【7章】白と黒が寄り添い合うように 4
ひざを折ってその場にしゃがみ込んだあと、オレは手を伸ばして猫ちゃんの頭を撫でた。
黒猫は先ほどと同じく気持ちよさそうに目を細めた。にゃんこの少しだけ上向いた顔が「もっと、もっと!」とねだっているように見えた。ぎんみー、ぎんみー!
「にゃーん」
オレが頭を撫でている途中、黒猫ちゃんは甘えるような声で鳴いた。もおお、ほんっと可愛いんだからぁ〜。
これは罪だね。
うるとらきゅーと罪で逮捕だよ、黒猫ちゃん。手錠がちゃんこ。
「あはは、ミリアこの子に懐かれちゃったねえ」
ラーニャもまた白猫の頭を撫でてあげていた。どうやら、白猫ちゃんのほうはラーニャに懐いているようだった。
「この子たち、ほんと人慣れしてるね」オレは言った。「前にも話したかもだけど、寮の誰かがエサあげてたりするのかな?」
「かもねー、野良にゃんこにしては人懐っこいしぃ」
「人からエサもらえること覚えたのかもね……そうなの、猫ちゃん?」
「にゃあー」黒猫が鳴いた。
「あはは。『そーだよ』って言ってるねえ?」ラーニャが笑った。
「そ、そだね。かしこい猫ちゃんだね……」
オレは賢い可愛い猫ちゃんのアゴをちょいちょいっと手で撫でた。黒猫は終始されるがままになでなでされていた。
白猫のほうもラーニャに頭を撫でられていた。
こんな風に過ごすのはいつ振りだろう。こんな穏やかに過ごすこと、あっちの世界であったかな。時間に追われず過ごした記憶がもう遥か遠い。
「みゃあー」白猫が鳴いた。
「にゃあーん」黒猫も鳴いた。
にゃんずはオレたちの手元から離れて、お互いに寄り添い合うように身体をくっつけた。黒猫は白猫の身体を舌でペロペロと舐め始めた。
「やだぁ、舐めっこしてるぅ。かわいい〜♡」
ラーニャの黄色い声が暗がりに溶け出した。夜の色とは似ても似つかないほど明るい声のトーンだった。
当のにゃんこたちは相変わらず身を寄せ合っている。
黒猫はしきりに白猫の首すじをグルーミングしていた。白にゃんこのほっぺたを舌でペロペロと舐め出した頃には、黒にゃんこはもうすっかり毛づくろいに夢中になっていた。
オレとラーニャはにゃんずたちの舐めっこに見入っていた。
「ほんとかわいい……このにゃんこたち、ずいぶん仲良しさんだね?」
「ねー、ほんとお。ちょー癒されるぅ〜」ラーニャは猫なで声だった。「この子たち可愛くいるのが仕事なんだろーね、きっとっ。ひとを幸せにするステキなお仕事だねぇ〜?」
「いいお仕事だね、ほんと。かわいくしてたらご飯ももらえるし?」
「あはは、ほんとだねぇ」
ラーニャは花が咲くようにからからと笑った。彼女の視線の先では、白猫と黒猫がお互いに寄り添い合っていた。
ラーニャの肩がオレの肩に触れた。
お互いの肩どうしが触れ合うと、肩越しに彼女の体温が伝わってきた。緊張と安心が混ぜ合わせったような気持ちが胸に込み上げてきた。
自分の肩が熱を持っているような気がする。
自分の心が熱を求めているような気がする。どうしてか、この子とこうして触れ合う時間が心地いい。
どうやら、この心はひとのぬくもりに安らぎを覚えているようだった。この安心は彼女がオレにくれたプレゼントに違いない。きっとそうに決まってる。
オレは猫たちからラーニャのほうに視線を移した。
彼女の横顔が夜の闇に溶け込んでいた。星々が散りばめられた暗い海に明るい笑顔が溶け込んでいた。まるで、明るい色が暗い色と調和するかのように。
「ん、なあにぃ?」
こちらの視線に気付いたのか、ラーニャがオレのほうに顔を向けた。彼女は口もとに笑みを湛えたままきょとんとした。
「……うぅん、なんでも。なんでもないよ」
オレは彼女から逃げるように目を逸らした。あのオレンジ色の瞳と目を合わせ続けるのは少し気が引けた。
また不自然な沈黙が辺りに流れた。
ほんのわずかな時間だったはずなのに、どうしてかこの無言の時間がやけに長く感じた。まるで、時間がゴムのように引き延ばされてしまったかのようだった。
オレは心に湧いた気持ちに目を向けた。
いま言わなきゃいけない。きっと、これは今ちゃんと口にしなきゃいけない。そう直感した。
「あ、あの……ら、ラーニャ?」
「うん?」
「あの、あのね……」オレはひと呼吸おいた。「わたし、毎日すごく楽しいの。この村に来てから、ずっと……」
「うん」
「寮のみんなとも仲良くしてもらってて、図書館でお仕事までさせてもらってて……きょ、今日だってね、自分のお金でプレゼント買えたの」
「うん」
「それで、わたし……」
ノドにつっかえた言葉が外に出ていかない。声が生まれるところで言葉が引っかかっていた。
なんでだろう。どうしてだろう。
何ひとつ声にならない。頭の中ではいくらでも言葉が生まれるのに、いざ声にしようとすると何にも出てこない。
まるで、目に見えない魚の骨がノドの奥に引っかかってしまったかのよう。必死に編んだ言葉の刺繍がちっとも形になろうとしてくれなかった。あんなに伝えたかったのに、あんなに言いたかったのに。
しぜんと顔は下を向いた。臆病風に吹かれた心はこんなにも頼りなかった。
「わた、わたし……」
だんだんと視界がボヤけてきた。目に涙が浮かんでいることは自分でもよく分かった。
泣きたい気持ちと戦っていたところ、オレの手に何か温かいものが触れた。ラーニャが自分の手をこちらの手に重ねているのが見えた。
オレは俯きがちだった顔をパッと上げた。ラーニャは口もとに笑みを浮かべていた。
「無理しなくってもいいよぉ、ミリア。ちゃんと分かってるから」
「え……」
「プレゼントありがとお、ほんとに。あたし嬉しいっ」ラーニャが言った。「今日お仕事終わったあと、あたしのためにわざわざ買いに行ってくれたんだよね?」
「え、あ……う、うん」
「前に一緒にアクセ屋さん行ったとき、このペンダントあたしに似合いそうって思ってくれたんだよね?」
「うん……」
「もうじゅーぶんだよお。だいじょうぶ、じゅーぶん伝わってるから」
「……」オレは黙り込んだ。
「ね?」
ラーニャはこちらに確認を求めるように首をかしげた。彼女が頭を少し傾けた拍子に、ラーニャの首元にあるペンダントトップがきらめいた。
あの朱い宝石が月明かりに照らされている。
この子の首元にある太陽が月の光に照らされていた。まるで、月と太陽がお互いに寄り添い合うかのような光景だった。
オレは何も言わずにただうなずいた。うなずくことしかできない自分が情けない。ただうなずくことしかできない自分が恥ずかしい。この心は相変わらず弱虫なままだった。
「……ごめんね」
オレはぼそりとひとりごとのように呟いた。いまの謝罪は本当に彼女に向けたものだっただろうか。それとも——。
「もお、なあんで謝るの〜」
ラーニャは眉尻を下げて困ったように笑った。オレたちの足元では猫たちが相変わらず戯れ合っていた。
「だって、わたしいっつも肝心なとこで……」オレは言った。ちゃんと、ちゃんと言葉にできなくて。ごめんね……」
「いーんだよお、べつにぃ。気持ちが伝わればよくなあい?」
「そう、かな……」
「ちゃんと伝わってるよ、ミリアの気持ち。言葉にしなくっても、ね?」
「……」オレはまた黙り込んだ。
「ほおらぁ、そんな悲しい顔しないの〜。笑って笑ってっ」
ラーニャは両手でオレの顔を左右から挟み込んだ。おててでお顔さんどいっち。
「ほら、見て。このペンダント、ミリアがくれたんだよ?」
「うん……」オレはうなずいた。
「ミリアの気持ちがちゃあんと形になったの。そうでしょ?」
「うんっ……」
しぜんと笑顔がこぼれた。ラーニャもまたこちらに合わせてにこっと笑った。夏の太陽よりもうんと眩しい笑顔だった。
「ありがと、ラーニャ。わたしのほうが励まされちゃったね……」
「あはは、気にしない気にしなーいっ」ラーニャが言った。「あたしもプレゼントもらったし、これでおあいこってことでえ〜」
「前向きだね、ラーニャは」
「んふふ、元気印のラーニャちゃんだからねっ」
「あ、自分で言うんだ……」
オレとラーニャはお互いに顔を見合わせて笑い合った。ふたりぶんの笑い声が夜の屋上に溶け出した。頭上に浮かぶ星の海がやけにキレイに見えた。
この幸せな夜にしおりを挟んでおこう。
また後で何度でも読み返せるように、また後で何度でも思い返せるように。大切な思い出にはちゃんと目印を付けておかなきゃ。
この日々は何度も振り返るに値するものだと思うから。思い出を指折り数えたぶんだけ、幸せな気持ちになれる気がする。今日という日を未来でも思い出したぶんだけ、何度でも何回でも幸せになれそうな気がする。そんな確信めいた予感があった。
この気持ちの名前は何だろう。
およそ向こうの世界では味わったことのない感情だった。オレはこの気持ちにまだ名前を付けられない。
いつか今夜を振り返ったとき、この気持ちにちゃんと名前を付けられるかな。オレは未来で自分の感情に印をつけてあげられるのかな。今はまだ分からない。今はまだ分からなくてもいい。
今夜この気持ちをアルバムにしまっておこう、今夜この気持ちにしおりを挟み込んでおこう。いつかまた続きを見返せるように。ずっと、ずっと——。
白猫と黒猫が身を寄せ合っている。
あの夜空に浮かぶ月と星と同じように、白と黒がお互いに寄り添い合っていた。
にゃあにゃあと鳴きながら戯れ合う猫たちの姿を、オレとラーニャは肩を寄せ合いながら眺めていた。肩先から伝わる彼女のぬくもりがこそばゆかった。
この心のアルバムにまたひとつ、すてきな栞が挟まれた夜だった。
——第3巻に続く




