【6章】この気持ちに名前を付けて 2
「——んでねぇ、あたし正直あのとき『やばぁい、超こわい!』とか思っちゃってぇ」ラーニャが言った。「もう飛んで帰りたいくらいの気持ちだったんだけどね、この先にロミがいるかもって思ったら自然と足が動いたの。あのときミリアとスィラも一緒で良かったよお」
「わたしも怖かったよ。その、この先に何があるんだろうって思って……」
「えー、そうなんだぁ。そんなふうに見えなかったけどなあ〜」
「ほら、わたしポーカーフェイスだから。感情があんまり顔に出ないタイプなの」
「うっそぉ。ミリアちょー分かりやすいと思うけどなぁ、あたしはっ」
「そ、そうかな……?」オレは戸惑った。
「ほらぁ、今だって戸惑いが顔に出てるしぃ?」
「それは、そのぉ……ラーニャの観察眼のたまものだよ、きっと」
「あはは、なぁにそれぇ〜」
ごきげんな笑い声が夜の廊下に溶け出した。先ほどの恐怖や不安なんて忘れたかのように、ラーニャはからからと楽しそうに笑っていた。
ひょっとしたら、このおしゃべりが恐怖心を和らげてくれるのかもしれない。
ひとは不安になると何か話したがる。とくに女の人は沈黙を不安に感じやすく、無言の時間を恐れておしゃべりを始める。オレはこの時間が彼女の不安を和らげてくれることを願った。
きっと、恐怖も不安もお化けに過ぎないから。光を当てればフッと姿を消してしまうだけの存在だと思うから。
しばらく廊下を歩いて休憩スペースにたどり着くと、オレとラーニャはいそいそとお茶の準備をはじめた。定位置に置かれていたやかんでお湯を沸かす途中、オレはポットにひと掴みぶんのお茶っ葉を入れた。
茶葉を投入したポットからは、ほんのりと紅茶の香りがした。
すぅっと息を吸い込むと鼻の奥に紅茶の香りが入り込んだ。向こうの世界にあるダージリンともそう遠くない香ばしい匂いだった。
この香りは心を落ち着かせてくれる。
お紅茶って不思議とリラックスするよね。まるで、この茶葉ひとつひとつに心を落ち着かせる魔法がかかってるみたい。
やかんに淹れた水がちょうど沸騰し始めたころ、火元の近くにいたラーニャが火を止めてくれた。彼女はもくもくと湯気が立つやかんを手に取ると、先ほどオレが調理スペースに置いたティーポットにお湯を注いだ。
ふわっと香る紅茶の匂いが辺りにただよった。
「……いい香り」
オレはひとりごとのように呟いた。いま口にしたばかりの呟きが紅茶の香りと混ざり合った。
「この香り落ち着くよねぇ〜」ラーニャが言った。「あたしお紅茶の香りが2番目に好き〜。ね、いちばんは何だと思う?」
「え、なんだろ……雨上がりの匂いとか?」
「ぶっぶーっ」
ラーニャはむいっと唇を尖らせながら指でバツ印を作った。どうやら、いまのオレの回答はハズレだったらしい。
「んんー……じゃあ、石けんの匂いとか?」
「あー、おっしい〜」ラーニャは笑った。「いいよぉミリアぁ、いい線いってるよぉ〜」
「あ、わかった。天然系の香りでしょ?」
「んっふふ、ヒントはなしでぇーす」
「え、厳しい……」
お茶っ葉から紅茶が抽出されるまでの時間、いつしかラーニャのいちばん好きな匂い当てゲームが始まっていた。しかも、ヒントは出してくれないらしい。
や、条件ちょっと厳しくなぁーい?(ぷち不満)
「んー、なんだろ……」
すっかり乗せられたオレは、頭の中で答えを考え始めた。いま自分の脳内は好きな匂い当てゲーム一色だった。
この子のいちばん好きな匂い、この子のいちばん好きな匂い……うぅ〜ん、雨の匂いも石けんの香りも違うんだもんね。うぅ〜んん(2回目)。
前に「雨の音が好き」って言ってたから、てっきり雨の匂いも好きなのかと思った。どうやら答えは違うみたいだけど。
以前お風呂に入ってるときも「石けんの香り好き♡」って言ってたもんね。あの石けんの爽やかな香りはオレも好きだけど、ラーニャのいちばん好きな匂いじゃないらしい。この問題むっずっ。
「〜♪」
オレが答えを考えている間、ラーニャは鼻歌を歌いながらお茶を淹れていた。どうやら、もうすでに紅茶のドリップが終わったらしい。
「あ、お花の匂い……とか?」
「あはは、お花かぁ〜」ラーニャが笑った。「んんー、ちょおっと範囲が広いですねえ〜」
「だ、だよね……じゃあ、キンモクセイの香りとか?」
「きんもくせい?」
「あっ、と……じゃ、じゃあ、焼き立てのパンの匂いっ」
「ぶっぶぅー、違いまぁす」ラーニャは唇をとがらせた。「でもでもぉ、あたしあの香ばしい匂いも好き〜。パンの匂いっていいよね?」
「うん、わたしも好き。お腹すいてくる匂いだよね?」
「わっかるぅ〜。でも違いまぁーす」
「えぇ、むずかしいよぉ……」オレは言った。
「だいじょーぶだよぉ、ミリアならっ。ほらほら、当ててみてっ?」
「なぞの信頼感……」
オレは不満にも似た呟きをもらした。かたや、ラーニャのほうはごきげんそうに頭を揺らしていた。彼女の動きに合わせてハミングのメロディも代わるがわる変化した。
お紅茶をカップに淹れ終わったあと、オレとラーニャはトレーを持って休憩室を出た。
紅茶が入ったティーカップの下にはソーサーが敷かれている。2つの白いソーサーを乗せたトレーは今オレの手元にあった。歩くたびにカップの水面がゆらゆらと揺れた。
光の石に照らされた紅茶が鈍い光を帯びていた。まるで、茶色いお化けがゆらゆらと揺れ動いているかのよう。
「雨上がりの匂いも違うし、パンの香りも違うでしょ……」オレは心の中で指折り数えた。「あ、ハーブ系の香りとかじゃない? ほら、ラーニャ薬草屋さんで働いてるから」
「薬草もいいよねぇ。あたしハーブ系の香りも好きかも〜」
「……その言い方だと答え違うみたいだね?」
「んっふふ、もう降参するぅ?」ラーニャが煽ってきた。
「や、しない。当てるまでやるから」
「あはは、ミリア意外とガンコさんだぁ」
オレとラーニャは匂い当てゲームを続行した。これは当てるまで終われない系のゲームだね。諦めたらもうそこで試合終了なのでぇす。
廊下を歩いて部屋に戻る途中、オレたちとすれ違う人はほとんどいなかった。
ひょっとしたら、みんなもうお休みの時間なのかもしれない。ロミを見つけるまでに結構な時間がかかったせいか、もう窓の向こうにある月もだいぶと西に傾いていた。
「うぅーん、うぅ〜ん……」
ひとりぶんの唸り声が辺りに響きわたった。いちど始めたゲームを途中で降りるわけにもいかず。どうやら、この心は自分が思っていた以上に頑固者だったらしい。
この時間がラーニャの不安を和らげることを願って、オレは廊下を歩きながら彼女の好きな匂いを考えた。
ひと気のない廊下も今日にかぎっては少し不気味だった。ひょっとしたら、先ほどの出来事が今もまだ尾を引いているのかもしれない。得体の知れない感情がまだ心の奥底に残っていた。
ほんとうに心を落ち着かせたかったのは、彼女じゃなくてオレのほうだったのかも。
「……ダメ、思いつかない」
「んじゃあねぇ、お困りのミリアちゃんに大ヒントっ」ラーニャが人差し指を立てた。「さっきの会話の中にヒントがありまぁす。石けんの匂い嗅げるのってどこがあるでしょおー?」
「石けんの……えと、洗面台とか?」
「あとはあとはぁ?」
「あとは、お風呂場とかも……」オレははたと思いついた。「あ、わかったっ。お風呂あがりの匂いじゃない?」
「せーかい大せいかーいっ」
ラーニャはぱちぱちと手を叩いて拍手をした。まるで、やっと正解を導き出したオレを祝うかのような動きだった。
「あたし、お風呂上がりの匂いいちばん好き〜」ラーニャが言った。「ほらぁ、あれって清潔な匂いするでしょお? 髪の毛もふわってするしさ〜」
「うん、わかる。こざっぱりした匂いだよね」
「そおそお〜。あたしあの匂い好きなんだぁ」
「わたしも好きだよ、あの匂い」オレは言った。「そっかぁ、お風呂上がりのね……たしかにラーニャが好きそうな匂いかも」
「でしょお〜?」
気付けばもう部屋の前まで来ていた。手が空いているラーニャが先にドアを開けて、オレは彼女にうながされるまま室内に入った。
心なしか、部屋の中は廊下とまた少し違う匂いがした。
ラーニャの香りらんきんぐ♡について話していたせいか、自分の鼻がいつもよりずっと敏感になっている気がした。お鼻くんかくんか。犬。
オレは休憩室から持ってきたトレーをテーブルに置いた。かたんと。
「はい、ラーニャ」
オレはラーニャにティーカップを手渡した。以前の彼女を見習って、持ち手の部分があちらを向くようにした。がーるずぱわー。
「わ、ありがとお〜」
ラーニャはこちらが手渡したカップを、下に敷かれたソーサーごと受け取った。あの白い円盤の上では相変わらず湯気がぼうぼうと立っていた。
オレはもう一方のティーカップに口をつけた。
「……ん、おいし」
音もなくすすり飲んだ紅茶はコクのある味だった。渇いた口の中が急速に癒されていく。オレは自分の心もまたお茶で潤っていくのを感じた。
「ね、お紅茶おいしーねえ」ラーニャが言った。「さっきはごめんねぇ、いじわるなゲーム持ちかけて〜」
「うぅん、楽しかったよ。ラーニャのいちばん好きな匂いも知れたし」
「さっき正直ちょっと不安だったんだぁ。『なんか話さなきゃあ!』ってぇ」
「や、わかるよ。わたしもそうじゃないかなって思ったから……」
「えー、そうだったんだぁ。ね、さっきミリアも不安だったぁ?」
「そう、だね。うん、そうかも……」オレは言った。「ほら、あんなことが起きた直後だったから。なにか話してたほうが気が紛れるかなって」
「だよねぇ。よかったぁ、ミリアもおんなじ気持ちで〜」
「正直まだ今も信じらんないかも。その、さっきのぜんぶ夢だったんじゃないかって……」
「ねー、ほんと。ぜんっぜん現実感ないよねえ?」
「うん……」
オレは手元にあるティーカップに目を向けた。目の前の茶色い水面には歪んだ自分の顔が映っていた。まるで、先ほど見たグリッチ状の光景そのものだった。
先ほどまでの明るい空気はどこへやら。
いつの間にか、室内には紅茶の香りと一緒に重苦しい空気が溶け出していた。ゆらゆらと揺らぐ湯気さえも気まずさの一部だった。
「ねぇ、ミリアぁ?」ラーニャが突然たずねてきた。
「うん?」
「そのぉ……ミリア、今日ってひとりで寝るよね?」
「え、うん。そうだけど……」
「そっかあ。うん、そうだよねぇ〜……」
ラーニャもまた自分の手元にあるカップに視線を落とした。彼女の今の要領を得ない質問はなんだったんだろう。その答えは先ほどの好きな匂いランキング♡の回答よりもずっと明確だった。
オレは今まさに自分の頭に浮かんだ答えと、質問の意図とを照らし合わせようと思った。
「あの、ラーニャ……?」
今度はオレがラーニャにたずねる番だった。
「う、うん? なあに?」ラーニャがこちらを見た。
「その……らっ、ラーニャも今日ここで寝る?」
「……いーの?」
「うん、わたしは全然……」オレは言った。「その、ラーニャがヤじゃなかったら……」
「や、全然そんな……ミリアのほうこそヤじゃなあい?」
「うぅん、ぜんぜん。その、不安なのはわたしも一緒だから……」
「あはは、そっかあ〜」ラーニャが笑った。「んじゃあ、あたし部屋から自分の枕もってくるねえ?」
「う、うん……あ、わたし一緒に行こっか?」
「んーん、だいじょぶぅ。ちょおっと待っててねえ〜」
「お、おっけー、待ってるね……」
「はぁ〜い」
ラーニャは手に持っていたカップを近くに置き、すたこらさっさーと足早に部屋から出て行った。心なしか、去り際の彼女の頭のうえに音符が浮かんでいるように見えた。たぶん目の錯覚。
ラーニャが出て行ったあとの部屋は静かだった。
オレは今はもうここにいない彼女の姿を幻視した。想像の中にいるラーニャはいつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
あの子が言いづらそうにもじもじする姿が可愛らしかった。あの子の背中がだんだんと小さくなるのが名残惜しかった。あの瞬間この心に浮かんだ気持ちは、たぶんきっと——。
「……」
オレは逃げるように窓の外を見た。今はもう先ほど幻視した彼女の姿はどこにもない。いま自分の目の前にあるのは、どこまでも深い夜の海だった。
頭上にある空では、夜の海を泳ぐ魚たちがキラキラときらめいていた。
あの星々がこちらを見下ろしている。この気持ちにはどんな名前が付くだろう。あの星たちのようにキラキラ光るこの気持ちはなんだろう?
ラーニャがもう一度部屋に戻ってくるまで、オレは自分の気持ちに戸惑うばかりだった。




