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告白

 告白というものは、もっとまともな場所でするものだと榊原澄玲は思っていた。


 夕焼けの帰り道とか。

 放課後の教室とか。

 夏祭りの帰りに、少し遠回りした神社の石段とか。


 少なくとも、病院の白い病室で、モニターの電子音を聞きながらするものではない。


 けれど、現実はいつだって理想通りにはいかない。


 その日、雨宮透真は一度心臓を止めた。


 ほんの数秒だったのかもしれない。

 でも、澄玲にとっては世界が終わるのに十分すぎる長さだった。


 モニターの音が変わった瞬間、空気が凍る。

 看護師の声も、医者の指示も、九条律希の焦った声も、全部遠くなった。ただ透真の手から力が抜けていく感覚だけが、異様にはっきり残る。


「……透真」


 返事がない。


 呼んでも。

 手を握っても。

 指先を強く掴んでも。

 何も返ってこない。


 怖い、では足りなかった。


 人がいなくなる瞬間を、こんなにも突然目の前に突きつけられるなんて思わなかった。いや、本当はずっと分かっていたのだ。透真は危ない。嘘をついている。時間がない。頭では理解していたはずなのに、いざその瞬間を前にすると、全部が無力だった。


「……いや」


 澄玲は何度も小さく首を振る。


「……いや」

「離れて!」


 医者の声が飛ぶ。

 看護師が押し戻そうとする。

 でも、澄玲は透真の手を離せなかった。


 離したら、本当にどこかへ行ってしまう気がしたから。


 律希が何か叫んでいる。

 医者が処置をしている。

 機械音が部屋に響く。


 その全部の向こうで、澄玲の中にひとつの思いだけがはっきり残った。


 ――今言わなきゃ、終わる。


 今を逃したら、一生言えない。

 もう二度と、透真に届かない。


 それだけは嫌だった。


 返事なんていらない。

 報われなくていい。

 ただ、自分の十年を、ここで飲み込んだまま終わらせることだけはできなかった。


 澄玲は透真の手を両手で包み込む。

 震えているのが自分の手なのか、透真の指先なのか分からなかった。


「……透真」


 声が掠れる。

 喉がうまく動かない。


「……私」


 それでも言う。


「……ずっと」


 息を吸う。

 涙が頬を伝う。


「……好き」


 その一言が、ひどく重かった。

 ずっと胸の奥に抱えていた十年分の気持ちが、たった二文字の中に全部詰まっていた。


 澄玲はもう一度、はっきりと言った。


「……ずっと好き」


 処置の音が続いている。

 けれど不思議と、その瞬間だけ周りの音が遠のいた気がした。


 十年以上。


 透真が転んだ時に手を引いた日も。

 駄菓子屋でラムネを買って笑った日も。

 大学で他の女子に囲まれて、何も言えずに見ていた日も。


 全部を抱えたまま、ようやく出た言葉だった。


 律希はその言葉に目を見開いた。

 でも何も言わなかった。

 きっと彼も分かっていたのだろう。これを止める権利なんて誰にもないことを。


 医者の手が止まる。

 モニターが弱々しく音を戻し始める。


「……戻った」


 誰かがそう言った。


 その瞬間、澄玲の体から一気に力が抜けた。

 透真の心拍が戻ったことへの安堵と、自分がとうとう言ってしまったことへの恐怖が、同時に押し寄せる。


 透真はまだ目を開けない。


 聞こえたのか。

 聞こえていないのか。

 それも分からない。


 でも、それでよかったのかもしれない、と澄玲は思った。

 眠ったままの相手にしか、こんなこと言えなかったからだ。


 ◇


 透真が意識を取り戻したのは、それからしばらくしてからだった。


 まぶたがゆっくりと開く。

 弱々しい視線が、最初に澄玲を捉える。


「……起きた」


 その一言に、澄玲の涙がまた溢れた。


 透真は少しだけ笑って、澄玲の頬に触れる。

 涙を拭うみたいに、そっと。


 その優しさが、余計に胸を締めつけた。


「……ばか」


 やっと出た言葉はそれだった。


「……心臓止まった」

「また倒れるかもだから、つけてもらったー。似合う?」


 酸素マスクを指して、透真は軽く笑う。


 いつもの調子。

 いつもの誤魔化し。


 澄玲はそれがたまらなく悔しかった。

 でも同時に、その軽さに救われてもいた。


 まだこの人はここにいる。

 目の前で息をしている。

 声を出している。


 それだけでよかった。


 だからこそ、さっきの言葉が急に現実味を持って押し寄せてくる。


 聞かれたかもしれない。

 聞かれていないかもしれない。

 もし聞かれていたら、どうなるのだろう。


 澄玲はそっと問う。


「……さっき」

「……?」

「……聞こえた?」


 透真は少しだけ目を泳がせてから、弱く笑った。


「……聞いてない」


 一瞬、時間が止まった気がした。


 ああ、そうか。

 聞こえていなかったのか。

 それとも、聞こえていて、聞こえなかったことにしたのか。


 どちらかは分からなかった。

 でも、多分後者だった。


 透真はそういう人だ。

 優しいふりをして、全部自分の中で丸く収めようとする。相手が傷つかないようにしているつもりで、結果的に自分も相手も苦しめる。


 それでも澄玲は、その不器用さを嫌いになれなかった。


「……そっか」


 それだけ言って、視線を落とす。


 胸は痛い。

 でも不思議と、絶望ではなかった。


 言えたからだ。


 返事をもらうことよりも先に、自分の気持ちをちゃんと置いてこられたことの方が今は大きかった。


 しばらくして、病室に静かな時間が戻る。

 律希は気まずそうに窓の方を見ていたが、やがて空気を変えるみたいに咳払いをした。


「なあ、今日さ」

「……?」

「病院抜け出すか」


 あまりに唐突な提案に、澄玲は顔を上げる。

 透真も目を丸くした。


「お前さ」

「いや、だってよ」


 律希は妙に真面目な顔で続けた。


「回復傾向なんだろ?」

「それ、絶対信じてないじゃん」

「信じるわけないだろ」


 即答だった。


 澄玲は少しだけ笑ってしまう。

 重すぎる空気の中で、そのやり取りだけが昔みたいだった。


 結局、三人で病院を抜け出した。


 車椅子に透真を乗せて、律希が適当に話を合わせて、澄玲が後ろから押す。

 あまりにも馬鹿みたいで、でも不思議と楽しかった。


 駄菓子屋に行って、ラムネを買った。

 公園に寄って、律希がまた靴を飛ばした。

 三人で笑った。


 その間だけは、本当に何も変わっていないみたいだった。


 だからこそ、澄玲は余計に怖くなる。


 この時間があまりにも綺麗だから。

 綺麗すぎるものは、終わりが近い気がするから。


 ベンチで休んでいた時、律希が「ジュース買ってくる」と席を外した。

 公園には蝉の声が響いていて、風がぬるかった。


 透真が隣で息をつく。


「なんか……楽しいね、久々に」


 その声を聞いた瞬間、澄玲の胸がきゅっと痛んだ。


 透真が「久々に」と言う時、それはたいてい、本当はもっと前から欲しかったものを我慢していた時だ。


 昔みたいな三人の時間。

 何も知らないまま笑っていられる日常。


 きっと透真も、それを失いたくなかったのだろう。


 澄玲は思い切って口を開く。


「……嘘」

「……え?」

「……ついてる?」


 透真は少しだけ首をかしげた。

 とぼける仕草まで、いつも通りだった。


「嘘って?」

「……回復傾向」

「……」

「……先生。昨日、廊下で聞いた」


 言ってしまえば、もう誤魔化せない。

 でも言わずにいることの方が苦しかった。


 透真は一瞬だけ目を逸らして、それから笑った。


「一週間は持病の方なー。薬で治すから大丈夫」


 また嘘だと思った。

 でも澄玲は、それ以上何も言えなかった。


 信じたい気持ちが、まだあったからだ。


 もしここで本当のことを聞いてしまったら、自分はもう今日みたいに笑えなくなる。

 だから、その場では小さく頷くしかなかった。


「……そっか」

「うん」


 それが二人の精一杯だった。


 ◇


 夜、病室で二人きりになった時、澄玲はもう隠しきれなかった。


「……なんで、こんな時間に来るん?」


 透真にそう聞かれて、少しだけ困る。


 本当のことなんて、あまりに情けない。


「……寝れない」

「なんで」

「……怖い」


 声が小さくなる。


「……朝、来た時」

「……」

「……いなくなってたら、嫌」


 言葉にしたら、思った以上に痛かった。


 透真は静かに聞いている。

 茶化さない。笑わない。ただ真面目な顔でこちらを見る。

 それが逆にずるい、と澄玲は思う。


 だってそんな顔をされたら、余計に言いたくなる。


「……今日、楽しかった」

「……うん」

「……また、行きたい」

「……行こ」


 その返事があまりにも自然で、澄玲は一瞬固まった。


「……うん」


 小さく笑う。

 泣きたくなるくらい嬉しかった。


 でもその直後、透真の顔が歪む。

 胸を押さえて、小さく息を漏らす。


「……大丈夫?」

「うん。慣れてる」


 その言葉に、澄玲ははっきり怒りを覚えた。


 慣れてるって何だ。

 そんな苦しさに慣れるな。

 そんなふうに、一人でずっと耐えてくるな。


「……いつから」

「……」

「……そんなの、慣れてるの」


 透真は少し黙ってから、静かに言った。


「高校から、酷くなってたからね」


 その一言で、澄玲の中の何かが崩れた。


 高校から。

 そんなに前から。


「……なんで」

 声が震える。

「……言わなかった」

「……」

「……私、ずっと近くにいた」


 幼馴染なのに。

 同じ時間を過ごしてきたのに。

 自分は何を見ていたのだろう。


「……頼って、よかったのに」


 それは責める言葉ではなく、ただの願いだった。


 透真は少しだけ困った顔で笑って、それから慌てたように言う。


「ごめんっ。心配させたくなかったの!」


 その必死な言い方に、澄玲は泣きそうになりながらも、小さく首を振った。


「……うん」

「……」

「……優しい」


 でも、と続ける。


「……それ、ずるい」

「……」

「……私、心配したい」


 透真が少し目を見開く。


「……幼馴染だから」

「……」

「……隠さないで」


 ようやく出せた、本当の本音だった。


 透真は少しだけ笑って、「うん」と言う。


「彼女とかできた時も報告する」


 その瞬間、澄玲は完全に止まった。


 そこか。

 今それを言うのか。


 思わず笑いそうになる。

 同時に泣きそうにもなる。


「……うん」

 なんとかそう返して、透真から手を離した。

「……聞く」


 無理をしているのが、自分でも分かった。


 それでも、その夜のうちに一つだけ決めた。

 もう逃げない。


 返事がどうであれ、ちゃんと自分の言葉で伝える。

 透真がどれだけ誤魔化しても、最後だけは曖昧にしたくない。


 その覚悟が、本当の意味で固まったのは翌日の夕方だった。


 病室に夕日が差し込んで、透真がふらつきながら立ち上がり、自分を抱きしめた時。


「泣くなよー」


 その声の軽さに、また腹が立つ。

 でも嬉しくて、胸が苦しくなる。


「嫌だったら言って」


 そんなこと、言えるはずがない。


「……嫌じゃない」


 透真の服をぎゅっと掴む。

 胸に顔を埋める。

 心臓の音が近い。弱いのに、ちゃんと生きている音だった。


「……嬉しい」

「……」

「……ずっと、したかった」


 やっと本音が零れる。


 律希が気まずそうに「俺、外出る?」と言った。

 でも、なぜかその時は「いて」と言えた。


 逃げ道を残したくなかったからだ。


 透真が「ん?」と少し首をかしげる。

 澄玲はゆっくり顔を上げた。


 十年分の時間が胸の中で音を立てる。

 怖い。

 怖いけれど、それ以上に、今しかないと思った。


「……透真」

「……?」

「……私」


 一度息を吸って、きちんと彼の目を見る。


「……ずっと好き」


 言えた。

 今度は眠っている相手じゃない。

 ちゃんと起きている透真に向かって、自分の声で言えた。


「……10年以上、好き」


 病室が静かになる。

 律希ですら何も言わない。


 透真は少しだけ目を伏せて、それから静かに言った。


「……ごめん。付き合えない」


 分かっていた。

 分かっていたはずなのに、やっぱり胸は痛んだ。


 でも澄玲は小さく笑った。


「……うん」

「……」

「……知ってた」


 本当は知っていた。

 透真が優しいから、きっとそう言うことも。

 その優しさの中に、言えなかった何かが混ざっていることも。


「……でも、言えた」

 涙を拭う。

「……よかった」


 それが精一杯の強がりだった。


 透真は何も言わなかった。

 ただ、どこか泣きそうな顔でこちらを見ていた。


 だから澄玲は決めた。


 恋人にはなれなくてもいい。

 最後まで幼馴染でいる。


 隣に座って、手を握って、苦しい時は名前を呼ぶ。

 それでいい。


 それしかできないからこそ、最後までそうする。


「……最後まで、幼馴染してる」


 そう言った自分の声は、思ったよりずっと静かだった。


 でも、その言葉だけは嘘じゃなかった。


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