【7章】ひとりにしないで 2
視線の先にいる猫が再度こちらを振り返った。あの金色の目がこちらを見つめている。
「にゃー」
猫ちゃんはオレたちのほうを見ながらまたひと声鳴いた。恐怖と不安の余韻が残る夜の小回廊に、大変かわいらしい鳴き声が溶け出した。
あの猫はオレたちが歩き出すのを待ってくれている。そんな気がした。
「もしラーニャがヤなら行くのやめよう。ね、どうしたい?」オレはたずねた。
「え、うぅ〜ん……ミリアはぁ?」ラーニャがたずね返してきた。
「んー、わたしはちょっと気になるかも……」オレは向こうを指差した。「ほら見て、あの子もちゃあんとお座りして待ってくれてるみたいだし?」
「あは、ほんとだぁ。かしこい子だねえ」
「にゃー」猫がまた鳴いた。
「まるで『そうだよ』って言ってるみたいだね、あの猫ちゃん」
「んふふ、ミリアは猫ちゃんの気持ちがわかるんだねぇ」ラーニャが笑った。「んじゃあ、もうちょっとあの子に付き合ったげよっかぁ。ほら、いい子にお座りして待ってくれてるしぃ?」
「ん、そだね。もし行くのヤんなったら言ってね?」
「はぁ〜い」
気を取り直して、オレとラーニャはまた猫の後を付いていくことにした。少し先を歩く猫ちゃんは相変わらずスムーズな足取りだった。
前へ前へと迷いなく進んでいく姿は、まるで向かうべき場所がはっきりしているかのよう。
どこに向かっているのかも分からないまま、オレたちは先行する猫の後をついていった。あの猫はオレとラーニャをどこに連れて行きたいんだろう……?
廊下を抜けて寮の外に出ると、少し湿った空気がオレの肌にまとわりついた。
夜中は日中と比べて湿度が高い。すぅっと息を吸うたび湿度を含んだ空気が鼻に入り込んで、寝起きで乾燥した肺にほんの少しだけ潤いを与えてくれた。
あの猫ちゃんはこちらの状況なんてお構いなしに進んでいく。まるで、オレたちが自分の後ろをついてきていることなんて分かりきっているかのようだった。あの迷いのない足取りは人間がそばにいるのを確信してのことかもしれない。
「ねぇ、あの子どこまで行くんだろーね?」ラーニャが呟いた。「もう寮から出ちゃったよぉ。この先に行っても畑があるだけだしぃ〜……」
「そだね、本人は迷いなく歩いてるけど……」
「ねー、すいすい歩いてくよねえ。全然こっち振り向かないしぃ」
「うん、ほんとどこ行くつもりなんだろ……」
オレとラーニャの戸惑いは深まるばかりだった。少し先を行くあの猫だけが唯一、この夜行の終着点を知っていた。
ラーニャは相変わらずオレの腕を掴んでいた。
ひょっとしたら、彼女も少なからず不安なのかもしれない。自分がどこに向かっているか分からない不確かさは不安を連れてくる。
オレは隣を歩くラーニャの手に自分の手を重ねた。彼女は温もりを確かめるかのように、自分の指をこちらの指に絡めてきた。お互いの指先が指と指の間にするっと入り込んだ。
とつぜん、猫ちゃんが道の途中で立ち止まった。
案内人のにゃんこが辺りをきょろきょろと見回している。まるで、周りの状況を確かめるかのような動きだった。
「にゃんっ」
猫ちゃんがにゃんとひと声鳴くと、近くの茂みから別の白猫が現れた。野良ネコのわりに毛並みがつやつやした白にゃんこだった。
「にゃあ〜」
とつぜん現れた白猫がオレたちの足元に近寄ってきた。ラーニャの足元がお気に入りなのか、白い猫ちゃんは彼女の足に自分の顔をすりすりとこすりつけた。
「やだぁ、この子お顔すりすりしてるぅ。かわいい〜っ♡」
ラーニャはヒザを折ってその場にしゃがみ込み、自分の足元にいる猫ちゃんの頭を撫でてあげた。
「にゃ〜」
どうやら、2匹目の猫ちゃんは1匹目と違って人懐っこいらしい。ラーニャが彼女(?)の頭を撫でている最中も、白にゃんこは気持ちよさそうに目を細めていた。
オレもラーニャの後に続いてその場にしゃがみ込んだ。
「ずいぶん人慣れしてるみたいだね、この子……」
「ねー、うちの誰かがエサあげてたりするのかなぁ?」ラーニャが言った。「ほんとはあんましよくないんだけどねぇ、猫ちゃんたちがここに居着いちゃうから。ひとの顔も覚えちゃうしさ〜」
「あとエサの味も覚えちゃうだろうしね。あげる側はいいかもだけど……」
「まーねぇ、エサあげたくなる気持ちも分かるけどねぇ。こんなにかわいーんだもおん」
「にゃ〜?」白猫が鳴いた。
「ねー、かわいいもんねぇ?」ラーニャが猫にたずねた。
「にゃあ〜」
「やだぁ、この子ちょー可愛いんだけどぉ。おうちに連れて帰りたぁ〜いっ♡」
ラーニャは猫の頭が禿げ上がりそうな勢いでわしゃわしゃと撫でまくった。あ、ちょっとぉ。あんまり撫ですぎるとつるっぱげ猫ちゃんになっちゃうよー?(心配)
「みゃあ、みゃあーっ」
道の向こうにいる黒猫がふた声鳴いた。ラーニャの足元にいた白猫は、あの鳴き声に釣られるように黒猫のもとに駆け寄った。
「にゃあ〜」
あの猫たちが2匹そろってこちらを見つめている。顔を後ろに向けたまま半身になった猫たちは、なにか伝えたそうにオレたちを見つめていた。
「……案内人がもう1匹ふえたね」
「んだねぇ、案内猫ちゃんだぁ〜」ラーニャが言った。「この子たち、ずいぶん賢いんだねぇ。ちゃあんとあたしたちのこと待ってくれてるよお?」
「前世は人間だったんだろーね、きっと。ほら、ラーニャの前世が犬だったみたいに?」
「あはは、その話よぉく覚えてたねぇ。ミリアも前にソニヤさんに占ってもらったもんねぇ?」
「わたしは前回も人間だったって言ってたね、ソニヤさん」オレはうなずいた。「すっごく印象的だったからよく覚えてるよ。ラーニャの前世がわんこだったのは……その、わりと納得できちゃうかもって」
「えー、そーお? あたし犬っぽい〜?」
「人懐っこいところとかね。大型犬より小型犬のイメージかも」
「じゃあじゃあ、ミリアは中型犬ねえ。わんこ同士なかよくしよーね?」
「そ、そだね。わんこ同士……」
「あたし的にはネコとかリスっぽくもあるけどなー、ミリア。ほら、好奇心おうせいなとことかあ?」
「わたしどっちも好きだな、ネコもリスも。癒され系の動物だよね?」
「ねー、ほんと。あたし動物が戯れ合ってるとこ見るとぉ〜……もうねぇ、きゅーんってしちゃう」
「わかる。ずっと戯れ合ってて欲しい」
「だよねだよねっ」
期せずして、オレとラーニャの間で動物談義が花咲いた。どうやら、この子はオレに対して小動物系(ときには中型犬?)の印象を持っているらしい。ふぅん、そうなのぉ?
前回、ソニヤさんに占ってもらったのももはや懐かしい。
あのときの占いは本当に印象的だったと思う。とはいえ、オレの場合「印象的だった」の意味が他の人と違うかもだけど。
正直あのときは焦りのほうが強かった気がする。ソニヤさんに自分の正体がバレたんじゃないかと思って。オレは本当はこの世界の人間じゃなくて、もともとは別の世界で生きてたんだって。
あわや正体がバレそうになったところ、すんでのところで身バレを未然に回避。
いまだに、ソニヤさんがあのとき口にした言葉の意味が分からない。『水の子』って一体どういう意味だったんだろ。たしかに、あのとき引いたカードの絵柄は水の女性だったけど。
もしかして、水の子って——。
「にゃーん」
猫の鳴き声がオレの意識を現実に引き戻した。想像の世界に旅立っていた意識が再び現世に舞い戻ってきた。
猫たちが茂みの手前で立ち止まっている。
2匹の猫たちが揃ってこちらを見ていた。まるで、ここが目的地だと言わんばかりの眼差しだった。
「わぁ、こんなところに〜っ?」
ラーニャの目がとたんに輝き出した。まるで、とても珍しいものを見つけたかのような眼差しだった。
彼女はすぐさま猫たちのもとに駆け寄った。にゃんずを抱き上げるのかと思いきや、ラーニャの目当ては茂みの近くに生えている花のほうだった。一輪の花が凛と咲いているのが見えた。
ラーニャは両手を膝に付いたまま、目の前にあるお花を見つめていた。
「みて見て、ミリアっ。これアロアの花だよ!」
「アロ、ア……?」オレは聞き返した。
「このお花はねえ、一夜草だからひと晩しか咲かないのっ」ラーニャが言った。「お花が咲いてるとこ見れるのすっごい珍しいんだあ。この辺には生えない品種なんだけどお……んん〜、なんでだろーねぇ?」
「そ、そだね。見つけられてラッキーではあるけど……」
「んだねぇ。きっとこの猫ちゃんたちが教えに来てくれたんだねぇ、あたしたちにっ」
「そうかもね。ちゃんとお礼いわなきゃだね?」
「うんっ」
ラーニャはヒザを折ってその場にしゃがみ込んだ。彼女の視線の先には先ほどの猫たちの姿があった。
「ありがとーねぇ、猫ちゃんたち〜」ラーニャは猫たちを撫でた。「あなたたちのおかげで良いもの見れたよお。賢いにゃんずですねぇ〜?」
「にゃあ〜」白猫が鳴いた。
「にゃーん」黒猫も鳴いた。
猫たちが鳴くのはほぼ同時だった。ふたつぶんの鳴き声が夜に溶け出した。
「あは、かわいっ。ちゃんとお座りして、おりこうさんだねぇ?」
ラーニャの言うとおり、猫たちは2匹そろって後ろ足を地面にぺたんと付けていた。
待ちの姿勢でお行儀よくお座りしたまま、彼女に頭を撫でられる猫たちの姿は大変かわいらしい。すーぱーきゅーと。はいぱーきゅーと。
オレもラーニャにならって猫たちのそばに寄った。
「ありがとね、猫ちゃんたち」オレは言った。「このお花を見せたくてわたしたちを連れ出したの?」
「にゃあー」黒猫が鳴いた。
「あはは、まるで『そうだよ』って言ってるみたいだねぇ」ラーニャが笑った。
「ね、ほんと。かしこいかわいい猫ちゃんですねー?」
オレは猫たちの頭をそっと撫でてあげた。2匹そろって気持ちよさそうに目を細める姿が可愛らしい。もうこのままお家に連れて帰りたいくらい。
ふと良い香りがした。どこから香ってくる匂いだろう?
「なんか良い匂いする……」
オレはひとりごとのように呟いた。この匂いの発生源を探ろうと、オレは辺りをきょろきょろと見回した。
「このお花の香りだよぉ、ミリア。ほらっ」
ラーニャは自分の手をうちわ代わりにして、こちらに向かってぱたぱたと手をあおいだ。彼女の手の動きに合わせて良い香りがただよってきた。
「わ、ほんとだ。甘いのに優しい香り……」
「ね、いい香りでしょおー?」ラーニャが言った。「これ珍しいお花だからねぇ、あんまり香水とかにもできないんだあ」
「あ、そっか……そもそも咲いてるところ自体めずらしいんだもんね?」
「そおそお〜。今夜は良いことあったねぇ、猫ちゃんたちのおかげだね?」
「そだね。ありがとね、猫ちゃんたち」オレは再び猫たちの頭を撫でた。
「みゃあー」黒猫が鳴いた。
「にゃあ〜ん」白猫も鳴いた。
にゃんずはこちらに撫でられるがままにしていた。おりこうにお座りする姿が大変かわいらしい。うるとらきゅーと。
人慣れしてそうな白猫ちゃんもだけど、こっちの黒猫ちゃんもずいぶんと落ち着いてるね。やっぱり寮の誰かがこっそりエサあげてるのかなぁ?
かたや、ラーニャは花の香りを堪能しているようだった。
「そーだそーだぁ、このお花こんな香りだったんだよねえ〜……」ラーニャが言った。「もう久しく嗅いでないから忘れちゃってたかもぉ。あたし小さい頃このお花の香り嗅ぎたくて、あっちの丘まで行ってよく探してたんだあ」
「えと、わたしとラーニャが初めて会った丘?」
「んっとねえ、あそこからまた少し歩いたとこにある丘だよぉ。ほら、この辺って色んなとこに丘あるでしょお?」
「そっか。また別の丘なんだね、この花が咲くところ……」
「そおそお〜、子どもの頃もなかなか見っけられなくってねぇ。今日はほんとラッキー!」
どうやら、ラーニャは懐かしのお花を見つけて少し興奮ぎみらしい。この子の声のトーンに彼女の今の気持ちがよくあらわれている気がした。
かたや、のんきな猫たちはお互いに毛づくろいしていた。あら、かわいい。
「ん〜、いいにおーいっ」ラーニャは満足そうだった。「あたしの好きな匂いランキング更新しなきゃあ。にゅーふぇいすだねっ」
「何位にランクインしたの、このお花?」オレはたずねた。
「ね、当ててみて? 何位だと思う?」
「えっと……2位くらい、かな?」
「ぶっぶぅー、はっずれー」ラーニャは指でバツ印を作った。
「じゃあ、6位とか?」
「ちがいまぁーす。そこまで低くないでぇーす」
「えぇ、どれも違うじゃん……ほんとは何位なの?」
「んっふふ、教えなーいっ」
「ちょっと、気になるじゃん。教えてってば」
「ダメでぇーす。ずぅっと考えててくださぁ〜い♪」
「いじわる……」
結局、ラーニャは最後までランキングを教えてくれなかった。新しくランクインした匂いは何位だったんだろう。どうやら、行く当てのない好奇心があの花の香りに誘い出されたらしい。
オレたちが教えて教えないを言い合っている最中、茂みの近くにいる白猫が眠たそうにあくびをした。
もう夜が明け始めていた。朝焼けが目にまぶしい。
東の空から顔を覗かせた太陽が、まだ眠たげな街を照らしている。どうやら、あのお日さまももう起きる時間のようだった。
夜には良い面も悪い面もある。あの暗闇で悪いことが起きる場合もあれば、真っ暗闇でも良いことが起きる場合もある。こうして夜明けの瞬間に一輪のお花を見つけることだってある。この暗がりもきっと悪いことばっかりじゃない。きっと、きっと。
まだ夜の余韻が残る空にとびきりの朝日が差し込む中、あの朝焼けた空がこちらに何かを伝えようとしている。そんな気がした。
言葉にすれば色褪せてしまう何かを、きっと——。
おりこうさんの猫たちに別れを告げたあと、オレとラーニャは自分たちの巣へと帰った。




