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【3章】虹の小径へ 2

 もう森が近い。もうくだんの小径は目と鼻の先にあった。

 すぅっと深く息を吸い込むと、鼻の奥に緑の香りが入り込んできた。脳が雨上がりの匂いを知覚すると、ほんの少し心が落ち着く気がした。

 基本的な物理現象はどこの世界にいても一緒だった。鼻の奥にある嗅細胞がゲオスミンをキャッチして、脳の各所に化学的なシグナルを送りとどけている。まるで、目に見えない球でキャッチボールをしているかのよう。この鼻の中にあるミットが化学の球体をしっかり捕えていた。

 嗅上皮は今日も今日とてごきげんだった。

 鼻先から伝わってきた分子を嗅球がキャッチして、神経という高速道路を通って大脳皮質に受け渡す。

 この受け渡し作業は日によって調子がわるい場合もあるらしい。前に調香師さんのインタビューを観たことあるけど、匂いをかぎ分けるのってかなり神経つかうんだって。

 どの仕事も大変だね。『好き』だけじゃやってけないのは、どんなお仕事でも一緒なのかなぁ〜?(そうかも!)

 いよいよ森の中に入った。

 ちょっとばかり空想の旅に出ているあいだに、オレの足はもう別のエリアに踏み込んでいた。

 風そよぐ草木がガサガサと音を立てた。あの大雨のせいか地面はまだ少しぬかるんでいて、気を付けないとぬかるみに足を取られそうだった。

「ここ歩くとき気を付けてねぇ、転んじゃったら大変だからあ」

 ラーニャの言葉はこちらの考えを見透かしたかのようだった。あれぇ、ひょっとしてオレ今この子に心読み取られてるぅ〜?(こわっ)

 ちゃんと手を引いてくれるのが彼女らしい。オレは先を行くラーニャの手をぎゅっと握った。

「ありがと、ラーニャも気を付けて」

「はぁい、気を付けまぁ〜す」ラーニャが言った。「ひとに注意しときながら、あたしのほうが転んだら笑っちゃうねえ?」

「そだね、たしかに。そのときは目いっぱい笑ったげる」

「えー、なんでなんでぇ。ちゃんと助けてよお〜」

「んじゃあ、ちゃんと助けたあとで笑ってあげる」オレは言った。

「あはっ、どーしても笑うじゃあん。ミリアいじわるさんだあ〜」

 ラーニャはオレの手を取りながらからからと笑った。こうして他愛のない冗談を言い合う時間も心地いい。ふたりぶんの笑い声が風そよぐ木々のさざめきに紛れ込んだ。

 しばらく道なりに歩いていると、だんだんと視界がひらけてきた。

 ひときわ高い木が遠くからこちらを手招きしている。先ほどまで生い茂っていた緑の数が減り、代わりにひらけた空間が顔をのぞかせた。枝葉が減ったぶん道が広く見えた。

 森の奥には砂の川があった。

 あそこだけ草木が生えてない。さっきラーニャが「雨上がりの後しか通れない」って言ったとおりみたい。

「ねぇ、あそこが虹の小径?」オレは向こうを指差した。

「そだよお、あの辺だけなぁんにも生えてないでしょお?」ラーニャがうなずいた。「あそこにある砂ってサラサラし過ぎててね、この辺にいる植物が根を張れないんだって。雨が降ったあとも雨水サーって流しちゃうみたい」

「なるほど……土壌が植物の生育に向いてないんだね、きっと」

「いえーす、ざっつらーいとお。根っこ張れないんじゃ栄養も吸収できないもんねえ?」

「そっかぁ。だから雨上がりの後しか通れないんだ、砂がダイラタンシー現象で固まるから……」

「だいらた……ごめぇん、なんてえ?」

「え、あ……うぅん、なんでもない。気にしないで?」

「ふぅん?」

 ラーニャは頭にハテナを浮かべながら首をかしげた。あの頭のうえにあるハテナを通じて、彼女の気持ちがこちらにも伝わってくるようだった。

 や、かわいいけども。

 首をかしげるラーニャちゃん、大変かわいらしいですけども。ちょっとあざといくらいの仕草だね。すーぱーきゅーと。

 オレとラーニャは水を含んで固まった砂のうえを歩いた。その場でジャンプして試しこそしないものの、この砂地がどれだけ固いかには興味があった。どうやら、この好奇心お化けは砂にすら探究の矢を放つらしい。

 ほかのところと色が違う道を歩くのは新鮮だった。

 砂でできた道を歩き切ると、また先ほどと同じ土がある小道に出た。森の中にあるのは一本道で、両サイドには草木がうっそうと生い茂っていた。

「もーすぐだよぉ。このさき抜けたとこに丘があるの」

 ラーニャが道の先を指差した。どうやら、あの人差し指で示した先に目的地があるらしい。心なしか、彼女の声も先ほどより弾んでいる気がした。

「小径だけじゃないんだね、ここのユニークスポット」

「あはは、さっきの道も面白いけどねえ」ラーニャが笑った。「この先の丘から見える景色がきれーなの。雨上がりにしか通れないからレアなんだよお?」

「たまたま雨が降ってくれてラッキーだったね。その、どしゃぶりは遠慮したいけど……」

「だねぇ、洗濯物もあるしさ〜」

「雨は嫌いじゃないんだけどね、わたしも」オレは言った。「ほら、こうやってラーニャに知らないところ案内してもらえるし?」

「あはは、そだねぇ。いつもと違う景色みれていーよねぇ、雨の日もっ」

「だね。ちょっと新鮮かも」

「あっ、見てミリアっ。ほらあれ!」

 道なりに歩いている途中、ラーニャが森の向こうを指差した。オレは彼女の人差し指が指し示す先を目でたどった。

「わ、なにあれ……枝すっごいぐにょぐにょしてる」

「あの木はねぇ、この森いっちばんの長生きさんなの」ラーニャが言った。「前に寮母さんが言ってたんだけどね、樹齢数百年くらいの木なんだってえ。枝の形もすっごい珍しいでしょお?」

「うん、はじめて見た。ずいぶん長生きなんだね……」

「この森の守り神みたいな木だよぉ。悪いことしちゃダメだからねえ?」

「や、しないけど……」

「あはは」

 オレは道の向こうに生えている珍しい木を横目に、ラーニャ大先生のありがたいご指南をたまわった。バオバブの木ともそう遠くない大きな木だった。

 ラーニャはまた別のところを指差した。彼女の人差し指が森の中をあちこち駆けめぐっている。

「あの木の実はお薬にも使われててね、うちのお店でもたまーに調合するの」ラーニャが言った。「向こうにある草は風邪のときによく効くしぃ、あの赤っぽい草は下痢止めに使われててねえ。まー、煎じて飲むとむっちゃ苦いんだけどね」

「さすが詳しいね、ラーニャ。ここって薬草がよく生えてる森なの?」

「そだねぇ、向こうの丘と同じくらいかなあ。ほら、あたしたちが最初に会ったところ。覚えてるう?」

「うん、もちろん。あの丘も薬草がよく採れるとこなんだ?」

「そおそおー、採れる薬草は似たり寄ったりだけどねえ。あ、あの草もお腹の調子わるいときに——」

「あっ、ラーニャ!」

 オレはラーニャの手をぐいっと引いた。彼女は今まさに足元の水溜まりに足を突っ込もうとしていたところだった。

 彼女が水溜まりに足を踏み入れないよう、オレはラーニャの行く先を手でおさえた。手で制した拍子に少しだけ彼女のお腹に触れてしまった。訴訟。

「……あっぶなぁ〜、景色に気ぃ取られてたあ」

 ラーニャはすんでのところで池ポチャを回避した。彼女の視線は雨水でできた小さな池に向けられていた。

「もう、さっき『水溜まり気を付けて』って言われたのに……」

「あはは、ごめんごめぇん」ラーニャが言った。「さっきありがとーね、濡れずに済んだよぉ」

「だね、濡れなくて良かった」

「ほんとほんと〜、靴びしゃびしゃのまま歩くのヤだもぉん」

「そだね。あ、あと……えと、ごめんね」

「え、なにがあ?」ラーニャはきょとんとした。

「その、お腹さわっちゃったから」オレは言った。「さっき水溜りに突っ込みそうになるときに、ちょっとだけ……」

「えー、全然だよぉ。むしろミリアのおかげで助かったんだしぃ?」

「そ、そっか……ならよかった」

「ミリア、そういうのよく気にするよねぇ」ラーニャが言った。「ほらぁ、前も図書館でさっきのと似たようなことあったしぃ?」

「ふっ、不用意にっ。ひとさまの身体に触れるのはよろしくないことでぇ……ごにょごにょ」

「あは。まぁたごにょごにょ言ってるぅ〜」

 ラーニャは花が咲くようにからからと笑った。まるで、先ほどのハプニングなんてもう忘れてしまったかのよう。彼女の笑い声は今日の晴れ模様のようにどこまでも晴れ晴れとしていた。

 オレはラーニャと一緒に森の中を歩いた。

 息を吸い込むたびに香りを感じた。深く息を吸うたびに化学を感じた。この鼻の奥にあるレセプターが雨上がりを知覚した。

 森林浴によるさまざまな効果を調べたデータでは、森の中をたった5分歩くだけでもストレスレベルが下がり、①病気の罹患率や②犯罪への関与率なども改善すると報告された。

 ひとことで言うと、翠緑のシャワーが悪いものを全て洗い流してくれる。緑のおかげで心癒されるのは分かるけど、犯罪への関与率まで下がるのはどうして?

 ひょっとしたら、答えは自律神経の働きにあるかもしれない。

 自律神経のシーソーが興奮にかたよっていると、ストレスのせいでイライラしやすくなるばかりか、カッとなって他人に手をあげるリスクまで悪化する。

 結果として、コンクリート・ジャングルの中で過ごしている人ほど、攻撃性/暴力性の悪化によって犯罪に巻き込まれる可能性が高まるのだとか。やだぁ、こわぁ〜いっ。

 これとは逆に、病室に観葉植物を置いてみたところ、入院患者さんの入院期間が短くなる傾向が確認された。これは室内に自然を取り入れることで心身の調子が良くなった結果、患者さんの病気の回復にポジティブな影響が出たと考えられている。

 ひとことで言うと、緑は人の心と身体を癒す。

 あの木もそう、あの草もそう。この森にある自然が癒しをもたらしてくれる。森林浴はお金をかけずにできるリラクゼーションの一種だった。

 しばらく道なりに歩いていると、森の奥が光で照らされているのが見えた。

 もう出口が近いようだった。木々の隙間から柱のような太陽の光が差し込み、薄暗さが広がる森のなかを明るく照らしていた。まるで、あのまばゆい光がオレたちを導いているかのよう。

「ほらほら、見えてきたっ」

 ラーニャのひときわ弾んだ声が辺りに響いた。行き場を見つけた彼女の声が光のなかに飲み込まれていった。

 森を抜けた先は小さな丘になっていた。

 いま目の前には平地が広がっている。丘の下には緑ゆたかな草原があって、まるで森の緑が地続きになっているかのようだった。

「わぁ……」

 オレは視界いっぱいに広がる景色に圧倒された。空の青と陸の緑がオレたちを出迎えてくれた。雲の隙間からは太陽も顔をのぞかせていた。

 光芒が地表に降りそそいでいる。

 わずかな雲の切れ目から光が差し込み、この丘の向こうにある緑の海を照らしていた。

 先ほどラーニャも話していたとおり、丘から向こうにはほとんど人の姿がなかった。人でにぎわう村の反対側にあるせいか、眼下にある草原はほとんど人の手が入っていないように見えた。

 目の前にあるのは大草原と呼ぶに相応しい景色だった。

「すごいでしょおー、ここからの景色あたし好きなんだあ」ラーニャが言った。「こっち側は普段あんまり来ないんだけどねぇ、薬草とりにくるついでにたま〜に寄るんだあ。ほら、自然の景色で気分リフレッシュみたいな?」

「うん、わかる気がする。なんか心が洗われそうだもんね?」

「そおそおー、心の洗濯だねえ。こーゆうのたまーに見るといいよね?」

「ね、ほんと。悩みもどっか飛んでっちゃ——」

 向こうの空を見上げた直後、オレは途中で言葉を切った。視界の端に七色の橋がかかっているのが見えたから。

「ねぇ見てっ、ラーニャっ。ほらあそこ!」

 思わず声が弾んだ。あの七色の橋がオレの声をぽんと弾ませた。

 ラーニャはオレが指差した先を目でたどった。雲と雲のあいだにかかっている虹の橋は、まるで誰かに見つけてもらうのを待っていたかのようだった。

「わ、すごいすごいっ。虹だよ、虹っ!」

 ラーニャの声も弾んでいた。彼女の目が七色に染まっているのが嬉しかった。

「きれい……虹色がハッキリ見えるね?」

「ねー、ほんとすっごいキレーっ」ラーニャが言った。「この景色ちゃんと目に焼き付けとかなきゃだよぉ」

「うん、ほんとに……」

「この辺りに伝わる伝承でね、ここで運よく虹を見た人は——」

 ラーニャもまた途中で言葉を切った。中途半端に途切れた言葉がオレに疑問を抱かせた。

「……見た人は?」

 オレはラーニャに言葉の先をうながした。

 かたや、ラーニャはふいっと目を逸らした。まるで、なにか隠したいことでもあるかのような仕草だった。

「あぁ〜……んっとねぇ、なんかあるって言われてるよぉ」

「や、アバウト過ぎじゃない?」オレは言った。

 オレは珍しく目を泳がせるラーニャにツッコんだ。彼女の視線は逃げるように明後日のほうを向いていた。

 や、「なんかある」ってアナタ。

 そりゃ生きてたら何かしらあるでしょーよ。むしろ、なにも起きないほうが不自然だと思いますけどもー?(絶対そう!)

「こまかいこと言いっこないしだよお。と・に・か・くぅっ」ラーニャが顔を近付けてきた。「ここで虹を見れた人にはあ、なぁーんか良いことあるって言い伝えがあるのっ。どぅーゆーあんだすたーんっ?」

「お、おーけー。あいあんだーすたん……」

 オレはラーニャの勢いに負けて少したじろいだ。この子にしては珍しいゴリ押しだった。

「あとねぇ、ここで虹を見たこと誰かに話しちゃダメだよお。ご利益なくなっちゃうって言われてるから」

「え、そうなんだ……」オレは言った。「その言い伝え、すごく神秘的。すてきなお話だね?」

「でっしょお〜?」

「そっかぁ、ひとに話すとご利益がなくなる……」

 オレはひとりごとのように小さく呟いた。まるで、自分が発した言葉を自分自身に言い聞かせるかのように。

 ここで見た景色は他人に話しちゃダメ。

 ご利益がなくなっちゃうから。神さまからのプレゼントを受け取れなくなっちゃうから——。

 ラーニャが口にした言い伝えの真偽はともかく、つい守りたくなるような決まりごとだと思った。ミステリアスな掟にはどうしてか心惹かれてしまう。不思議なルールにはどうしてか心うばわれてしまう。

 だんだんと薄れゆく七色を見つめながら、オレは胸に湧いた気持ちに意識を向けた。

 今日ここで見たことを心のアルバムにしまっておくのもいい。今日ここで見たことをふたりっきりの思い出にするのもいい。そうしたいと思っている自分にふと気付いた。

 またひとつ秘密が増えた。

 ひみつが増えて嬉しくなるのはどうしてだろう。かくしごとが増えて嬉しくなるのはどうしてだろう?

 答えを見つけようとは思わなかった。光に照らされた秘密は秘密じゃなくなっちゃうから。暴かれた隠し事は隠しごとじゃなくなっちゃうから。ひみつも隠しごとも胸に秘めるからこそ尊く思える。

 きっとそのほうがいい。そう、きっと——。


 西の空ではもう、太陽が山の向こうに隠れ始めていた。


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