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【1章】ミリアの初仕事♡ 1


 オレはふと我にかえった。

 いま一瞬だけ、どこか遠い世界を旅していたような気がした。自分の意識がどこに飛んでいたのかは分からない。

 いま目の前にあるのは牧歌的な景色。オレの眼前にはのどかな田園風景が広がっていた。こちらの世界に来てからもう何度も見たのびやかな景観。どこを切り取っても絶景だった。

 異世界絶景100選に選ばれてそうな風景だね、そんなセレクションがあるか知りませんけども。や、ほんとに。

「……準備しなきゃ」

 オレは自分に言い聞かせるように呟いた。ささやくような声がひと気のない室内に溶け込んだ。まるで、無人のコンサートホールに楽器の音が溶け込むかのように。

 ほんの少しだけ名残惜しさを感じながらも、オレは窓の向こうに見える景色を手放した。

 きびすを返して窓辺から離れると、オレは途中だった準備を再開した。あらためて朝支度を進めている途中、部屋のドアをコンコンっとノックする音が。オレは「はぁーい」と短く返事をした。

「おっはよー、ミリアぁ」ラーニャの声だった。「もう出かける準備できたぁ〜?」

「うぅん、もうちょっと。いまドア開けるね?」

「はぁ〜い」

 オレは途中まで進めていた朝支度を一旦やめにして、ラーニャの声に誘われるように部屋のドアを開けた。

 ドアを開けてすぐのところにラーニャが立っていた。彼女のすぐ後ろにはキリカの姿もあった。太陽の後ろからこんにちは。や、いまは時間的に「おはようございます」か。

 いや、どっちでもいいけどもっ(注:ひとりツッコミ)。

「おはよう、ミリア。昨日はよく眠れた?」キリカがたずねてきた。

「うん、ぐっすりだったよ。えと、スィラたちは?」

「もうみんなお仕事行ったよぉ」ラーニャが言った。「ロミもスィラも『ミリアによろしく』だって〜。あとルイゼナもぉ」

「そっか……」

「ミリア、緊張してる?」キリカが再度たずねてきた。

「そう、だね。ちょっとだけ……」

「だいじょぶだよぉ、ミリアなら」ラーニャが言った。「きっと、向こうのみんなとも上手くやれるって!」

「そうかな……うん、そうだといいな」オレは返した。

 どうやら、オレは自分が思っている以上に緊張しているらしい。心なしか、自分が発する声も普段より強張っているような気がした。多分ね、たぶん。

 ラーニャの少し後ろにいたキリカが一歩だけ前に出た。太陽の後ろからこんにちは(あげいん)。

「ミリア、私からもひと言」

「う、うん。なぁに?」オレは言った。

 キリカの表情はいつも通りキリッとしていた。年ごろの少年と見紛う目つきに気圧されて、オレは思わず緊張した声を出してしまった。

「お仕事のときはスマイルだよ」キリカが言った。「笑顔でいたら全部なんとかなるから。きっとね」

「笑顔で……こ、こんな感じ?」

「……」

「なんでそっぽ向くの?」オレはたずねた。

「や、べつに?」

「声ふるえてるけど?」

「えと、気のせいじゃない?」キリカが言った。「ほら、私ってときどき声ふるえちゃうことある人でしょ?」

「や、初耳だけど……」

「と・に・か・くっ。ミリアが笑顔でいられるなら全部だいじょうぶだよ。ただのお仕事だからさ」

 キリカは半笑いのまままくし立てるように言った。心なしか、気持ちまだ彼女の声は震えているような気がした。気のせい……だと思う。多分ね、たぶん。

「ただの仕事……」

 オレは自分に言い聞かせるように、キリカが言った言葉を繰り返した。まるで脳という音楽堂に音が反響するように、彼女の言葉がオレの頭の中でリフレインした。

 ただの仕事。そうかもしれない。

 キリカの言うとおり、あんまり気負っても仕方ないのかも。笑顔でいれば案外なんとかなるのかもしれない。そう、笑顔でいればきっと——。

 オレはキリカの隣にいるラーニャのほうを見た。この太陽のような子は今日も相変わらずにこにこ笑顔だった。

 ラーニャの笑った顔は今日もオレに何か大切なことを教えてくれているような気がした。きっと、これは気のせいなんかじゃない。そうに決まってる。そうだと思いたい。

 しぜんと笑みがこぼれた。口もとが緩んでいるのが自分でもよく分かった。

「……そうだね、そのくらいのほうが気楽かも」

「そう、そーゆうこと」キリカが言った。「じゃあ、がんばってね。私もこれから仕事だから」

「うん。ありがと、キリカ」

「あたしは途中まで一緒に行くよ〜」ラーニャが言った。「うちの職場、図書館に行く途中にあるしぃ?」

「ありがとう、ラーニャ。うれしい」

 ラーニャがこちらに微笑みかけてくれた。オレと彼女のあいだで微笑みのコミュニケーションが交わされた。

「じゃ、またね」

 キリカは半身になったまま軽く手を振った。お別れを告げるときのジェスチャーだった。

「またね、キリカ」

「ばいばーい」ラーニャも別れを告げた。

 オレとラーニャはふたり揃ってキリカに手を振った。部屋を出ていく彼女の背中を見送ったあと、オレは先ほど進めていた朝支度を再開した。

 荷物はもうほとんどまとまっていたため、ラーニャを待たせる時間は最小で済んだ。

「お待たせ。行こっか?」

「ん、おっけー」ラーニャが言った。「んじゃあ、途中まで一緒にれっつごーっ!」

「お、おーっ」

 ラーニャが拳を高く上げるのにならって、オレも彼女と同じように拳を振り上げた。ごきげんな声が朝の日差しに溶け込んだ。

 オレとラーニャは一緒に部屋を出た。

 寮の廊下は想像していたよりもずっと静かで、もうほとんど人がいないことを知らせていた。

 すっかり人がまばらになった寮の廊下。ほんの少ししか人が残っているところを見るに、ここの寮生たちはどうも朝の出勤が早いらしい。オレはひと気のない廊下をきょろきょろと見回した。

「……人、もうあんまりいないね」

 オレはひとりごとのように呟いた。ひと気のない廊下に行き場をなくした呟きが溶け出した。

「んだねぇ、今朝は特にそうかも」ラーニャが言った。「ほら、うちの寮ってお食事処で働いてる子も多いじゃあん?」

「そ、そだね……」オレは適当に話を合わせた。

「仕込みの時間もあるだろーから、朝はやい子も結構おおいんだあ」

「そっか、朝の仕込み……開店前に合わせなきゃだもんね?」

「そーゆーことっ。あたしは薬草屋だから遅出でもおっけーだけどねぇ」

「そっかぁ、そだよね。仕事によって出勤時間も変わるよね……」

「じっさい、日の出と一緒に仕事に向かう子もちょくちょくいるよぉ。あ、時期によってもまた違うけどね?」

「朝はやいと大変そうだね」オレは言った。「慣れたら別になんとも思わないのかな?」

「どーだろねぇ。うちの寮でもたまに『朝起きたくなあ〜い』ってボヤいてる子いるけど〜」

「あ、ツラいのはツラいんだ……」

「あはは、まーねえ。とくに朝寒ぅ〜い日はベッドから出たくないもおん」

「ね、ほんと。わたしも寒いの苦手だからよく分かる」

「ねー、さむいのヤだよねぇ」

 オレとラーニャはおしゃべりしながら寮を出た。外はもうすっかりお日さまが顔を出していて、まだ眠たげな村を朝の日差しで照らしていた。

 この世界の朝は相変わらずキレイだった。

 まだ少しだけ眠たそうにしている草花が道ばたに生えていた。どうやら、朝起きるのがツラいのは植物も一緒らしい。

 朝焼けた空に白い雲がぽつんとひとつ。ほんの少し赤く染まった白い雲が風に吹かれ、白身魚が泳ぐようにあの青い空を泳いでいる。今朝は気持ちの良い晴れ模様だった。

「今日いい天気だね。きもちいい……」

 オレは歩きながら両手を左右に伸ばした。起き抜けでまだ少しだけ凝り固まった筋肉を、かるぅ〜くストレッチをしてほぐしてあげた。

「ねー、晴れてよかったねぇ」ラーニャが言った。「ほら、今日せっかくの初出勤日だしぃ?」

「うん、よかった。屋内だから雨でも問題なさそうだけど……その、気持ち的にどうかなって」

「だよねぇ。やっぱさあ、お仕事の日は晴れてるほうがいーもんね?」

「ね、わたしもそう思う。天気で気分も変わるもんね?」

「そおそおー。あとあとぉ、雨の日って靴も濡れちゃうじゃあん?」

「あれヤだよね。なんか足もと気持ちわるい感じするし……」

「わっかるぅ〜。あ、でもでもぉ、あたし小さい頃よく水溜り蹴飛ばして遊んでたよお」

「うん、やってそう。ちびラーニャちゃんによく似合うね」

「えー、なになにぃ。それどういう意味ぃ〜?」

「や、わるい意味じゃなくって……」オレは少し焦った。「その、無邪気な感じが似合うなって思って。ラーニャの人柄に……」

「え、ミリア今あたしのこと『無邪気で天真爛漫で可愛い♡』って言ったぁ?」

「や、そこまでは言ってないけど……」

「あはは」

 ラーニャは花が咲くようにからからと笑った。どこにも邪気を感じさせない彼女の笑顔が朝焼けた空に溶け出した。まるで、あの空まで一緒になって笑っているかのようだった。

 どうやら、今朝のラーニャも昨日と変わらずごきげんらしい。

 いまの冗談に彼女の気分がよくあらわれているような気がした。きっとラーニャもまた、この晴れわたる空に当てられたに違いない。どこまでも青い空は人を開放的な気分にしてくれるから。

 この晴れわたる青は人の心をも晴れやかにしてくれる。

 じっさいに、天気の違いによる気分の変化を調べたデータによると、基本的には誰も彼も『晴れ』の日に気分が良くなるものらしい。

 逆に、雨の日は外に出るのすらおっくう。

 これは日光量が少ないことでセロトニンの分泌量が減り、気分がふさぎがちになってしまうことが原因なのだそう。

 言ってみれば、セロトニンは天然の元気ドリンクみたいなもの。たっぷりと陽の光を浴びることで分泌されるこの体内物質は、曇りや雨の日など太陽が顔を出さない日には分泌量を減らす。結果として、晴れの日より気分が落ち込みやすくなるらしい。

 オレは頭上にある空を見上げた。視線の先では青いキャンバスに白が塗られていた。

 東の空からはもうすでに太陽が顔を出している。雲の陰からひょっこりと顔を出したお日さまは、今日も今日とて自分の仕事をまっとうしている。

「〜♪」

 オレが頭上にある青空を見上げている途中、すぐ隣からごきげんなハミングが聞こえた。

 オレは視線を上から横に移した。今朝のラーニャも昨日と変わらずごきげんそうだった。この心地良い鼻歌に彼女の今の気分がよくあらわれているように感じた。

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