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【3章】ブーランジェリーフリシェ 3

 丁寧に焼き上げられたと思われるパンは、外側がミルフィーユ状の層になっていた。

 幾重にも重なった層の中心には赤いジャムが塗られ、ストロベリーを思わせる果実の塊が真ん中にドンと乗っている。仕上げとしてシナモンのような茶色い粉が振りかけられたパンだった。

「このパンは特に女性のお客さんに人気でねぇ、外側のパリパリ生地が病みつきになるんだと」フリシェさんが言った。「外はパリパリだけど中は生感を残してるから、このパン1つでしっとり食感とパリパリ食感どっちも楽しめると思うよ。もし気になったんなら食べてみな、ミリアちゃん」

「あ、ありがとうございます。じゃあ、わたしこれ頂きますね?」

「はいよ、もちろんどうぞ」

 フリシェさん直々の商品説明は完ぺきだった。すっかりこのパンの魅力に取り憑かれたオレは、彼の言うままに大人気のパンをトングで掴んだ。

 木製のトングは温かみがあり、このお店の雰囲気とよくマッチしていた。

「えと、ラーニャはこれだよね?」

 オレはトングでパンを指し示した。トングの先にあるのは、先ほどラーニャが食べたいと言っていたパンだった。

「うん、ありがとお〜」

「こっちも美味しそうだね。生地サクサクしてそう」オレはトングでパンを拾い上げた。

「でしょでしょおー。あたしこれ超お気に入りなんだぁ」ラーニャが顔をほころばせた。「ぱっと見ふつーの四角いパンに見えるかもだけどねぇ、中にクリームとフルーツてんこ盛りでさいっこーなの。あまぁ〜いカスタードも中に一緒に入っててね?」

「やば、おいしそう。わたしクリーム大好きだから……」

「んっふふ、あたしもあたしも〜。甘いクリーム食べると幸せな気持ちになるよねぇ?」

「ね、わかる。口の中しあわせでいっぱいになりそう」

 オレとラーニャはきゃっきゃとはしゃぎながら感想を言い合った。木製のトレーに乗ったパンたちが「いーとみーっ♡」とこちらに語りかけているような気がした。たぶん気のせい。

 パンの香ばしい匂いがただよう店内に、ふたりぶんのはしゃぎ声が溶け出した。

 お店にあるパンはどれもこんがりと焼けていて、食べられる瞬間を心待ちにしているようだった。あの小麦色の肌は人の舌を誘惑する魔性を秘めていた。あれは魔性の色だね(絶対そう!)。

「ありがとうございます、フリシェさん」オレは再び頭を下げた。「わたしとラーニャこれとこれにします。お言葉に甘えて、ありがたくいただきますね?」

「もちろんどうぞ。よかったらここで食べてきなよ、ちょうど今お客さんもいないし」

「え、でも……」

 オレは助けを求めるようにラーニャのほうを見た。いつもと変わらずごきげんそうな彼女と目が合った。

「いーじゃんいーじゃあん、せっかくだし頂いてこー?」

「そ、そう……うん、そだね」オレはうなずいた。

「いまお茶も持ってくるからねぇ。ちょっと待ってなぁ」フリシェさんは近くの棚に手を伸ばした。「先日ちょうど知り合いからパンに合うお紅茶もらってねぇ。これがまぁ〜うちの商品どれにも合うんだよ」

「やだぁ、さいこーじゃあ〜ん。あたしお紅茶だいすき〜♡」ラーニャが笑った。

「はっは、ラーニャは食べ物なら何でも好きだからねぇ」フリシェおじさんも笑った。

「あー、ひっどおい。ひとを節操なしみたいに〜」

 どうやら、ラーニャはフリシェさんから心外なことを言われてぷんすこらしい。ぷくっと膨れたほっぺたに彼女の今の気持ちがよくあらわれていた。

「さぁさ、どうぞお食べ。今お湯を沸かしてくるからさ」

「はぁ〜い。ありがとお、フリシェさぁん」ラーニャがお礼を言った。

「あ、ありがとうございますっ……」オレも彼女の後に続いた。

 フリシェさんはお店の奥に消えていった。どうやら、くだんのお紅茶はお店の奥にあるらしい。

 フリシェさんの後ろ姿を見送ったあと、ラーニャがこちらのほうに顔を向けた。あの夕焼けよりもうんと澄んだオレンジ色の瞳と目が合った。

「じゃあ、いただいちゃおっかぁ?」

「う、うんっ」オレは言った。

 オレとラーニャはそれぞれ選んだパンを手に取った。使い終えたトングとトレーは元あった場所に戻した。役目を終えた木製の食器たちが胸を張っているような気がした。たぶん気のせい。

 オレは手に持ったパンの香りをくんくんと嗅いだ。犬。

 とくに焼き立てなわけでもないのに、このパンからはやはり食欲をそそる香ばしい匂いがした。ほのかに香るシナモンのおかげで、バターの柔らかい匂いがいっそう引き立っていた。

「んむ、おいひい〜っ♡」

 ラーニャはオレがパンにかじりつくよりも先に食べていた。彼女が手に持っているパンには、少しだけかじり跡がついていた。この子は本当になんでも美味しそうに食べる。 

「ほぉら、ミリアもっ。ちょーおいしーから!」

「う、うん。いただきます……」オレもパンをかじった。

 パンに口をつけた瞬間、とたんにバターの香りと生地の柔らかさが押し寄せてきた。オレの口の中はもうすでに香ばしさでいっぱいだった。

「ぅわぁっ……すっごい美味しいっ」

「でっしょお〜?」ラーニャが笑った。

「この生地すごい、何層にも何層にも重なってて……」

「ね、さくさくパリパリでしょお?」

「うん、ほんとに。さっき2人が言ってたとおり……」オレは言った。「わたし、こんなに美味しいパン食べたの初めてかも。ほんとに美味しい……」

「ここのパンおいしいよねぇ。ね、こっちも食べてみて?」

 ラーニャは空いた手を受け皿代わりにして、手に持ったパンをこちらに差し出してきた。いまオレの目の前にあるパンには、やっぱり少しだけかじった跡がついていた。

「はい、あーん?」

 ラーニャがこちらに口を開けるよううながしてきた。彼女が手に持っている小麦色のパンは、オレにかじられるのを今か今かと心待ちにしていた。

「えっ、と……あ、あーん……」

 オレは少し戸惑いながらも口を開けた。ラーニャがそおっとパンをこちらに近づけると、それを合図とばかりにオレはパンに齧りついた。

 よく焼けた生地を噛むたびに、口の中にバターの香りがふわっと広がった。

 ラーニャのお気に入りらしいパンは、オレが選んだものと一緒でパリパリした食感の生地。中に入っているクリームたちは甘さたっぷりだった。カスタードの上品な甘さが今も舌の上で絶賛ダンス中。だんしんとぅないと。

「おいし?」

 正面に立つラーニャがこちらにたずねてきた。マナー上オレは口もとを右手で隠しながら、こくこくと何度もうなずいて肯定を示した。

「やば、ちょーおいしい……」オレは言った。

「でしょお〜?」

 ラーニャは自分のことのように嬉しそうだった。ひょっとしたら、彼女は自分お気に入りのパンが好評価で嬉しいのかもしれない。

「その、こっちも生地さくさくだね」オレはパンを飲み込んだ。「バターの香りもすごくって、今わたしの口のなか香ばしい匂いでいっぱい……」

「だよねだよねっ。あたしこれ大好きなの〜っ」

「うん、わかる気がする。毎日でも食べたいくらい」

「さっきもちょこっと話したけどお、うちのスタッフともこのお店たまに来るんだぁ」ラーニャが言った。「それぞれ違うもの選ぶんだけどね、みぃ〜んな口を揃えて『また来たい!』って言うの。イリスさんもここお気に入りみたいでね?」

「わかる気がする。わたし、ここのパンもう好きになっちゃったもん」

「あはは、ミリアも虜になっちゃったねぇ。また今後ここ一緒に来ようねぇ?」

「うんっ」

 ラーニャの提案に快く返事したあと、オレは自分の手元に視線を落とした。視線の先にはちょっぴりかじり跡のついたパンがあった。

「……ラーニャも食べる?」

 オレは手に持っているパンを、ラーニャの口もとに近付けた。かじりかけのパンが食べられたそうに待ち構えていた。

「食べるっ」

 彼女は嬉しそうに顔をほころばせたあと、口を開けてパンを受け入れる準備をした。

「あーん」

「あ、あーん……」

 オレは空いたほうの手を受け皿にしながら、手に持ったパンを彼女の口もとに近付けた。ラーニャはパンにかぷっと齧りつくと、味わうように口をもごもごと動かした。

 どうやら、彼女は今まさにパンを味わっている最中らしい。

「んむ、おいひい〜♡」

 ラーニャはほっぺたに手に当てて、パンのおいしさを仕草で表現した。ほころんだ表情に彼女の今の気持ちがよくあらわれていた。よろこびを表情と仕草であらわす少女の図。

 おいしそうに食べるこの子の姿を見ていると、しぜんとこちらの顔もふにゃっとほころんだ。

「ね、おいしいよね」オレは言った。

「さいっこーだよお。あたし、このパンならいっくらでもお腹に入っちゃうな〜」

「わたしも。次また来るときは別のもの食べよっかな」

「食べ比べいーねぇ。はぁ、しあわせ〜っ♡」

 どうやら、彼女はどちらの味もお気に召したらしい。オレとラーニャはパンをお互いに食べさせ合いっこしながら、香ばしい匂いがただよう店内であれこれとおしゃべりをした。

 店内の窓から夕暮れた陽が差し込む中、ふたりぶんの笑い声が茜に溶け出した。

「どうだい、お嬢さん方。うちのパンのお味は?」

 カウンターの向こうから声がした。オレの視線の先には、やはり木製のトレーを携えたフリシェさんの姿があった。トレーの上には白いティーカップが2つ載っていた。

「はい、とっても美味しいです」オレは言った。「その、今まで食べたことないくらいで……」

「はっは、そりゃあ良かった」フリシェさんはトレーを置いた。「ぜひ今後ともごひいきにしてねぇ、ミリアちゃん。ほら、お紅茶もどうぞ」

「あ、ありがとうございますっ……」オレはお礼を言った。

「ありがとお、フリシェおじさぁ〜ん」ラーニャも後に続いた。

 フリシェさんはオレたちにお紅茶を手渡してくれた。カップに入ったお紅茶からはもくもくと湯気が立っていて、まだ淹れてからそう時間が経っていないことを示していた。

 オレはラーニャと一緒にお紅茶をすすり飲んだ。口の中いっぱいに紅茶特有の上品な香りが広がった。

「わ、おいしい……」

 オレの口から正直な感想が漏れた。このお紅茶は思わず感想をこぼしてしまうほど上品な味わいだった。

「いーお紅茶だねぇ、これっ」ラーニャが言った。「ちょっとだけフルーティな感じもして、このお店のパンに合いそうじゃなあい?」

「うん、すっごく。なんか贅沢な時間過ごしてる気分……」

「ねー、ほんとお。パンもお紅茶もおいしくってさいこーだねぇ〜」

「うんっ」

 オレとラーニャは顔を見合わせてお互いに笑い合った。ふたりぶんの笑顔が夕暮れの店内に溶け出した。

 気付けばもう外は茜が強くなっていた。

 西の空に浮かぶ夕焼けが一段と赤みを増し、窓の向こうに見える小道を赤く染めている。東へと向かう影が長く長く伸びていた。

 青と茜の追いかけっこ。窓から覗く空の端っこはわずかに青みがかり、西の茜空を端へ端へと追いやろうとしている。店内に並べられたパンのジャムが夕陽に照らされていた。

 淡い宝石のようなきらめきを宿したパンたちは、ちょっと食べるのがもったいないくらいだった。


 フリシェさんからパンにまつわる小話を聞きながら、オレとラーニャは束の間のティータイムを楽しんだ。


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