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親友

 九条律希は、病院という場所が昔から苦手だった。


 匂いも嫌だし、やけに静かな空気も落ち着かない。何より、そこにいるだけで「普通じゃないこと」が起きている気がして、勝手に気持ちが沈む。


 だから本当なら、透真が倒れたと連絡を受けた時も、ここまで嫌な予感を抱えて駆けつけたくはなかった。


 でも、行かないなんて選択肢は最初からなかった。


 病室のドアを開けた瞬間、雨宮透真はいつも通りみたいな顔で手を振った。


「おーい」


 その軽さに少しだけ安心しかけて、すぐ違和感が勝つ。


 顔色が悪い。

 悪いどころじゃない。白すぎる。光の加減とかじゃなく、明らかに血の気が足りていない。


 しかも笑い方が変だった。

 透真はもともと愛想がいい。適当に人と距離を詰めるのも上手いし、気まずい空気を笑いで流すのも得意だ。だからこそ分かる。今日のあれは、いつもの余裕じゃない。無理やり作った笑顔だ。


 ――あ、これなんか隠してるな。


 そう思った時には、もう榊原澄玲が「嘘」と言っていた。


 相変わらず早い。

 律希は思わず内心で苦笑する。


 昔からそうだった。透真の嘘を最初に見抜くのは大体澄玲だ。自分は「なんか変だな」くらいまでは分かっても、そこから先を言葉にするのに少し遅れる。澄玲は最初から一直線に核心を突く。


 それが今日は、妙にありがたかった。


 自分だけじゃない。

 ちゃんと気づいてるやつがもう一人いる。


 そう思えるだけで、変な孤独感みたいなものが少し薄れたからだ。


 病室に女子たちが雪崩れ込んできた時、律希は心底うんざりした。


 透真がモテるのは知っている。

 知っているどころか、見てきた。高校でも大学でも、あいつは別に何もしなくても勝手に人が集まってくるタイプだった。男から見ても腹立つくらい自然体で、でも嫌味がなくて、気づいたら好かれている。


 それ自体は昔からだからもう驚かない。


 ただ、入院してる病室でまでそれを発揮するなよ、とは思う。


 しかも、知らない先輩までしゃがみこんで「ずっと気になってた」とか言い出した時には、さすがに頭が痛くなった。


 透真本人は困ったように笑っていた。

 澄玲はというと、何も言わないまま透真の手を握っていた。


 それを見た瞬間、律希は内心で「あー」と思う。


 分かりやすい。

 いや、分かりにくい人には分からないかもしれないが、長年見てきた側からしたら十分すぎるほど分かりやすい。


 澄玲は透真が好きだ。


 ずっと前から、たぶん本当にずっと前から。


 本人が隠しているつもりでも、隠しきれていない瞬間はいくらでもあった。透真の予定をさりげなく把握していたり、体調の変化に一番先に気づいたり、周りの女子が距離を詰めると少しだけ黙るところとか。


 でも、透真は鈍い。


 驚くほど鈍い。

 多分あいつ、世界が終わる直前でも「え、そうだったの?」って顔をする。


 だから律希は、あえて何も言わなかった。

 口を挟んだら崩れる距離感もある。三人でいる空気が気に入っていたのも本当だった。


 ただ、その選択を今、少しだけ後悔している。


 病室での会話のあと、医者が来て透真が二人を外に出した時、嫌な予感は確信に変わり始めていた。


「……なんか変じゃない?」


 廊下でそう言ったのは、律希の方だった。


 澄玲はドアを見つめたまま小さく頷く。


「……嫌な感じ」

「だよな」


 いつもならもっと冗談っぽく言えたはずなのに、その日はどうにも無理だった。


 少しして澄玲が「泣いてる声」と言い出した時、正直、自分には聞こえなかった。

 でも否定する気にもなれなかった。澄玲はこういう時の勘が妙に鋭い。透真関連に限って、ほとんど外さない。


 だから、ドアを少し開けて中を見た瞬間、酸素マスクと慌ただしい看護師の姿が視界に入った時も、驚きより先に「やっぱりか」という気持ちが来た。


 それでも、医者がごまかし続け、透真も笑って誤魔化し続けたせいで、律希は自分の直感を信じきれなくなっていった。


 回復傾向。

 経過観察。

 安静にすれば大丈夫。


 その言葉を、信じたいと思ってしまった。


 だって信じたかった。

 大学二年で余命宣告なんて、そんなの現実であってたまるかと思っていた。


 だから脱走した。

 駄菓子屋にも行った。

 公園で靴が飛んで、三人で笑った。


 あの日、車椅子を押しながら「普通の休日みたいだな」と思ったのは、本心だった。


 透真も楽しそうだった。

 澄玲も少しだけ笑っていた。

 あのまま、本当に回復してくれればいいのにと心から思った。


 けれど、現実はそんなに優しくなかった。


 病院に戻ってから、透真の発作は目に見えて増えた。


 胸を押さえる回数。

 口元に浮かぶ血。

 速くなるモニターの音。


 そのたびに透真は軽く笑って、「慣れてる」とか「気のせい」とか言いやがる。


 ふざけんな、と思った。


 慣れてるって何だ。

 そんなもんに慣れるな。

 気のせいで血を吐くかよ。


 でも怒鳴れなかった。

 本気で苦しそうな顔を見ると、怒るより先に怖さが勝ったからだ。


 トランプをしていた時のことを、律希は多分一生忘れない。


 ジョーカーを持った透真の手が震えていた。

 それでも本人は誤魔化して、「まあいいや」とカードを持ち直した。数分後には、ぽたっと赤いものが落ちた。


 最初、一瞬だけ何が起きたのか理解できなかった。

 トランプの柄でも見間違えたのかと思った。

 でも違った。血だった。


 透真はそれを見て「やばー笑」と言った。


 その瞬間、律希の頭の中で何かが切れた。


「笑ってる場合じゃねぇ!」


 気づけばナースコールを押していた。

 看護師が飛び込んできて、医者が走ってきて、病室の中がまた慌ただしくなる。


 その時、医者が小さく「早い」と呟いた。

 あの声を、律希は聞き逃さなかった。


 早い、って何だよ。


 何が早い。


 聞き返したかった。

 でも次の瞬間には透真が「心拍速いねー」と笑って医者の言葉を無理やりカバーしていて、余計に背筋が冷えた。


 あいつ、知ってるんだ。


 その時、ようやくはっきり分かった。


 透真は最初から全部知っていて、自分たちに隠している。

 しかも、ずっと。


 怒りと悲しさが一気に込み上げる。


 なんで言わない。

 なんで一人で抱える。

 俺ら、そんな頼りなかったか。


 でも、透真の顔を見ると何も言えなくなる。

 本の方がずっと怖いはずなのに、こっちを安心させるみたいに笑ってるからだ。

 それがもう、どうしようもなく腹立たしくて、どうしようもなく透真らしかった。


 夜が深くなる頃には、律希は病室のソファに座ったまま動けなくなっていた。


 帰る気なんてなかった。

 帰って一人になったら、多分まともに考えすぎて壊れる。

 澄玲も同じだったのだろう。何も言わず、ただ透真の手を握っていた。


 その沈黙の中で、律希は一つだけ確信していた。


 自分は透真を助けられない。


 どれだけそばにいても。

 どれだけ笑わせても。

 どれだけ冗談を言っても。


 もし本当に時間が決まっているのなら、親友という立場はあまりにも無力だ。


 だからせめて、と思う。


 澄玲のことは支えよう。

 もし透真がいなくなるなら、その後に崩れそうなのは絶対にこいつだ。


 それに、自分だって一人じゃ無理だ。


 親友を失う痛みなんて、たぶん簡単に消えない。

 ならせめて、残された二人でちゃんと生きるしかない。


 そう思った時、透真がかすれた声で言った。


「……じゃあまた明日」


 その一言が、律希には妙に堪えた。


 また明日。


 そんなの、いつだって普通の別れ際に言う言葉だ。

 講義が終わった時とか、駅で別れる時とか、そういう何でもない日常の言葉だ。


 なのに今は、その一言が「明日が来る保証」みたいに聞こえる。


 来るのか。

 本当に。

 お前の明日、ちゃんと来るのか。


 聞けなかった。

 ただ「おう」と返すのが精一杯だった。


 透真は最後まで、自分たちに普通の日常を渡そうとしていた。

 親友として、それを受け取るしかない自分が情けなくてたまらなかった。


 それでも律希は思う。


 もし本当に、残り時間がわずかだとしても。

 最後の最後まで、透真の前では親友でいたい。


 泣くのは後でいい。

 崩れるのも後でいい。


 今だけは、いつもの調子で隣にいてやろう。


 それが透真の望みなら。

 それくらいは、守ってやりたいと思った。


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