外し、自分の手元のプリントに目を走らせたのだ。自分がターゲットにならないための、あまりにも自然で醜い裏切り。
だが、三好の脳内ではその保身さえも、「ここで波風を立てては学校全体の信頼に関わる。組織を守るためのやむを得ない選択だ」という衣に包まれていた。
その夜、木下のロッカーに投げ入れられた「不要品」という落書きの噂を聞いたときも、心の中では「自分じゃなくてよかった」と安堵の息を吐きながら、顔だけは同情の仮面を被った。
そして、その空気は容赦なく教室へ飛び火した。
木下のクラスの生徒が一人、「みんなの輪を乱す問題児だから、正しく矯正されるべきだ」というクラスメイトたちの正義感によってクラスから締め出され、冷え切った冷笑の餌食となって学校から消えた。
(俺たちは、何をやっているんだ……?)
胸の奥で、倫理の残りかすがチクリと痛む。
しかし、その痛みはすぐに、「正しさへの逃避」によって塗りつぶされていく。
ここで木下をかばえば、高村に目をつけられ、職員室での居場所を奪われ、家族を養うための生活や人事評価に致命的な傷がつく。
「波風を立てないことこそが、組織の秩序を守るプロとしての知恵だ。
すべては子供たちの健全な教育のために」 異質なものを排除し、空気を読んで群れに寄生する。その処世術を、子どもたちは毎日、職員室の机の並びから、教師たちの微小な視線の動きから、そして「誰かのためを思って」繰り出される無数の正論から、完璧にトレースしている。
チャイムが鳴る。
三好は震える手で抗議文を折りたたみ、引き出しの奥底へ押し込んだ。
教壇に向かって歩き出す足取りは重い。
喉の奥までせり上がってきた吐き気を飲み込み、「私は教師として正しいことをしている」という作り笑いの仮面を顔に貼り付けた。
二
(ああ、まただ)
すぐ下を、その足音がかすめていく。
誰かが怯え、誰かが「正しい矯正」という名の暴力で踏みつけられ、踏みつけた人間がまた別の誰かの正義に怯える。
その摩擦熱だけが、この乾いた校舎をかろうじて温めている。
理科室の蛇口から、ぽた、ぽた、と生ぬるい水が落ちる。
中学二年の蓮は、手元のスマートフォン画面をスクロールしながら、くすくすと喉を鳴らす。
クラスの共通グループチャット。
そこに流れる冷ややかな文字の列は、昨日まで自分たちが教室の隅で浴びせていた冷笑の、きれいなデジタルコピーだった。
「ねえ、昨日さ、木下、職員室で高村にめちゃくちゃ正論で詰められてたよね」 隣の席の優斗が、フライドポテトをつまみながら言う。
「見た見た。マジで顔面真っ青だったよな。
あんなルールも守れない使えない奴、このクラスにいたらマジで全体の迷惑だわ」
「つーか、担任があんなんだから、あのクラスの生徒も要領わりいんだよ。
あいつらまとめて、この学年のために視界から消えてくんねえかな」
蓮は深く頷きながら、『それな。みんなのためにも当然の処置』と打ち込む。
心が痛むかと言えば、微塵もない。
自分たちが「正しい側」「正義の執行者」に立っているという確かな熱が、心地よく体温を上げていく。
異質なもの、空気の読めないもの、群れからはみ出たものは、みんなのために排除されて当然だ。
だって、大人たちだってそうだ。 テレビを開けば、世間から外れた人間が「社会の秩序を守るため」という名目でコメンテーターに嘲笑されている。
会社では上司が「組織全体の効率化のために」という善意の建前で「使えない部下」を追い詰め、誰もそれを助けない。
家庭に帰れば、父親が疲れた顔で「あそこの家は計画性がなくて周りに迷惑をかけたらしいぞ」と、正しい教訓を垂れる。
大人がやっているのは「組織の健全化」や「正当な指導」で、自分たちがやっているのは「学級の秩序維持」。
名前が違うだけで、やってることは全く同じだ。
誰もが悪事を働いていない。誰もが「正しいこと」「みんなのため」を信じて、その刃を振るっている。
ふと蓮は、昨日の放課後の光景を思い出す。
職員室の扉の隙間から中を覗いたとき、国語の三好が、主任の高村から「組織のため」の正論を浴びせられている木下を見て、すっと目を逸らしたのを見た。
見なかったふりをして自分の机にしがみつく三好の背中は、あのときの木下を次の生贄として差し出すことで自分の正当性を守るような、冷酷な保身の色をしていた。
教師がああのざまだ。
大人が皆、自分の正しさと保身のために誰かを踏み台にし、目に見えないカーストの頂点にしがみついている。
その構造の一番手頃なミニチュアが、この教室なのだ。
誰もが「正義」を盾にしながら、その実、誰かを殺している。
「でさ、次の的、誰にする?」 優斗がニヤニヤしながら蓮の肩を叩く。
「昨日、提出物出せなかったあいつ、クラスの輪を乱すからさ、そろそろ徹底的に指導しねえとな」 「ウケる。明日はみんなで正しく追い詰めてやろうぜ。
誰も止めるわけないし、だって俺ら間違ったこと言ってないし」
蓮は画面を閉じ、机の引き出しの奥から、昨日の授業で配られた真っ白なプリントを取り出す。
そこに、自分の名前を「正義」のつもりで乱暴な字で書き殴った。
参
(いたいよ)
チャイムがけたたましく鳴り響き、冷え切った空気が教室を引き締めた。
扉が開き、「私は正しい教師だ」という作り笑いの仮面を貼り付けた三好が、絶望に目を隠しながら、重い足取りで入ってくる。
蓮はその教師の顔を冷めた目で一瞥し、スマホをポケットに滑り込ませた。
天井の隙間で、私は乾いた爪でコンクリートを引っ掻いた。
音は誰にも聞こえない。
体はとうにすり切れて、ただの染みと錆びた匂いしか残っていない。
地獄への道は、いつだって善意と正論の白亜のレンガで舗装されている。
誰も悪者になりたくないからこそ、誰もが誰かを「正しい理由」で踏みつぶしていく。
下の世界で新しい歯車が噛み合うたびに、古い古傷がひりひりと疼く。
助けて、なんて言わない。
ただ、
私をすり潰したのと同じこの正義の歯車が、
今日も明日も、
誰の顔の皮をも美しい笑顔の下で剥ぎながら回り続けるのを、
こうして天井の裏で、
冷たく乾いた音を聞きながら眺めていることだけが、
今の私を繋ぎ止める唯一の熱だった。
(完)




