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【3章】ブーランジェリーフリシェ 2

 こうして他人の話に耳を傾ける時間すらも愛おしい。

 たとえ時計がなくとも時間はやっぱり相対的なもので、こちらの世界の時間は向こうよりもゆっくりと流れた。

 生き急がなくていい時間はこんなにも愛おしい。死に急がなくていい時間はこんなにも愛おしい。ひょっとしたら、時間をゆっくり過ごすのは贅沢なのかもしれない。だからこそ愛おしく思えるのかもしれない。きっと、きっと——。

 自分なりの答えを見つけた気持ちになったオレは、ラーニャの話を聞くときも自然と笑みがこぼれた。

「——んでねんでね、この先にあるパン屋さんちょおー美味しいのっ」ラーニャが道の先を指差した。「あたしもうほんっと大っ好きでえ、たまに仕事帰りにお店に寄ってパン買って帰るんだぁ。どれもみぃ〜んな美味しんぼなんだから!」

「へぇ、どれでも……ちょっと気になるかも。わたしもパン好きだし」

「でしょでしょおー。パン嫌いな人類いないもんねー?」

「そ、そだね。だいたいみんなパン好きだよね……」

「そーゆーことっ。ねね、ついでに寄ってみよっかぁ?」

 オレは先ほどラーニャが指差した先を目でたどった。今はもう下ろした彼女の人差し指は、大通りから少し外れた小道を指し示していた。

 どうやら、この道の先にくだんのパン屋さんがあるらしい。

「そだね、行ってみよっか。せっかくだし」

「んっふふ、そー言うと思ったっ」ラーニャが言った。「んじゃあ、ラーニャちゃんオススメのパン屋さんに向けてれっつごーっ」

「お、おーっ」

 オレはラーニャの後に続いて拳を控えめに振り上げた。もう何度か経験したことだけど、オレが「おーっ」とか言って意気込むの柄じゃない気がする。まぁいいけど。

 少しばかりの恥ずかしさに後ろ髪を引かれつつ、オレはラーニャと一緒にパン屋さんに向かった。

 彼女お気に入りのパン屋さんへと向かう道すがら、頭上の空では相変わらず雲が気持ちよさそうに泳いでいた。茜を切り裂く白ひとつ、青を切り裂く白ふたつ。あの白い雲たちが2色の空をかき分けていた。

 夜の帳が下り始めた束の間のアフターグロウ。

 東の青い空がだんだんと西に追いやられている。2カラーの空を分けるちょうど中間点では、青と赤が混じって乳白色を作り出していた。

 マジックアワーはまだ遠い。魔法の代わりに顔を覗かせたのは茜だった。

 夕暮れた空が世界を赤く染める中、これからパン屋に向かうラーニャはごきげんそうだった。今日も昨日と変わらず、やっぱり彼女は感情が仕草によくあらわれるらしい。

「〜♪」

 ごきげんなハミングが辺りに響きわたった。今日は仕事終わりの充実感も手伝ってか、ラーニャの鼻歌がいつもより心地よく聞こえた。

 しばらく道なりに歩いていると、道の先にパンのマークが記された看板が見えてきた。

 どうやら、あそこがくだんのパン屋さんらしい。いつの間にか、辺りにはパンの焼けた匂いがただよっていた。この香ばしい匂いは空腹のお腹に効果てきめんだった。こうかはばつぐんだ!

「ほら、あそこだよぉ。あたしお気に入りのパン屋さんっ」

 ラーニャは道の先にあるお店を指差した。やっぱり、あのお店が彼女お気に入りのパン屋さんだったらしい。

「かわいい外装だね。その、おとぎ話にでも出てきそうな……」

「あはは、そーかもねえ。かわいい見た目でしょお?」ラーニャが笑った。「お店の見た目はコンパクトかもだけど、パンの味はほんっと一級品なんだよお。毎日でも食べたい味なの!」

「わたしもパン好きだから楽しみだな。ラーニャ、お店いろんなとこ知ってるんだね?」

「まー、ずぅっとこの村で暮らしてるからねえ。あとほら、あたし食べるの好きな人じゃあん?」

「そ、そだね。いつも幸せそうにご飯たべてるもんね……」

「えー、なにそれぇ。ひとを食いしん坊さんみたいに〜」

「や、そういう意味じゃ……」オレは言った。「ほら、きっとコックさんも作り甲斐あるだろうなぁって」

「だってだってぇ、おいしいものって自然と笑顔になっちゃうじゃあん?」

「うん、それは分かる。わたしも美味しいの食べるの好き」

「でっしょお〜?」

 歩きながらラーニャと話していると、もうパン屋さんの前にたどり着いた。先ほどから香っている香ばしい匂いは、お店の前まで来るとますます香ばしさを増した。

 しぜんと、口の中でみるみるうちに唾液が分泌された。

 どうやら、この身体は美味しいと評判(ラーニャ調べ)のパンに期待しているらしい。口内で分泌される唾液の量が期待感をあらわしていた。

「ささっ、入ろはいろ〜」

「うんっ」オレの声は弾んでいた。

 ラーニャがドアレバーに手をかけた。オレは彼女のあとに続いてお店の中に入った。室内は外とまた違って香ばしい匂いがぷんぷんしていた。

 店内のカウンターの奥には男性が1人いた。どうやら、彼は今ちょうど作業をしている途中のようだった。

「フリシェおじさぁん、こーんばーんわぁ〜」

 ラーニャはカウンターの向こうにいる男性に話しかけた。ごきげんな挨拶が店内に響きわたった。

「おぉ、ラーニャ。いま仕事終わりかい?」

「そーそー、今おうち帰る途中ぅ」ラーニャが言った。「近くまで来たから、寮に戻る前にここのパン食べてこーと思って〜」

「はっは、ありがたいねぇ。そちらのお嬢さんは?」フリシェさんはこちらに手のひらを向けた。

「み、ミリアです。先日この村に引っ越してきた……」オレは会釈をした。

「おぉ、そうかいそうかい。よろしくねぇ、ミリアちゃん」

「は、はい、こちらこそ……」

「んじゃあ、うちのパンの味を覚えてもらわんとねぇ」フリシェさんが言った。「さぁさ、お嬢さん方どれでも好きなの選びな。今日はおじさんがご馳走してあげるから」

「えっ」オレは驚いた。

「わぁい、やったぁ〜」ラーニャが言った。「フリシェおじさん太っ腹ぁ〜」

 ラーニャが喜びの声をあげたのと違い、オレの口からは驚きの声が飛び出した。それぞれ違う色を乗せた声が店内に溶け出した。

「ラーニャはいつものパンかい?」

「そーそー、おじさん分かってるぅ〜」ラーニャは両手の人差し指をピンと立てた。

「いつも同じのばっかり頼むからねぇ、ラーニャは」フリシェさんが笑った。「気に入ってもらえたみたいで、作る側としては嬉しい限りだ。作り甲斐あるねぇ」

「あたしこのパン大好きなの〜っ。ね、ミリアもこれにするぅ?」

「え、あ……うん、そだね」オレは戸惑った。「で、でも、ごちそうしてもらうなんて……」

 こちらの世界に来てからというものの、ひとからご馳走してもらうことばかり。どうやら、この心は初対面の方にごちそうしてもらうことに少なからず遠慮しているらしい。

「いいんだって、気にしないで」フリシェさんが言った。「ほら、こんな可愛いお嬢ちゃんからお金もらえないだろ?」

「とか言ってぇ、次からはちゃんとお金とるんでしょお?」ラーニャがにんまりと笑った。

「そりゃあ、うちも商売だからね。お嬢ちゃんにリピート客になってもらえたら上々さぁ」

「あはは、商売上手だねぇ〜」ラーニャが笑った。「ほぉら、ミリアっ。フリシェおじさんもこう言ってるし、ね?」

「う、うん。そだね……」オレはうなずいた。「あのっ、ありがとうございますっ。お言葉に甘えさせてもらいます……!」

 オレはフリシェさんに向かって頭を下げた。初めて会う人からごちそうしてもらうお礼として、感謝を示すことがせめてもの誠意だと思ったから。

「はっは、ずいぶん丁寧なお嬢さんだねぇ」フリシェさんが笑った。「遠慮せず好きなの選びな、ミリアちゃん。うちのパンがお嬢ちゃんの舌に合うといいけど」

「ここのパンはねぇ、冷めても美味しんぼなんだよぉ」ラーニャが言った。「前にフリシェさんから聞いたんだけど、パンの仕込みに2日もかけるくらい手間暇かかってるんだって。すごくなぁい?」

「え、2日もっ……?」

 このパン屋さんに来てからというもの、さっきからオレは驚きっぱなしだった。パンの仕込みに2日もかけるようなお店は、向こうの世界でもあまり聞いたことがない。

「おいしいパンを作ろうと思ったら、いつの間にかこうなっちゃってね」フリシェさんが言った。「時間かけてるぶん、うちは味には自信あるよ。さぁさ、どれでも好きなの選びなっ。今日はミリアちゃんの引越し祝いってことで!」

「あ、ありがとうございますっ。ごちそうになりますっ……」オレはやっぱり頭を下げた。

「フリシェおじさぁん、あたしも便乗していーい?」ラーニャが言った。

「もっちろん。祝いごとはみんなでしなきゃだろ?」

「やったぁ〜。んじゃあ、あたしこれとこれとこれとこれとぉ〜……」

 ラーニャは物欲しそうな目つきで次々とパンを指差した。彼女の人差し指が店内のあちこちを行ったり来たりし、パンが置いてあるところほとんどをコンプリートした。

「……ちょっとは遠慮してくれよ、ラーニャ?」

 フリシェおじさんが苦笑いを浮かべた。や、そりゃそうでしょって感じだけども。

「あはは、冗談だよぉ」ラーニャは笑った。「あたしはいつものパンいただきまーっす」

「えと、じゃあわたしは……」

 オレは店内に置いてあるパンをあちこち見て回った。見た目からして美味しそうなのが伝わるあたり、どのパンも手間がかかっているのが見て取れた。もう全部おいしそう。

 え、やばい。めっちゃ迷う。

 どうしよう。いざ「好きなの選んで」って言われると迷っちゃうな。だって、どれも美味しそうなんだもん(ほんとに!)。

「……あ、あの、フリシェさんオススメのパンとかあります?」

「はっは、決めきれないかぁ。種類も多いからねぇ」フリシェさんが笑った。「うちのパンはどれもオススメだけど……そうだねぇ、これなんかお客さんに特に人気だよ」

「わぁ、おいしそうっ……」

 フリシェさんが指差したパンは小麦色に焼けていた。焼き加減でもう美味しさが伝わってくる。これはきっと人間に美味しく食べられるために生まれてきたパンだね(※不穏な言い方)。


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