前編 観察者の距離
※本作には研究目的による解剖の描写があります。
ですが、過度な流血や残酷な表現はありません。
魔導マウスが三匹、研究室の卓上に並べられていた。
籠の中で丸くなり、黒灰色の毛並みが静かに上下している。
どれも深く眠っているようで、魔力反応は安定していた。
「一週間、飼育観察を行います」
ウエルは、感情を挟まずに言った。
「その後、三匹とも解剖します」
トールは、一瞬だけ言葉を失った。視線が、無意識に籠へ落ちる。
「……はい」
返事は、遅れなかった。
クロが棚の上で尾を揺らすが、何も言わない。
ウエルは、トールの反応を一度だけ確認してから続けた。
「目的は飼育ではありません」
「魔導マウスの構造と魔力循環を理解するためです。さらに、飼育方法を実体験する。その過程として、一週間の管理が必要になる。それだけです」
それ以上の説明はなかった。
研究室は、塔の中でも特に管理が厳しい場所だった。
温度は一定。
湿度も一定。
外界の影響は最小限に抑えられている。
「温度、二十度前後」
「湿度は四割から五割」
「餌は魔導餌。量は――」
ウエルは、要点だけを淡々と告げる。
「与えすぎてはいけません、しかし、減らしすぎてもいけない。成長ではなく、安定を保つためです」
トールは帳面を開き、即座に記録する。
温度。
湿度。
餌の量。
摂取後の反応。
「餌やりと記録は、あなたの仕事です」
「……はい」
管理者として、慣れた役割だった。
飼育三日目。
トールは、特に問題なく作業を進めていた。
温度、安定。
湿度、問題なし。
魔導マウスの行動も正常。
籠を開け、餌を置く。
その瞬間。
三匹のうち一匹が、わずかに身を乗り出した。
「……?」
逃げる様子はない。警戒する様子も、ほとんどない。
トールが手を引こうとすると、小さな鼻先が指に触れた。
一瞬。
「……あ」
すぐに距離を取る。
「……気のせいか」
だが、次の餌やりでも同じだった。
指先に寄る。
餌を受け取る前に、一度こちらを見る。
(……学習してる)
魔導マウスは、環境だけでなく、世話をする存在も認識している。
その事実を、トールは冷静に記録した。
――人の存在に対する警戒、低下傾向。
その日の午後。
トールは研究室の片隅でスケッチを取っていた。
輪郭。
耳の形。
魔力が集中する小さな節。
(植物観察と、似てる)
葉の向き。
成長速度。
光への反応。
これまで積み重ねてきた作業と、手の動きはよく似ていた。
「……余裕だな」
そう思った瞬間、クロの声が落ちる。
「同じだと思うなにゃ」
「……何がだ」
「植物と、動く生き物は違うにゃ」
トールはペンを止めた。
「記録は同じだろ」
「距離が違うにゃ」
クロは、スケッチを一瞥する。
「線が多いにゃ」
トールは、そこで初めて気づく。必要以上に、細部を追っている。
個体差まで、無意識に描き分けている。
「……観察だ」
「それ以上になりかけてるにゃ」
クロは、それ以上言わなかった。
五日目。
餌を入れると、三匹が一斉に集まってくる。
以前より、動きが揃っていた。
トールが手を引くのを、待つような間がある。
「……慣れてきたな」
口に出してから、すぐに気づく。
(……違う、慣れたのは、こちらだ。)
トールは、意識的に動作を早める。視線も、必要以上に落とさない。
帳面に記録を書く。
摂取量、問題なし。
行動、活発。
異常なし。
文字は、淡々としていた。
だが、胸の奥に、確かな重さが残る。
七日目の夜。
研究室は、いつもと変わらない静けさだった。
「明日、解剖です」
ウエルは、それだけを告げた。
トールは、深く息を吸う。
「……はい」
クロが、足元で座る。
「なついた後に切るのは、きついにゃ」
「……距離は、取ってた」
「思ったより、取れてないにゃ」
トールは否定しなかった。
籠の中では、三匹が寄り添うように眠っている。
(観察者として、一定の距離を)
何度も、自分に言い聞かせた。
それでも――
明日が来ることを、
少しだけ、遅らせたいと思っている自分がいる。
研究室の灯りが落ちる。
静かな夜が、塔を包む。
観察は、もう終わっている。
残っているのは、
距離を取るという、本当の試験だった。




