【2章】雨上がりを青に染めて 2
オレは曇の切れ間に光の断片を見つけた。
「あ……」
西の空に晴れ間が差し込んでいる。灰色の雲をかき分ける光の柱が空に浮かび、弱まった雨に紛れて地表に降り注いでいた。
どうやら、この雨宿りの時間ももうそろそろ終わりらしい。
「わぁ、向こう晴れてるねぇ。よかったあ〜」
ラーニャもまた晴れ模様を見つけたようだった。太陽と見紛うかのような明るい声が辺りに溶け出した。
「雨ももうだいぶ弱まったね。すぐ晴れてくれてよかった」
「ねー、ほんとお。さっきはびっくりしたよお〜」ラーニャが言った。「ここ最近ずっと晴れ続きだったから、雨に振られるの結構ひさびさかもお。寮もどったら洗濯物干し直さなきゃだねえ?」
「そだね。夕方までに乾いてくれるといいけど……」
「あんだけ晴れてたらだいじょぶでしょお〜。ほら、もう向こうの空けっこう青くなってるしい?」
「あ、ほんとだ……」
オレはラーニャが指差す先を目でたどった。彼女の人差し指は晴れ間さし込む青空を指し示していた。
あの青がまた戻ってきた。
あの鮮やかな青が向こうの空に浮かんでいる。灰色の世界をひっくり返すかのような青ざめた空だった。
「もう通り歩いてる人もチラホラいるね。雨まだ少し降ってるけど……」
オレは雨空から大通りへと視線を移した。街中にはもうすでに先ほどのような喧騒が戻りつつあった。たくさんの人が行き交う大通りは、いつも通りの顔を取り戻していた。
どうやら、小雨でも気にしない人は男性が多いようだった。
通りを歩く女性の姿はいまだ少なく、オレとラーニャを含めまだ雨宿りしている人が多い。男性がすでに街中を歩いているのとは対象的だった。
「ねー、男の人って濡れるの気にしないのかなあ?」ラーニャが言った。「うちのパパも雨具あんま持ちたがらない人なんだあ。あたし雨は好きでも濡れるのはヤダなあ〜」
「わたしも。小雨でもちょっと小走りしちゃうかも……」
「わっかるぅ〜。お化粧も崩れちゃうもんねえ?」
「そ、そだね。女性は化粧崩れ気になるよね……」オレは話を合わせた。
「そおそお〜、ルイゼナとかめっちゃ気にするからねえ。ほら、あの子メイクに命かけてる系の女じゃあん?」
「今日みたいな通り雨のときとか大変そう。その、防水加工してあるコスメならまた別かもだけど……」
「まーねえ。通り雨は女の敵だねっ」
「とくにルイゼナにはね」
「あはは」
オレとラーニャはお互いに顔を見合わせて笑い合った。ここにいないルイゼナをネタにして盛り上がっちゃってごめんなさい。今度リップクリームおごったげるから許してちょ。
ラーニャとおしゃべりしている途中、だんだんと空の青さが広がってきた。
もう今では西の青が東の空を侵食し始めている。空の領域に不法侵入した青が灰色の雲をどかし、西の曇り空を透けるような色で埋め始めていた。
どこかの国じゃ青は平和と安らぎのメタファーらしい。
どこまでも青い空は平和の象徴。どこまでも青い海は安らぎの象徴。透きとおった青は世界をありのまま映し出す鏡に。
あの鮮やかな青を見てると元気になれるのは、色が持つ特性のおかげで自律神経が整うから。ひとの心に平和と安らぎをもたらしてくれるのが青なんだって。ふぅん、そうなのぉ〜?(好奇心ぐさぐさっ♡)
いつの間にか、もう雨はほぼ目に見えないほど細かくなっていた。
まるで、いくつもの細い糸が空から垂れ下がっているかのよう。あの曇り空から吊り下がった糸の雨は、先ほどまで雨宿りしていた人たちを外に連れ出した。
大通りはもう何人もの人が行き交っている。どこからか楽しげな笑い声も聞こえてきた。
先ほどまで止んでいた楽器の音も、もう聞こえなくなった雨音と代わりばんこで顔を出した。わずかに残った雨空に弦楽器の音色が溶け込んだ。かすかに残った雨粒に管楽器の音色が溶け込んだ。
「だんだん人も増えてきたねぇ〜」ラーニャが軒下から顔を出した。「あたしたちもそろそろ行こっかぁ。ほら、もう雨ほとんど止んだみたいだしぃ?」
「そだね、行こっか」
ラーニャが手のひらで雨の状況を確かめたとおり、もうすっかり先ほどの雨足は鳴りをひそめていた。彼女の手のうえで雨がぴちゃぴちゃと跳ねることもない。
オレとラーニャは揃って軒下から出た。どうもお邪魔しましたぁ。
雨宿りの時間は思ったよりも早く終わった。先ほどの土砂降りが通り雨だったおかげか、建物の2階でもう洗濯物を干し直している人の姿もあった。
大通りは先ほどの雨を忘れたかのように賑やかだった。
どこからか聞こえてくるメロディが街を彩っている。雨が降り注いだあとは音の雨が降り注ぎ、大通りを歩く人たちの耳を癒してくれた。オレは街の喧騒に紛れる楽器の音に耳をすませた。
凛とした音色が耳に心地いい。ぴんと張った弦を爪弾く音が辺りに溶け出した。
「あ、この曲あたし好きなやつぅ〜」
ラーニャは通りの向こうにいる演奏者を指差した。どうやら、今あの楽器で弾いている曲は彼女のお気に入りらしい。
「いい曲だね。しんみりする感じのメロディで……」
「でしょでしょおー。あれ『時雨の折に』って曲なんだあ」ラーニャが言った。「ざーざー降る雨の日を音であらわした曲なんだってえ。あたしも小さい頃よくママに聴かされたなぁ〜」
「ラーニャのお母さんも好きな曲なの?」
「んー、そうかもっ。直接ママに聞いたわけじゃないけどお、雨の日にはよく弾いてくれたからさ〜」
「いいね、そういうの。空模様を音で表現するんだね……」
「そういう曲けっこう多いよお、うちの村にはっ」ラーニャが言った。「とくに『晴れ』にまつわる曲が多いかもねえ。ほら、この辺ってぴーかんの日も多いから」
「へぇ……ね、あの曲は?」
オレは通りの向こうを指差した。ラーニャが目でたどった先には、前に教えてもらったキリティパで演奏している人がいた。
「んっとねぇ、あれは『雨上がりの夜に』だよお」ラーニャが言った。「さっきまで土砂降りだったから、みんな雨が上がって嬉しいのかもねえ。あは」
「いい曲だね。しっとり穏やかな感じで……」
「ああいう曲ミリアが好きそうだねぇ。ゆったぁ〜りおだやかぁ〜なメロディで、ね?」
「そうだね、そうかも……落ち着いた曲のほうが聴いてて好きかも」
「んふふ、ミリアっぽいねぇ。あっ、あたしあの曲も好きーっ」
寮へと戻る道すがら、オレとラーニャは雨上がりのメロディに耳を傾けた。大通りの両サイドから聞こえてくる音の粒たちは、いつもと少し違って落ち着いたトーンが多かった。
音の雨が降りしきる中、オレたちは人で賑わう街中を歩いた。
道の途中には水たまりがいくつもできていた。先ほどの土砂降りの雨が辺りに小さな池を作り、子どもたちが水溜まりを蹴飛ばして遊んでいる。
ぬかるみに足を取られた男の子が転んだ。すってんころりん。
水溜まりを蹴飛ばす無邪気さ。泥まみれになっても気にしない無邪気さ。どうしてか、あの子たちの笑顔とラーニャの笑った顔が重なった。どうしてだろう?
「ありゃま、あの子たち泥まみれだねえ〜」
ラーニャはもまた向こうにいる子どもたちを見ていた。彼女は我が子を見守る母親のような優しい眼差しをしていた。
「あれだけ泥まみれだと、うちに帰ったら親に怒られちゃいそうだね」オレは言った。
「あはは、たしかにねぇ。ママの雷が落ちちゃうかもねえ?」
「ちっちゃい子にとっては遊び場なんだろうね、水溜まりって」
「あたしも小さい頃よくやったなあ、水たまりに足つっこむの!」ラーニャが言った。「だいたい水浸しになるから、あとでママに怒られちゃうんだけどねえ。親に怒られるのまで含めて、雨の日あるあるじゃなあい?」
「そうだね、わたしも——」
オレは脳の奥深くにある記憶の糸をたぐり寄せた。この頼りない糸をどれだけ手元に引き寄せようとも、釣り糸に引っかかるのは思い出の破片ばかりだった。
まただ、またこの感覚——。
どうしてだろ。ちいさい頃のことを思い出そうとすると、どうしても脳にロックがかかってしまう。
自分の幼少期がうまく思い出せない。あの子たちと同じように水溜まりを蹴っ飛ばして、今日のことだけを考えていた日々が思い出せない。こんなにも自分の記憶が頼りないのはどうして?
いつの間にか、オレは寮へと向かう足を止めていた。
視線の先では子どもたちが楽しそうに遊んでいる。あの子たちの姿と自分の過去の姿がどうしても重ならない。どうしてだろう。
「ミリアぁ?」
ラーニャの声がオレの意識を現実に引き戻した。左隣にいる彼女がこちらの顔をのぞき込んでいた。左下からこんにちは。
「どーかしたぁ、だいじょぶう?」
「……うぅん、大丈夫だよ」オレは首を横に振った。「その、あの子たち楽しそうだなって思って」
「あはは、そーだねえ。ああして水遊びできるの、ちびっ子の特権かもねぇ?」
「そうかも。ごめんね、行こっか?」
「おっけ〜」
オレは不安な気持ちを彼女に気取られないよう、できるだけ平常心でラーニャとおしゃべりした。この暗い気持ちもあの雨が洗い流してくれたらいいのに。そう思った。
大通りを抜けて小道に入ると、視線の先にはもう寮の上階が見えていた。
四方を低めの塀で囲まれた地上階は姿を隠し、ぴょこっと飛び出た上層階が姿を見せている。上と下のかくれんぼ。天と地のにらめっこ。
いつの間にか、空一面が青く染まっている。
肌をなでるように滑っていく風が心地いい。ほどよく湿度を含んだ風が吹き抜け、道ばたに生えている草木を揺らした。
雨上がりの空に晴れ間がのぞく。頭上に浮かぶ白い雲が風に流され、青いキャンバスを白く染めている。草木にしたたる露が日の光を受けてきらっときらめいた。
「あっ。見て見て、ミリアっ」
ラーニャが手をちょいちょいっと動かしてオレを手招きした。彼女の視線の先では小さな花が1つ咲いていて、緑と茶ばかりの風景を鮮やかな赤で彩っていた。
まるで、あの場所だけ別の時間が流れているかのよう。
ラーニャの足元にある花は目に痛いほど鮮やかで、葉っぱの部分に付いている雫は宝石のようだった。オレはラーニャの後に続いてしゃがみ込んだ。
「きれいなお花だね。ラーニャこれ好きなの?」
「めっちゃ好き〜。ちょおキレイでしょお?」ラーニャが言った。「このお花オレンジと黄色もあるんだけどね、赤がいっちばん鮮やかできれいなんだよお。あたしはどの色も好きだけど〜」
「暖色系のお花なんだね。ラーニャによく似合いそう……」
「あは。さっきも色のお話したもんねぇ、あたしたちっ」
「このお花わたしも好きかも。この辺でよく咲いてるお花なの?」
「ちょくちょく見かけるよお。もうちょっと後のシーズンになるとねぇ、向こうの丘でいぃ〜っぱい咲くんだよお。もうすっごい景色なんだから!」
「え、見てみたい。今はまだシーズンじゃないんだ?」オレはたずねた。
「んだねぇ、もうじき開花時期だからすぐ見れるよぉ」
「そっかぁ、辺り一面お花畑になるんだね……」
「今度いっしょに見に行こーねぇ、あたし案内したげるからっ」
「うん、お願いします。また約束ごと増えちゃったね?」
「あはは、そーだねぇ。どんどん約束ばっか増えてくねえ、あたしたちっ」
「ね、ほんと。わたしは色んなとこ行けて嬉しいけど……」オレははたと気付いた。「——っていうか、わたしたち寮にぜんぜん着かないね。さっきから寄り道してばっかで……今もだけど」
「まーまー、たまにはいーじゃあん。ほら、今日は途中で雨にも降られちゃったしい?」
「仕事終わりで良かったね。朝に雨だとちょっと気が重かったかも……」
「ねー、ほんとお。朝からびしょ濡れごかんべんぅ〜」
オレとラーニャはお花を愛でながら、束の間のおしゃべりに花を咲かせた。目の前にある赤い花まで笑っているような気がした。たぶん気のせい。
オレたちは寮に戻る途中でお花を鑑賞したあと、もう目と鼻の先にある目的地に向かって歩いた。
寮へと続く小道はところどころ水たまりができていた。水面には鮮やかすぎるほどの青が映し出されていて、先ほどの雨で出来た天然の鏡が空を写し取っていた。地上にもあの空と同じ青があった。
小道を抜けて寮の正門に入ると、敷地内にはもうすでに何人か仕事から戻ってきた寮生の姿が。
みんなして慌ただしそうに洗濯物を外に干していた。しぜんと、オレとラーニャの足はみんながいるところへ向かった。こちらに気付いた何人かの寮生が手を振りかけてきた。
オレとラーニャも彼女たちに手を振り返した。期せずして手を振り合戦が始まった。始まってません。
「おっかえりー、ふたりともー」
「戻ってきて早々わるいんだけどさぁ、洗濯物干し直すの手伝ってくれるー?」
「おっけー、まっかせて〜」ラーニャが言った。
向こうからお手伝いの依頼が飛んできた。はじめから手伝うつもりだったオレとラーニャは、彼女たちと一緒に残りの洗濯物を干しにかかった。
「こっちのスペース使っていい? 向こうのほうがいい?」オレはたずねた。
「こっちで全然いいよー。あ、カーペットは向こうにある竿にお願いねー?」
「さっきの雨すっごかったねー、私もう帰ってくるころにはびしょびしょでさぁ——」
オレとラーニャは他の子たちと話しながら作業を進めた。おしゃべりのテーマはやっぱり「さっきの土砂降り」だった。どうやら、どの寮生もみな先ほどの大雨には参ったらしい。
こうして仕事がえりに別の作業にスムーズに移れるのも、仕事着と普段着の境界があいまいなおかげかもしれない。
洗濯物を干すこともそう、部屋を掃除するのもそう。着の身着のままお仕事にのぞむことは何もおかしくない。仕事はどこまでも日常生活の延長で、日常の中にも仕事が溶け込んでいた。
向こうの世界では味わえなかった時間が今ここにある。
こうしてお喋りしながら家事をする時間が心地いい。みんなと一緒に洗濯物を干しなおす時間が心地いい。どうしてだろう?
誰かと一緒だと退屈な作業すらも楽しく思えるのは、今まで人との関わりが少なかったせいかもしれない。ひとの営みに自分が紛れていることが嬉しかった。自分も仲間に入れてもらえたような気がしたから。
青い風が吹いている。
ぴゅうっと吹く風が洗濯物を揺らした。地面に落ちた影が風に揺られて地上を泳いでいる。
あの青が陸上に住まう墨色の魚たちを泳がせた。どのシルエットも気持ちよさそうに泳いでいる。どこからか聞こえてくる寮生たちの声もまた青で彩られていた。あの青はどこまでも雨上がり特有のこざっぱりした空気を含んでいた。
空に浮かぶ雲が東に流れゆく中、水溜まりに映る青がやけに鮮やかに見えた。
みんなの目が青に染まっていることが一番うれしかった。




