【2章】雨上がりを青に染めて 1
午後。
ある日の仕事の帰り道、空模様がどうも怪しい。
灰色が頭上を覆っている。図書館まで迎えに来てくれたラーニャと寮に戻る途中、先ほどまで晴れ一面だった空が少し薄暗くなってきた。
「なぁんか雲行き怪しくなってきたねぇ〜」
オレはラーニャの声に誘われるように空を見上げた。たしかに、上空は先ほどの景色とはまるで違っていた。
「ほんとだね。さっきまで太陽でてたのに……」
「ねー、どんよりしてきちゃったぁ」ラーニャが言った。「曇り空ってちょっとニガテだなぁ。ほらぁ、あたしって灰色あんま似合わない女じゃあん?」
「そ、そだね……」
や、知りませんけども。この不肖わてくしめ、灰色って割と誰でも似合う無難な色だと思ってましたけれどもね。えぇ、えぇ。
とはいえ、ラーニャの言うことも分かる気がする。
どんよりした曇り空とかじゃなくって、この子には晴れた空がよく似合うから。この太陽みたいな子には青が粧し込んだ空がよく似合う。
たとえば、あのお日さまにはひまわりがよく似合うように。
たとえば、ひまわりにはオレンジの差し色がよく似合うように。オレンジとイエローどちらも、彼女を色付ける色だと思った。
この子には明るい色がよく似合う。あの太陽のような明るさは、ラーニャのパーソナリティーそのものだった。雨に濡れたひまわりも趣があるけれど、あの明るい花にはやっぱりお日さまの光がよく似合う。そう思った。
「ラーニャは無彩色より暖色系がよく似合うよね、わたしの印象だけど……」
「でっしょお〜?」ラーニャは満足そうだった。
「普段よくオレンジ系の服とか着てるもんね、ラーニャ」オレは言った。「黒とか灰色みたいに落ち着いたトーンより、明るい系の色のほうが似合ってる気がする。髪色ともマッチしてるし……」
「えー、うれし〜。すっごい褒めてくれるじゃあん?」
「わ、わたしの印象だけどね。ほんとに合ってるかどうかは……」
「そっかそっかぁ〜、ミリアにはそう見えてるんだねえ」ラーニャが言った。「ミリアは薄ぅ〜いピンクとかよく似合うよねぇ。ほら、いま着てるのもやわらかぁ〜い感じのカラーだしぃ?」
「そう、かな……あんまり気にしてなかったかも」
「よく似合ってるよお。ミリアちゃんはパステル系の色が似合う女だねぇ?」
「あ、ありがと……」
オレはラーニャに言われるまま、いま自分が着ている衣服を見た。あちこちに刺繍が入った薄いピンク色の服は、上下セットで首元だけ肌が露出するデザインになっていた。
幾何学的な模様が襟から袖に至るまで縫われている。
以前ラーニャからもらった服と一緒で、いま着ているものもまた下はズボンに。動きやすさに配慮してのコーディネートらしい。
この世界は日常生活の延長に仕事があるせいか、仕事着でスカートを着ている女性は見かけない。仕事のときにスーツみたいな畏まった服を、わざわざ着るのはかなり珍しいことらしい。ふぅん、そうなのぉ〜?(疑問)
いまラーニャが着てるのも普段着。
寝巻きから生活着に着替えたあと、そのまま外に出て仕事場に向かう。労働と日常が溶け合った繋がりのある世界。
メインの仕事がない日でも掃除とか洗濯はしなきゃだから、お休みの日とお仕事の日を明確に分ける必要がないのかも。オレも仕事のときは服の上から司書さん用のエプロン着る程度だし、この村じゃあ日常と仕事の境界があいまいなのが普通なんだろーね。
寮へと向かう道すがら、オレは自分が着ている服の裾を両手でみょいーんと引っ張った。
「……」
伸縮性のある服は雑事を済ませるときにも役立つ。
あの図書館で働いていると階段や梯子などで昇降するため、足が突っ張る素材だと仕事に差し支えてしまうことも時々。なにより、このゆったりとしたデザインは動きやすさの要だった。
おしゃれなのに合理的。
これだけ刺繍が入っているデザインでも、動きやすさへの配慮はちゃんと忘れずに。実用性と装飾性が布の上で溶け合っている。
アール・デコとアール・ヌーヴォーが調和したかのような柄だった。この幾何学模様ひとつひとつにも意味があると思うと、なんだか自分より大きな存在に守られている気がした。
ひとの願いが込められた柄には愛着が湧く。
大量生産された服に愛着を持つのはむずかしくても、こうして祈りが込められた一品は大切にしたくなる。魔除けがほどこされた衣服には愛情も注ぎやすいと思った。
この世界のファッションに気を取られていると、とつぜんオレの頭にぽつっと何かが落ちてきた。
「やだぁ、雨ふってきちゃったぁ〜」
ラーニャの声がオレの視線を空に導いた。たしかに、よくよく見ると空から雨粒がぽつぽつと落ちてきていた。
どうやら、今日のお空は気まぐれらしい。
いつもなら顔を覗かせる太陽も、今日だけは鳴りをひそめていた。さんさんと降りそそぐ日の光を、灰色の雲たちがさえぎっている。
「小雨だね。すぐ止んでくれるといいけ——」
オレのあわい期待とは裏腹に、雨はとつぜん大降りになった。ぽつぽつと降っていた雨粒が今はもう、太い矢のように地表に降り注いでいる。
「わ、わわっ……」
オレは慌てて自分の頭を両手でおおった。とても手でおおいきれるような雨の量ではなかった。
「ミリア、走ろっ。あそこまで!」
「う、うんっ」
オレは今ラーニャが指差したところ目がけて彼女と一緒に走った。薄い灰色だったはずの砂利道が雨に打たれ、しだいに黒に近い濃い灰色へと姿を変えた。
オレはラーニャに手を引かれる形で屋根の下に入った。
いまは営業していないらしいお店の屋根には、バケツをひっくり返したような雨が今も降り注いでいる。ぼたぼたと雨らしくない音を立てながら、雨粒が頭上にある屋根に跳ね返っていた。
束の間の雨宿り。
あの暗い空からは相変わらず雨が降りそそいでいる。青空が懐かしく思えるほどの雨模様だった。
オレは雨で濡れた服を手でぱっぱとあおいだ。先ほどラーニャが褒めてくれた薄いピンクの服は、今はもう桃と見紛うかのような色に変わっていた。
「ありゃあ、けっこう降ってきちゃったねぇ〜」
ラーニャは屋根の下から空を見上げていた。彼女の視線の先には相変わらずの曇り空が浮かんでいる。
彼女は自分の顔についた雫をハンカチでぬぐっていた。オレもラーニャにならって自分の髪をハンカチで拭いた。ポケットから取り出したこの小さな布では、濡れた身体をぬぐいきるには少し心許ない。
「もう本降りだね。服もけっこう濡れちゃったし……」オレは言った。
「あたしも〜。もおっ、雨降るなら先に言っといて欲しーよねぇ?」
「ちゃんと事前に言ってくれたら、こんなに濡れずに済んだのにね?」
「いえすいえーす、そーゆうことっ」ラーニャは笑った。「今日のお空は気まぐれ屋さんだねぇ。さっきまで晴れてたのがウソみたいじゃなあい?」
「そうだね、たしかに……」
オレたちはお店の軒先で雨宿りをしながら、退屈しのぎに他愛のないおしゃべりをした。これほど大振りの雨に打たれるのは久しぶりだった。
あっちの世界じゃ天気予報があるからね。
こっちの世界じゃお天気レーダーの恩恵が受けられないから、テクノロジーに慣れきった現代人には少し不便に感じるかも。
辺り一帯を雨音が満たしている。この突然の雨の中、道の向こうでは今もまだ走っている人がいた。あの人も雨宿り先を探している途中かもしれない。
ちょっと騒々しいくらいの雨音だった。
前にラーニャから聞いた話だと、この子の好きなものランキング4位は『雨の音』だったはず。オレの記憶が正しければね。
この雨もこの子の耳を癒してくれるのかな。この大振りの雨もこの子の心を落ち着かせてくれるのかな。とつぜん湧いた疑問はオレの好奇心をぐさぐさと刺激した。いちど湧いた疑問は心の外に行き場を求めていた。
へい、らーにゃ。あいはぶあくえすちょん。めいあいあすくゆーさむしーん?(カタコト)
「ラーニャ、こういう雨の音も好きなの?」
「え、なになに。なんの話ぃ?」ラーニャがたずねてきた。
「や、前に『雨の音が好き』って言ってたから……」オレは言った。「こういう土砂降りの音でも好きなのかなと思って。ほら、ひとくちに『雨の音』って言っても色々あるし?」
「わぁ、よぉく覚えてたねぇ。前に一回お話したっきりじゃなあい?」
「そ、そうかも。この雨みてたら今パッと思い出して……」
「前そんな話したねぇ、そーいえばあ」ラーニャが言った。「この雨の音も嫌いじゃないけどぉ……うぅ〜ん、もーちょっと小降りのほうが好きかもだなぁ」
「ぽつぽつ小雨で降るような音、とか?」
「そおそおー。こんだけ音おっきいとさぁ、ちょっぴり不安になってこなあい?」
「あ、わかる気がする……どっか壊れちゃいそうなくらいの音だもんね?」
「ねー、だよねぇ。もうちょっと静かな雨音が好きかなぁ、あたしはねっ」
「そっか、もうちょっと静かな……」
オレはラーニャの言葉に誘われるように空を見上げた。はるか遠くにある空からは今も雨が降り注いでいて、軒先のルーフに透明な雫を容赦なく叩きつけている。
ラーニャの言うとおりだった。
たしかに、この大振りの雨は人の心を不安にさせる。なにかしらのハプニングを予感させるほどの大きな雨音だった。
オレは大通りの向かい側に視線を移した。対岸にあるお店では、店員さんらしき人が仕事の手を止めて空を見上げていた。ほかのお店の軒先にも雨宿りする人の姿がいくつもあった。
どうやら、とつぜんの雨に降られたのは自分たちだけじゃないらしい。
この大振りの雨は人の足を止める。この土砂降りの雨は仕事の手を止めて、束の間の暇をもたらしてくれるらしい。大通りの向こう側で雨宿りしている人たちもまた、オレたちと同じように何か話しているようだった。
向こうの話し声はこちらまでは届かない。
この激しい雨音が人の声をかき消す。この土砂降りの雨が話し声を飲み込んでいく。雨とともに洗い流されたお喋りはどこに行くんだろう。
「わたしも雨の音は好きかな、ふしぎと落ち着く気がして……」
「ねー、いいよねぇ。雨の音っ」ラーニャが言った。「あたしねえ、おうちの窓から雨ながめるの好きなんだぁ。ほら、縁側とかでさ?」
「あ、わかるかも。草木に雨が跳ねてるのとか風情だよね?」
「そおそおー。ちっちゃい頃よくやってたんだぁ、軒下で雨粒鑑賞っ」
「いいね、そういうの」オレは言った。「その、雨ってちょっと非日常感あるし……」
「雨上がりとかもいいよねぇ。ほら、お日さまの光が水溜りに反射してキレイでしょお?」
「ね、わかる。雨の宝石みたいじゃない?」
「あはは、雨の宝石かぁ。ミリアは詩人さんだねえ?」
「あ、ごめん……」
「もお、なんで謝るの〜」ラーニャは眉尻を下げた。
「や、こういうのウザいかなって……」
「えー、ぜんぜんだよぉ。あたし今の『すてきな表現だなあ〜』って思ったよお?」
「そ、そっか。ならよかった……」
臆病風に吹かれたオレは目をそらした。さいごに見たのは困ったように笑うラーニャの姿だった。
この心はいまだに他人に遠慮してしまう。
思ったことをすなおに口にできたらいいのに、この臆病な心が本心をさらすのをジャマする。鎧を脱ぐのをためらってしまう。
行き場をなくした言葉は雨の音に飲まれていった。どうやら、あの土砂降りの雨は鎧を脱がせてくれはしないらしい。この心が裸になるのを手伝ってはくれないようだった。
いつか、この鎧を脱げる日は来るのかな。裸の心で自分と向き合える日は来るのかな?
「ねぇねぇ、ちょっと雨足弱まってなぁい?」
オレのポエティックなモノローグ(笑)はラーニャの声で中断された。
え、ちょっと待って。どこの誰ですか、いま勝手に『(笑)』を付けたのは。ひとの心に許可なく入り込んで『(笑)』を付けるのはやめてくださ——。
「あ、ほんとだ。さっきより雨やわらいだかも……」オレは言った。
「ねー、通り雨だったのかなあ?」ラーニャが首をかしげた。「このまま雨止んでくれるといーねぇ。雨じたいは嫌いじゃないんだけどさ〜」
「わかるよ。わたしも土砂降りは遠慮したい、かな……」
「あはは、だよねぇ。服もびちょびちょになっちゃうもんねえ?」
「あと洗濯物もね。部屋干しだとヤな匂いしちゃうし……」
「わっかるぅ〜、あの匂いヤだよねえ。あたもちょっと苦手かもお」
「あ、洗濯物だれか取り込んでくれたかな?」
「寮の人がやってくれてると思うよお、たぶんね〜」ラーニャがうなずいた。「こういうとき寮生活っていーよねぇ。自分がいなくっても誰か代わりにやってくれるしぃ?」
「そうだね、たしかに。ほかに誰かいてくれると助かるよね」オレは言った。「洗濯物乾かないのは確かにヤだけど、たまには雨の日があってもいいかな……わたしはね」
「たまにならこういう日もいいよねえ。あたし雨上がりも好きなんだあ、虹かかってたらもうさいこぉ〜」
「虹……」
オレはひとりごとのようにつぶやいた。そっか、こっちの世界にも虹はあるんだね。水滴のプリズムが生み出す七色の橋。
や、そりゃあるか。
だって、虹って光学現象だもん。基本的な物理法則がある世界なら、虹が見えててもおかしくないよね。
虹、雨雲、晴れ間、雨上がり——。
ラーニャの言うとおり、雨の日って不思議と落ち着く感じある。あの雨が心のなかに溜まった汚れを洗い流してくれる、あの雫が胸の奥に積もった澱みを洗い落としてくれる。そんな気がする。
あの空にも虹がかかる。あの灰色の空にも七色の橋がかかる。
オレはまだ姿の見えない虹を空の向こうに幻視した。あの曇り空が奥に引っ込んだあとには、お日さまが顔をひょこっとのぞかせる。
あかるい明るいお日さまが顔を出したあとには、プリズムの役割を果たす水滴が光を散乱させる。七色の橋がかかるのは太陽の恵みがあるときだけ。束の間に差し込む光が空の一部を七色で彩ってくれる。ミー散乱は理性と叙情の交差点だった。




