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【2章】あの丘の向こうへ 2


 もちろん、オレは記憶がないわけじゃない。

 ただ、この女の子のことを知らないだけ。今この鏡に映ってる女の子の名前を知らないだけなんだ。

 ただ名前を知らないだけ。ただこの子の名前を知らないだけ。この子に相応しい名前は一体なんだろう。もしオレが今この子のことを呼ぶなら……そう、たとえば——。

「……ミリア」

 オレは小さな声でつぶやいた。いつか聞いた言葉がするりと自分の口から滑り出ていった。

「ミリアって、そう呼んで」

 オレは目の前にいる女の子に自分の名前を伝えた。記憶の中にある言葉がオレの口を勝手に動かした。まるで、そうするのがごく自然なことかのように。

「おっけー、ミリアね。かわいい名前じゃあん」

「あ、ありがと……」オレは言った。

「あたしはラーニャ。あの村に住んでるの」ラーニャは丘の下を指差した。「ほら、あそこに見える村。あれがあたしたちの村——ネフィリアだよぉ」

「ネフィリア……」

 オレはラーニャの指先を目でたどった。彼女の人差し指は遠くにある人里を指差していた。

「とりあえず、もし行くとこないならあたしの寮おいでよぉ」ラーニャが言った。「うち女子寮だから、ミリアも安心して過ごせると思うから。男の人は経理のおじいちゃんしかいないし」

「う、うん。だけど、いきなり行って迷惑じゃないかな……?」

「だ・か・らぁっ。うちの村は外の人もウェルカムなの。さっき言ったでしょお?」

「そ、そっか。じゃあ、お言葉に甘えて……」

「んっふふ、すなおでよろしー。さ、行こ行こっ」

 オレはラーニャに手を引かれながら、彼女と一緒に村のほうへ歩き出した。鳥たちは相変わらず元気そうに鳴いていた。ちゅんちゅん、ちちちちっ。

 彼女の村へと向かう道すがら、オレの心は不安と困惑でいっぱいだった。

 どうしてこうなったんだろう。オレの身に一体なにが起きたんだろう。オレ、たしか塾から帰ってたところだったはずなのに——。

 いくら過去の記憶を掘り返しても、自分が今こうなっている手がかりは見つからなかった。オレの頭の中は不思議なミステリーで満ちあふれていた。オレが手を伸ばした記憶の欠片は、どれも頼りないほど不確かだった。

 先を行くラーニャはごきげんそうに鼻歌を歌っていた。

「〜♪」

 オレの知らない歌だった。聞いたことのないメロディが辺りに溶け出した。まるで、ココアパウダーがミルクに溶け出すかのように。

 こんな状況でもラーニャは楽しそうだった。

 ひょっとしたら、彼女は根っから明るい子なのかもしれない。こんな状況でも鼻歌を歌っていられるくらいには。

「あ、あのっ、ラーニャ……?」

「ん、なぁに?」

 オレの手を引くラーニャが後ろを振り返った。彼女の口角はわずかに上がっていて、口元が逆向きのアーチを描いていた。

「その、ごめんね。山菜採りのジャマしちゃって……」

「んーん、全然だよぉ。あんなとこにいる人ほっとけないでしょお?」ラーニャが言った。「あとね、あたし同年代の友だち欲しかったんだぁ。うちの寮って年上のお姉さんも多いからさー」

「そ、そうなんだ。えと、ラーニャの寮って会社の寮?」

「カイシャ?」

「あ、っと……仕事する人が暮らす寮なのかなって」

「そうそう〜。だからね、あたしより年下の子って少なくって」

「そっか……」オレは言った。

「ねねっ、あたしと友だちになってくれる?」

「う、うん。もちろん……」

「あはっ、やったぁ〜」

 ラーニャは嬉しそうに顔をほころばせた。どうやら、彼女は性格が明るいうえに面倒見もいいらしい。太陽みたいな子だった。

 どうやら、この地域では会社という概念もないらしい。

 ますます分からない。労働者用の寮があるくらいだから、みんなで集まって仕事する組織もありそうだけど——。

 ど、どうしよう。困ったな。やばいよ。ぱにっく。

 オレの常識は彼女たちに通じるのかな。今こうやって話してるぶんには問題なさそうだけど、うっかり言っちゃダメなこと口にしちゃったりとか。

 こっちの不注意で非常識なこと言っちゃったりとかしたら、オレこの子の村から追い出されちゃったりとかしないかな。もしそうなったらラーニャにも迷惑がかかるかもしれない。オレみたいな人間を村に連れてきたせいで、もしこの子の立場が危うくなったりしたら——。

 ぐぅ、ぐぅ〜っ。

 突然お腹が鳴った。どうやら、オレはお腹が空いているらしい。

 緊張感のない音が辺りに響きわたった。心なしか、木々に留まる小鳥たちも笑っているような気がした。風に吹かれる草木のざわめきが笑い声のようにも聞こえた。これは間違いなく気のせい。

「あっはは、おなか鳴っちゃったねぇ」

 ラーニャはやっぱりからからと楽しそうに笑った。ちっとも嫌味なところなんてないカラッとした笑い声だった。

「……」

 とたんにオレは恥ずかしくなって、片手でお腹を押さえながら俯いた。

 心なしか、ほっぺたも熱くなっているような気がした。多分これは気のせいじゃない。この羞恥心は確定事項。敗訴確定(?)。

「んじゃあ、まず先にご飯たべよっかぁ」ラーニャが言った。「寮に行く途中に食堂あるから、なんか食べてからにしよっか。おっけー?」

「う、うん。ありがとう……」

「じつはね、あたしも少しお腹へってたんだぁ。うちの食堂のご飯おいしいんだよー?」

「そ、そうなんだ……?」

 ひょっとしたら、これは彼女なりの気遣いなのかもしれない。ラーニャは本当はたいしてお腹なんて空いてなくて、お腹を鳴らしたオレの気持ちを察してくれたのかも。

 だとしたら、だとしたら……この子は本当に太陽みたいな子だ。

 見ず知らずのオレにこんなに優しくしてくれて、お腹ぐぅ〜の恥ずかしさをも紛らわせてくれる。からからと無邪気に笑うところなんて本当に太陽みたい。

 どうしてだろう。どうしてなんだろう。

 どうして、この子はオレにこんなに優しくしてくれるんだろう。どこの誰かも分からない身元不明の不審者なのに。牢屋がしゃんこ案件かもなのに。

 きっと、向こうの世界の人たちだったら間違いなくスルーするだろうなぁ。警察に補導されたあと根掘り葉掘り聞かれてもおかしくないシチュエーション。誰だって怪しいものには近付きたくないもんね。オレだって多分そうすると思う。

 先を歩くラーニャは相変わらずオレの手を握っていた。彼女の手のひらから陽だまりのような温もりが伝わってきた。

「あの、ラーニャ……」

「んー?」

 ラーニャはこちらを振り向かずに返事をした。

 先を行く彼女は相変わらずオレの手を引いたままだった。まるで、お母さんが子どもの手を引くかのようなシチュエーション。

「えと、ありがとう。ほんとうに……」

「えー、なにがぁ?」

「その、いろいろ助けてくれて……」オレは言った。「オ……わ、たし、こんな身元も分からない人間なのに。ラーニャ、どうしてそんなに優しいの?」

「んっふふ、そっかなぁ。もっと褒めてくれてもいーよぉ?」

 ラーニャの笑顔はやっぱりどこにも嫌味なところなんてなかった。さらに褒め言葉をうながす辺りに、彼女の個性が表れている気がした。

 ほんの一瞬だけ、この子の横顔が陰ったように見えた。

「もう亡くなっちゃったんだけどね、あたしのおばあちゃんが日頃よく言ってたの」ラーニャが言った。「『困ってる人がいたら手を差し伸べてあげなさい。あなたも今までたくさんの人に助けられてきたから』って」

「そう、なんだ……」

「だからね、あたし困ってる人は『過去の自分かもしれない』って思うようにしてるの」

「過去の自分……」オレは呟いた。

「そう、過去の自分っ。ひょっとしたら、未来のあたしの姿かもね?」

「……」

 ラーニャの声はいつもどおり明るかったけれど、彼女が話す内容は何か大切なものを含んでいた。彼女のおばあちゃんの教えが今もこうして、この子の中で生き続けているように感じた。

「だから別に特別なことじゃないんだよぉ、人助けは」ラーニャが言った。「あたしは別の自分に手を差し伸べてるだけなの。おばあちゃんならきっとそうするだろうから。ね?」

「そっか……ラーニャのおばあちゃん、とっても良い人なんだね」

「もっちろんっ。あたしのおばあちゃんだからね〜」

 ラーニャはとても誇らしそうだった。彼女の笑顔は百の言葉よりもずっと多くのものを語っていた。

 きっと、この子はおばあちゃんに愛されて育ったんだろうね。

 ラーニャがおばあちゃんを大好きなことは、彼女の邪気のない笑顔を見ればよく分かる。自分の祖母をあまり好きじゃない人は、きっとこんな風に花が咲くみたいに笑ったりしないはずだから。

 ラーニャの笑顔は彼女の口よりもずっとおしゃべりだった。

「あたしね、あの村のことだぁい好きなんだぁ」ラーニャは丘の下を見ながら言った。「生まれ故郷だから……っていうのもあるけど、村の人みぃんな優しくてあったかいの。お世話好きの人も多いしさ〜」

「その、ラーニャみたいに?」

「あはは、そうかもっ。あたしもみんなに影響されたのかなぁ〜?」

「そう……そうかもね。ラーニャの人柄もあると思うけど」オレは言った。

「えー、なになにぃ。さっきからすっごい褒めてくれるじゃあん?」

「や、たんにそう思っただけだよ。べつに他意はなくて……」

「そっかそっかぁ。ミリアは正直さんなんだねぇ?」

「ど、どうかな……」

 オレは断定を避けるような言い方をした。どうとでも受け取れる曖昧な言葉でお茶をにごすのは、衝突を避けるために養われたスキルなのかもしれない。

 たぶんオレは臆病なんだ。

 正直者なんかじゃないよ、ラーニャ。オレはただ他人とぶつかるのが怖いだけ。ただ弱いだけなんだよ。

 断定しちゃうと相手からの反感を買うかもだから、どうとでも受け取れる言葉でその場をやり過ごす。事実を確定すると反対意見を持つ人から言葉の矢が飛んでくるかもしれない。

 まるで、いろんな話をはぐらかすのが得意な政治家みたいだ。

 回りくどい言い方と抽象的なフレーズで煙に巻くのは、きっとあいまいに誤魔化したほうが衝突が少ないから。他人とぶつかるのを未然に避けられるからだ。

 オレは何かを断定できるほど自分の言葉に自信がない。数学の問題でも答えをまちがえることは多々あるし、付け焼き刃の知識に振り回されることも少なくない。部活でも自分のプレーが的確だなんて思ったことはない。そう、ただの一度も。

 オレは臆病者なんだよ、ラーニャ。

「あたしさぁ、ちょっとお節介なとこあるみたいでさ〜」ラーニャが言った。「村の小っちゃい子とも普段よく一緒に遊ぶんだよねぇ。ちょっと危なっかしい子も多くってね、なぁんかほっとけないような気がして——」

 先を行くラーニャの表情は明るい。まるで、今こうしている時間すらも楽しんでいるかのようだった。

 オレはラーニャほど前向きになれそうにない。

 特別そこまで不安を感じやすい性格ではないけど、彼女のポジティブさと比べるとかなり引けを取る。

 この太陽みたいな子は、さっき出会ってから今までずっと楽しそう。いまオレが置かれた状況なんて忘れちゃいそうなくらい、ラーニャの人柄は太陽みたいに明るいうえにポジティブ。ちょっと羨ましいくらいかも。

 きっと、こういう子が人生を楽しめるのかもしれないね。わかんないけど。

「だからね、あたしミリアとも仲良くなれたらなーって」ラーニャが言った。「うちの村のことも気に入ってもらえたら嬉しいなぁ。さっきも言ったけど、みぃんなあったかい人ばっかりだからさ〜」

「……」

「あれ、ミリア?」

「……」

「おーいっ、ミーリアー?」

「えっ」

 オレは自分の目の前でラーニャが手を振っていることに気付いた。まるで、こちらの意識がちゃんとあるかどうかを確認するような仕草だった。

 彼女の声と仕草がオレを空想の世界から現実に引き戻した。

「あ、ごっ、ごめん。その、ちょっとぼーっとしちゃって……」

「んーん、ぜんぜんだよぉ。大丈夫ぅ?」ラーニャが言った。「ちょっと疲れちゃったかなぁ。村に行く前にどっかで少しひと休みしよっか?」

「や、大丈夫。オ……わ、たし、けっこう体力あるほうだから」

「あはは、そっかそっかぁ。んじゃあ、うちの村に向かって出発しんこーう!」

「お、おーっ……」

 ラーニャは固く握った拳を空高く掲げた。まるで、気を取り直して目的地に向かうことを示すかのようなジェスチャーだった。

 この子ほんと元気だな。ちょっと眩しいくらい。

 思わずラーニャのテンションに合わせちゃったけど、オレが「おーっ」とか言うのガラじゃない気がする。

 まぁ、いっか。そもそも、この子の元々の性格とか分かんないんだし。いま自分が(なぜか)女の子になってる理由も分かんないんだし、べつに元々のオレのキャラクターに引っ張られる必要もないよね。ねっ?(圧)

「〜♪」

 ラーニャは再び鼻歌を歌い出した。彼女のキレイな歌声が小鳥たちの鳴き声と重なった。まるで、オペラ歌手が楽器の演奏にメロディを合わせるかのような光景だった。なんて平和な光景なんでしょお〜。

 この太陽みたいな子は道中もずっと楽しそうだった。ラーニャの明るさには人を元気にする魔法がかかってるのかもしれない。


 やがて彼女が住む村の入り口が見えてきたころ、オレは不安が少し和らいでいることに気付いた。


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