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【7章】星明かりのファンファーレ 3


「ほらぁ、つやつやしてて超キレイっ」ラーニャが言った。「きっとミリアも記憶なくす前から、自分の髪うんと大切にしてきたんだねぇ」

「そう、かな……うん、そうかもね」

「きっとそうだよぉ。じゃないと、こぉんなツヤツヤした髪にならないもぉん」

 オレとラーニャはお互いの髪の毛に触れ合った。どれくらいそうしていたかは分からないけれど、やがてオレたちはどちらからともなく相手の髪を解放してあげた。

 オレはラーニャの髪を解放してあげたあと、彼女と一緒にまた遠くにある空を見上げた。

 こんなにも心が晴れている。オレの心には今とびきりの晴れ模様が広がっていた。今すなおにならないとウソだ。今すなおにならなきゃウソだよ。そんなの絶対ウソ——。

 どれくらい星を眺めていたかは分からない。時間がどうかなんてちっとも関係なかった。

 ただ1つだけ確かなのは、この時間がずっと続けばいいと思ったこと。オレは今この子と見ているこの景色がキレイで、このステキな時間がずっとずぅっと続けばいい。そう思ったことだけが確かだった。

 こんな幸せがあるなんて知らなかった。

 向こうの世界では知らなかったことばかり。こちらの世界には初めて知ることが満ちあふれていた。

 友だちと一緒に時間を忘れてワイワイおしゃべりするのも、口から火を吹くくらいの激辛野菜で舌に電気が走ったのも。今こうしてひまわりと隣り合って一緒に星空を見上げてるのも。ぜんぶ初めて。

 こんな幸せがあるなんて知らなかった。

 きっと、オレは何も知らなかったんだ。そう、こんな景色があることさえ——。

「……こんなに幸せでいいのかな」

 この小さな呟きは夜に消えた。いま自分が口にしたことを理解して、オレは慌てて口もとを手で押さえた。

 オレは反射的にラーニャのほうを見た。ちょうど彼女もこちらを見たところで、図ったかのようにばちっと目が合った。あの眼差しは少し面食らっているようにも見えた。

「や、その……ごめん、今のは忘れて——」

 オレが先ほどの言葉の続きを言うより先に、ラーニャがにっこりと微笑みながら言った。

「いーんだよぉ、きっと。幸せになっちゃいけない理由がある?」

 ラーニャの声はあの月の形よりもずっとハッキリしていた。どうにかお茶を濁そうとするオレの曖昧な言葉とは正反対だった。この子の言葉はこんなにも……こんなにも、まっすぐ相手の心に届く。

 ひっそりと闇が潜む暗がりの中、ラーニャに見つめられたオレは少したじろいだ。

「どう、かな……よく分かんないかも」

「あはは、そっかそっかぁ〜。答え見つけるのって案外むずかしーのもね?」ラーニャが言った。「ミリアが今までどんなふうに暮らしてたかは分かんないけど、あたしは今あなたが幸せに生きてるのって良いことだと思う。きっとね」

「……」

 オレはラーニャのハッキリした言葉に沈黙を返すしかできなかった。この子の声はまっすぐこちらの胸に届くのに、オレには彼女の言葉を受け止めるだけの心の器がない。

 もし、この器がもっと大きかったら。

 この心の容器がもっともっと大っきかったら、この子の言葉を素直に受け止められたのかな。答えは分からない。なにも分からない。

 しぜんと顔が下を向いた。重力に負けた目線が下を向く中、オレの手に何かあったかいものが触れた。うつむいていた顔を上げると、視線の先にはラーニャの笑った顔があった。彼女らしいいつも通りの笑顔だった。

「ね?」

 ラーニャが同意を求めるようにたずねてきた。彼女の言わんとしていることはしっかりとこちらにも伝わった。この子の笑顔は言葉よりもずっとずぅっとおしゃべりだった。

「……ありがと、ラーニャ」

「いーえー、どういたしましてっ」ラーニャの声は明るかった。

「あの、ラーニャは……」オレは言った。「——ごめん、やっぱなんでもないかも」

「えー、なになにぃ。今の絶対なんかある言い方だったじゃあん」

「や、その……」

 オレは逃げるように目をそらした。行き場を失った視線が夜の海をあちこち泳いだ。まるで、どこに向かえばいいか分からなくなった魚のように。

「わたし、ちょっと今日おかしいのかも。いまラーニャに変なこと言おうとしてる……」

「なにそれぇ、めっちゃ気になるんだけどぉ」ラーニャが言った。「ほらぁ、言え〜言え〜。はやく言わないと、あたし特製とげとげ針地獄の刑だぞぉ〜?」

「なにそれ怖い……」

「あ、ほんとにヤなら言わなくってもいーけどね?」

 オレは一瞬ためらった。この言葉を言おうかどうか一瞬だけ迷った。

 ただ、ラーニャの今の言い方はズルいと思った。そんな言い方されたら言うしかなくなる。今みたいに逃げ道を作られたら、逆に言う道しか残らなくなるじゃん。

 もし分かっててやってるんだったら有罪。ぷち懲役刑だからね、ラーニャお嬢ちゃん?

「……うぅん、だいじょぶ」オレは言った。「その、べつにヤなことじゃないから……たぶん」

「どきどき、どきどきっ」

「自分でドキドキ言ってるし……」

「なになにぃ、さっきなに言おうとしてたのぉ?」ラーニャがたずねてきた。

「え、っと……ら、ラーニャはっ……」

「うん」

 ラーニャがこちらを見つめていた。彼女の目は今なにを映しているだろう。月明かりに照らされた彼女の姿は、ちょっと出来すぎなくらいだった。

 いま言わなきゃ。きっと、これはいま言わなきゃいけない。

 あの太陽のようにまっすぐな眼差しで見つめられたオレは、逃げ出したい気持ちを抑えながら勇気を持って口を開いた。

「……ラーニャは太陽だね。みんなを明るく照らしてくれる太陽みたい」

「……」

 言葉は思ったよりもスムーズに滑り出ていった。まるで、滑り台をするりと滑っていくかのように。

 かたや、ラーニャは黙ったままだった。彼女らしくない沈黙が辺りに溶け出した。このわずかな無言の時間は、月明かりが照らす夜の闇に吸い込まれていった。

「わたし、さいしょに出会ったのがラーニャで良かった」オレは言った。「昨日あの丘で出会ったのがラーニャだったから、わたし今こうしてここにいられるんだと思うの」

 どうやら、この心は今日ずいぶんとお喋りらしい。いつもだったら口にするのを躊躇うようなクサい台詞も、どうしてか今夜だけはオレの口からするりと出ていった。なんの抵抗もなく。

 あなたはわたし(オレ)の太陽。

 今のわたしはあなたのおかげ。あなたがそばにいてくれたから、わたしは今こうしていられるの。

 あの日あの時あなたが手を差し伸べてくれたから、わたしは今こんなキレイな星空を眺めていられる。わたしが今こうしていられるのはあなたのおかげなの。ほんとうだよ、ほんとにほんと。

 ラーニャ、お日さまみたいな女の子——。

「だから……ありがとう、ラーニャ」オレは言った。「その、この気持ちちゃんと伝えられてるか分かんないけど……」

 オレの声はだんだんと尻すぼみになっていった。自分の声が小さくなるのと同時に、この心はまた臆病風に吹かれたようだった。言葉の余韻が自信のなさを物語っていた。

「伝わってるよ、ミリア。ちゃんと伝わってる」

 オレは弾かれるように彼女のほうを見た。ラーニャはやっぱり花が咲くように笑っていた。オレの好きなひまわりのような笑顔だった。

「……そっか」

 オレの呟きもやっぱり夜に溶けていった。ひとりごとにも似たこの呟きは、きっとあの星空に居場所を求めている。そんな確信めいた予感があった。

 とつぜん、ラーニャは自分の顔を手でパタパタとあおぎ始めた。まるで、自分の手をうちわ代わりにするかのような動きだった。

「あはは、なぁんか暑いねぇ」ラーニャが言った。「はー、あっつぅ。ちょっとのぼせちゃったかなぁ〜?」

「お風呂あがりだからね」

「あはっ、そうかも。ミリアは律儀な子だねぇ、わざわざお礼だなんて〜」

「ど、どうかな。え、ぁ……」

 ひと雫の涙が頬を伝った。涙が自分の頬を流れたことにオレは自分で驚いた。いつの間にか溢れ出した涙は止まるところを知らない。

 涙は音もなく流れ落ちた。ひとつ、またひとつと——。

「……ミリア?」

 大粒の涙を流している自分に気付いたとき、正面に立つラーニャがオレの名前を呼んだ。彼女の声は少しだけ戸惑いの色を含んでいるように聞こえた。

「ごっ、ごめん。なんか、急にっ……」

 ぼろぼろと流れる涙は一向に止まる気配がない。まるで、まぶたの向こうにある止水版が壊れてしまったかのよう。このダムは自分が思うよりもずっと頼りなかった。

 どうしてだろう。

 どうして涙が出るんだろう。こんなに、こんなに幸せなはずなのに。なんでこんなに涙が——。

 自分の心が今どこにあるのかが分からない。オレは自分が今どうして泣いているのかすら分からないまま、まぶたからぽたぽたと垂れる雫を両手の甲で必死にぬぐった。

「幸せ、で……嬉しく、ってぇ……」

 オレは顔をぐじゅぐじゅにしながら必死に言葉を絞り出した。いま自分の口から出ていった言葉たちは、ほんとうに自分のものかと疑うほど弱々しかった。

 ふいに、オレの身体が温もりに包まれた。

 ラーニャだった。あの太陽のような女の子がオレを抱きしめてくれた。そっと、優しく……包み込むように。

「そっかそっかぁ〜。よかったねぇ、ミリアぁ」ラーニャが言った。「きっと、今までたっくさん我慢してきたんだねぇ。溜め込んだものが今ぶわって溢れてきちゃったんだろーね?」

「うん、うんっ……」

「いっぱい幸せになっていいんだよぉ、ミリア。あなたの幸せはあなただけのものなんだから。ね?」

「あり、がとお。ありがとお、ラーニャぁ……」

 この涙がやがておさまるまで、ラーニャはオレをずっと抱きしめていてくれた。この子はやっぱり太陽みたいに温かかった。この子はやっぱり太陽だった。

 星空の下、オレたちはお互いに身を寄せ合った。

 もう寒くない。もう寒さなんてとうに忘れた。この太陽みたいな女の子が寒さを向こうにやってくれた。どこまでも、遥か遠くに——。

 どうか、どうか覚めないで。

 夢ならどうか覚めないで。この素敵な夢をまだ見させてほしい。おねがい、まだもう少しだけ。

 この温もりにまだ触れてたい。きっと、この温もりはすぐに逃げてしまうだろうから。この熱は大切にしないとすぐに逃げ出してしまうだろうから。

 オレ(わたし)はラーニャの胸に抱かれながら切に願った。


 この夢みたいな時間がずっと続けばいい……そう思った。


♦︎


——第2巻に続く

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