講演会の日
外から見れば、それは二階建ての小さな家にすぎなかった。
石造りの壁に、控えめな窓。庭も狭く、特別な装飾もない。
村の端に建つその家を見て、中に魔法使いが住んでいると気づく者は少ない。
だが――
扉を開ければ、話は変わる。
内部には、天井の見えない円筒形の塔が、まっすぐ上へと伸びていた。
石壁には魔道照明の光が幾重にも重なり、空気そのものが淡く色づいている。
静かで、深い空間。
ここが、魔法使いウエルと、その弟子トール、そして式獣クロが暮らす塔だった。
朝
朝の空気は澄んでいた。結界の膜が、薄い呼吸のように脈動している。
玄関ドアの前でウエルは外套の留め具を整え、杖の握りを確かめた。杖の先はほのかに光っていた。
トールは普段の作業服ではなく余所行きの服を着ている。襟を直し、かばんを抱え直す。
クロが石畳の上で尻尾を揺らした。
「……もう行くのかにゃ」
「ええ。日帰りです」
ウエルは、当然のように言う。
そして、当然のように付け足した。
「昨日も言いましたが、今日はトールも同行します」
トールは頷く。
「はい。講演会の補助と、記録ですね」
「その通りです」
クロは、目を細めた。
「で、留守番はボクにゃ?」
「お願いします」
「大船に乗った気で任せるといいにゃ」
クロは横柄に返事をした。
ウエルはそれに苦笑して、話をする。
「結界は通常運用。魔導具の稼働もいつも通り。あなたは見回りだけでいい」
トールも、念押しするように言った。
「一階から三階まで。異音と匂い、4階以上の魔導気配の変化。いつも通り、で」
クロは、わざとらしく胸を張る。
「いつも通りにゃ。任せるにゃ」
扉が閉じる。鍵が静かにかかる。
塔の中の空気が、ほんの少しだけ「留守番の静けさ」に寄った。
クロは早速にパトロールをすることにした。
「……よしにゃ」
クロはまず一階へ向かう。
炊事場。かすかな出汁の匂いが残っている。火種なし。水回り異常なし。
トールが毎朝飲んでいる牛乳の空き瓶が一本。きっちり洗われている。
「いつも通りにゃ」
応接室。机の上は片付いている。椅子の脚も揃っている。
窓から差す光が、床に静かな四角を作っているだけだ。
「いつも通りにゃ」
クロは鼻先を床に近づけた。
魔力のにおい――濁りなし。異物なし。
二階へ。上がる。二人の寝室がある区画だ。
トールの部屋。
淡い黄緑の作業服が、同じ形で整然と並んでいる。清潔な布の匂い。
「……いつも通りにゃ」
客間。使われた気配はない。
ウエルの部屋。衣服が揃い、乱れがない。私物の配置が変わっていない。
「いつも通りにゃ」
三階へ。ゆっくり上がる。ウエルの仕事場が集まっている。
研究室の前で、クロは立ち止まる。
扉の向こうからは、薬と金属の冷えた匂い。だが、境界は硬い。
「……入れないにゃ。いつも通りにゃ」
執務室の前。ここも、結界の触感が変わらない。
「ここも入れないにゃ、いつも通りにゃ」
そして、四階以上の階層・・・。
蔵書階層へ足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わる。
魔力が、壁の奥で古い川のように流れている。
クロは赤い目の黒猫にしか見えないが式獣である。
耳のカフスに前足を当てた。
赤い影が、足元の影と重なり、伸びる――五メートルほど一瞬で。
「……異常なしにゃ」
影を壁沿いに這わせ、棚の隙間を撫でさせる。
紙の匂い。インクの匂い。百年も積み重ねた静けさ。
「……いつも通りにゃ」
その言葉を口にした途端、胸の奥がわずかに鳴った。
一人で言う「いつも通り」は、
二人がいる時より、少しだけ大きく響く。
「……まあいいにゃ。いつも通りが一番にゃ」
クロはまた一階へ戻り、玄関の気配を待った。
夜
扉が開く。
「ただいま戻りました」
「ただいま、クロ」
「お帰りだにゃ」
ウエルとトールは、外気の匂いを連れて入ってきた。
疲れはあるが、崩れてはいない――「仕事の疲れ」だ。
夕食は簡素に済ませた。
それから応接室の灯りの下で、クロが言う。
「講演会、どうだったにゃ」
トールが一瞬、ウエルを見る。
許可を取るようで、でも取らない。師匠が止めないのは、話すのが学びだからだ。
「……会場は満員。内容は、アレルギー皮膚炎の患者に木の魔導で取り組む方法について話されたんだよ」
クロの耳がぴくりと動いた。
「木魔法の治療の話かにゃ?」
トールは頷き、喉を整える。
ウエルの真似をする時の癖で、背筋だけが妙に伸びる。
「えー……『炎症は木の魔導で鎮められる。だが、原因が免疫側にあるなら、終わりじゃない』って」
クロが、尻尾をゆっくり振る。
「難しいにゃ」
「アレルギーは、体の過剰反応だ。で……師匠は、免疫不全の例も出してた」
トールは、帳面を引き寄せ、言葉を続ける。
「木の魔導でできるのは、炎症を抑えて、回復を底上げして、痒みや痛みを軽くして――いったんはまっさらの状態に持っていく」
「じゃあ、治るのかにゃ」
「……“今”は良くなる。でも、再発は防げない」
トールは、そこで少しだけ顔をしかめた。
分かってしまったからだ。木の魔導は万能じゃないという当たり前が、現場では重い。
「だから、食事療法――体の負担を減らす方。あと、魔法じゃない医療も必要だって」
「薬草や、検査かにゃ」
「そう。原因を探して、生活を変えて、必要なら薬師や医者に繋ぐ。木の魔導だけで全部やろうとすると、逆に悪化する、って」
ウエルが、淡々と一言だけ足す。
「魔法は便利ですが、魔法に寄りかかるのは危険です」
トールは頷き、つい勢いで続けそうになった。
「それで――」
だが、そこで言葉が途切れる。
肩から力が抜けた。
「……だめだ。眠い」
クロが見上げる。
「いきなり講師ぶったりしたからだにゃ」
「……ぶってない。」
「真似してたにゃ」
トールは反論しきれず、ふらふらと二階へ向かった。
ベッドに倒れ込む。靴も揃えられないほどではない。
だが、頭が枕に触れた瞬間、眠りに落ちた。
早い寝息。
クロは小さく息を吐く。
「……成長したけど、まだまだ子供にゃ」
階下でウエルが灯りを落とす音がした。
塔の中の気配が、また「いつも通り」に戻っていく。
外から見れば、変わらない二階建ての小さな家。
だがその中では今日も――
留守番があり、学びがあり、疲れて眠る夜があった。
静かな塔は、今日も変わらず、そこに立っている。




