【7章】星明かりのファンファーレ 1
お風呂上がり。
もうすっかり窓の外は暗くなっている。
宿舎の廊下はやっぱりひと気がなく、夜の静けさが辺りに溶けきっていた。
「〜♪」
ごきげんなハミングが辺りに響きわたった。先ほどお風呂場で聞いた音色に引き続き、夜を忘れさせるような明るい歌声だった。
オレの隣には夜に咲くひまわりの姿が。
どうやら、この太陽のような女の子は夜も相変わらずごきげんらしい。オレはラーニャと一緒に寮の廊下を歩いていた。てくてく、てくてく(※オレたちの足音)。
「いいお湯だったねぇ〜」
ラーニャの髪の毛はまだしっとり濡れていた。先ほどの入浴で濡れた薄茶の髪は、まだ乾ききっていないようだった。
「きもちよかったね。少し疲れが取れた気もするし……」
「ねー、ほんとぉ。おふろ浸かると全然ちがうよねぇ」ラーニャが言った。「シャワーだけだとさぁ、ちょおっぴり物足りない気がするもぉん。なぁんか湯船ってリラックス効果ある気ぃしなあい?」
「うん、わかる。身体の疲れがお湯に溶け出してく感じするよね」
「そおそお〜、ミリアちゃん分かってるぅ」
「じっさい、湯船って血行促進にいいみたいだよ」オレは言った。「ぬるま湯が血液の流れを良くしてくれるんだって。川の流れを良くするみたいに」
「えー、そうなんだぁ。たしかに身体ぽかぽかするもんね?」
「そだね。とくに、アロマとかあると余計にそうかもね?」
「じゃあじゃあ、あのラマイラの実に感謝しなきゃあ。『リラックスタイムありがとお』って!」
「そう、だね。ふ、ふふ……」オレは笑いをこらえた。
「え、なになにぃ。なんで笑うの〜?」
「や、ごめん。ラーニャが果物にお礼いってるとこ想像しちゃって、その……ふふっ」
「もぉ〜、ことばのアヤだってばぁ。ミリア笑いすぎ〜っ!」
「ごめ、ごめんって。もう笑わないから」
「笑ってるじゃあ〜んっ」
ラーニャは空いたほうの手でオレの肩をぽかぽかと軽く叩いた。もう片方は先ほどまで着ていた服で手が塞がっているため、この度の肩ぽかぽかは左手だけでやるしかないようだった。
オレは想像するのをやめようとすればするほど、どんどん笑いが込み上げてきて止まらなかった。
あのラマイラの実たちにぺこりと頭を下げる律儀なラーニャちゃん。今この頭の中にあるコミカルな情景は、オレの口もとを緩ませるばかりだった。なぁんてメルヘンチックな光景なのでしょお〜。
オレとラーニャは戯れ合いながら部屋へと向かった。
この長い長い廊下に他の寮生の姿はなく、木造りの床がどこまでも縦に伸びているだけだった。光の石に照らされたフローリングはわずかに光沢を帯びていた。
まるで、太陽の光に照らされたメノウのよう。よく磨き上げられた瑪瑙の石に特徴的なストライプのように、オレの足元にある木目調のフローリングも曲線を描いている。木の杢目と瑪瑙の縞——この脳は層の積み重ねでできた模様に共通点を見出した。
かすかに濡れたラーニャの髪が艶めいている。
彼女が濡れた髪を外気にさらしているのとは裏腹に、オレは髪を包み込むように頭にタオルを巻いていた。
ターバンのように巻いたこの生成色の布には、今この瞬間にも毛細管現象が起きているはず。髪の毛が背中にかかるくらい長いぶん、オレの場合ラーニャの髪よりも乾くのに時間がかかる。この頭に巻いたタオルが水気を吸い取ってくれることを願った。
水分を含んでいるせいか、頭がちょっとだけ重たい。
まるで、植物の根っこが地中から水を吸い上げるかのよう。たとえ住む世界が変わっても、物理法則はなおも健在らしい。
自分の頭に巻いたターバンが水を吸い上げている……ような気がする。髪の毛の隙間を液体が伝って生地に浸透している……ような気がした。向こうの世界で得た知識は、こちらの世界でも役立った。
自室へと向かう途中、ふと良い香りがふわっと香った。この甘い香りの発信源はラーニャの髪の毛だと思われ。
「……いい匂いだね、さっきの髪油」
「でしょでしょお〜。あたしのお気に入りなんだぁ」ラーニャが言った。「前にルイゼナからもらったんだけどね、保湿効果が高いって評判の油らしーの。香りもいいでしょお?」
「うん、いい香り。髪もしっとりする気がするし」
「また今度お風呂いっしょに入るとき使ってねえ。あたしの貸したげるから〜」
「ありがと、うれしい……けど、あれ貴重なんじゃ?」オレはたずねた。
「どーだろねぇ。ルイゼナからもらったものだから、あたしも詳しいこと分かんないの。ま、いーんじゃなあい?」
「そ、そっか。今度わたしも自分の買いに行きたいな……」
「よかったら、あたし案内したげるよぉ」ラーニャが提案した。「ほら、コスメにちょお〜詳しいルイゼナと一緒にっ。ね?」
「うん、ありがとう。楽しみにしてる」
「あたしも楽しみっ。んっふふ、ショッピングってさいこーだよねぇ〜」
「わかる。なに買おうか悩んでる時間も楽しいよね?」
「ねー、ほんとぉ。あ、ルイゼナお買い物の時間ちょお〜長いから注意ねぇ?」
「え、あ、そうなんだ。うん、心の準備しとく……」
「あはは」
ラーニャは花が咲くようにからからと笑った。彼女の明るい笑い声が夜の静かな廊下に溶け込んだ。どこにも邪気を感じさせない晴れた空のような笑い声だった。
そっかぁ、ルイゼナってお買いもの長いタイプなんだね。
オレもショッピングは割と好きなほうだけど、ほかの子と比べてどうとかは分かんないなぁ。まず比較対象があんまりいないから。
あの髪油ひとつ取ってもそう。トリートメント1つ買うのにどれだけ時間をかけるものかは分からない。一般平均とオレの買いもの時間にどれだけギャップがあるかはミステリー。まったくの謎だった。これは迷宮入りの予感がするね。しません。
ただ1つだけ言えることは、ファッションは絶対に女性のほうが楽しい。
ショッピングだってそう。女性のお買い物は男性から不評みたいだけど、あれだけ色んなものがあったら時間かかるのも仕方ない気がする。
選択肢がたくさんある女性と比べると、男性のファッションは選ぶ余地がない。バレッタもカチューシャも大体みんな女性向けに作られてる。服の着こなしを仕事にするモデルさんでもないかぎり、男性でスカートとかワンピースを着てる人はほぼゼロ。女性のファッションはとにかく選択肢が多い。
オレは頭の中にある過去の記憶をたどった。
この脳の奥深くにある記憶の糸をたぐり寄せても、あまり思い出したくない苦い思い出ばかりだった。
ひょっとしたら、髪の毛を伸ばせるのは女性の特権なのかもしれない。向こうの世界でも髪の長い男性は一部いるけれど、ほとんどの人はショートカットで短くスッキリと。オレの経験上、長髪の男性はあんまり女性ウケがよくない。
オレは自分の隣を歩くラーニャのほうを見た。歩くたびに彼女の髪の毛がさらさらと揺れていた。
「……」
おもわず、オレはラーニャの横姿に目を奪われた。なにか言葉を発するでもなく、いま目の前にある光景にただ心を奪われていた。
まるで糸の宝石みたいだった。
よく手入れされているのか、この子の髪はどこまでも艶めいている。ツヤめく糸の束がキレイ。
向こうの世界では受け入れられづらかったけど、オレは昔から男らしさに少しだけ抵抗があった。どうやら、この心は男性性にあまり馴染めなかったらしい。
男社会のマッチョな考えや価値観にフィットできず、父さんと母さんからの反発を招いたこともしばしば。みんなの言う『こうあるべき』が強まるほど、オレの世界はどんどんと窮屈になっていった。もちろん、これは女性の社会にとっても同じことかもしれないけれど。
ただし、男性らしさと女性らしさ——男女それぞれの性別らしさが必ずしも良い結果を生むとは限らない。
男らしさと健康レベルとの関連を調べた研究によると、昔からある男性的な考えや価値観に囚われてしまう人ほど、精神的/身体的な不調を訴える割合がだいぶと高くなる傾向に。
恐ろしいことに、男性性への固執は寿命をちぢめる。え、どういうことっ?(怖っ)
じっさいに、男らしさにこだわる傾向が強い人ほど、そうでない男性と比べて短命になる傾向にあった。どうやら、男らしさは最大で6年ちょい寿命を縮めるらしい。やだぁ、こわぁ〜い。
戦え、勝て。逃げるな、負けるな。
たくましくあれ、男性らしくあれ。男は強くあれ、雄々しくあれ。他人に頼るんじゃない。
弱音を吐くな、男だろ。めそめそするな、男だろ。強いリーダーになれ、自立した人間になれ。成功しろ、競争しろ。男なら、男なら——。
こうした昔からの考えや価値観を引きずっている男性には、将来もしかしたら短命という魔の手が襲いかかる危険性が。じっさい、有害な男性らしさを指摘する声は科学の世界にとどまらない。一般社会でも男性らしさによる被害/弊害は報告されている。
たとえば、男性特有の攻撃性はハラスメント行為にもあらわれる。
暴力をともなうパワハラは圧倒的に男性が多く、被害者も加害者も男性になることが多いらしい。女性の場合、男性からのセクハラの被害者になる割合が高い。
男らしさってなんだろう。女らしさってなんだろう。
男だから髪の毛を伸ばしちゃいけない? 女だから控えめな性格じゃないとダメ? 男だから、女だから——。
答えは分からない。ただ1つ言えることは、性別らしさへの固執は意外とデメリットが目立つってこと。男性らしさと女性らしさどちらの場合でも、性別由来の考えにあんまり囚われすぎると有害らしい。『〇〇らしさ』へのこだわりが人の心を殺す。
オレの視線の先には、つやつやと艶めく薄茶の髪があった。
このキレイな髪も『女性らしさ』のあらわれだろうか。男性の体内にあるテストステロンが男らしさを形作るのと同じように、この子の体内にあるエストロゲンが彼女らしさのベースなんだろうか。
なにかに導かれるかのように、オレは隣を歩くラーニャの髪に手を伸ばした。この糸の束は相変わらずのツヤめきだった。
「え、なになにぃ。どしたの急に?」
ラーニャは急に髪を触られて驚いたようだった。や、そりゃそうでしょって感じですけれども。
「え、あ……ご、ごめんっ」
オレは慌てて手をパッと離した。いきなり他人の髪の毛さわっちゃいけません。有罪確定です。禁錮刑。
「や、全然いーけど。どうかしたぁ?」
ラーニャはぽかんとした顔のまま首をちょこんとかしげた。首を横に倒した拍子に、彼女の前髪がおでこをさらりとかすめた。




