【5章】楽しい時間は光のごとく 1
夕暮れどき。
村の景色はもう1日の終わりを知らせていた。
オレとラーニャは図書館を出たあと、茜に染まる大通りを隣り合って歩いていた。もう陽が暮れ始めている。
「やぁー、楽しかったねぇ」ラーニャが言った。「あたし、こんなにじっくり本読んだの久しぶりかもぉ」
「わたしも。今日はたっぷり読書できた気がする」
「次また時間あるとき一緒に行こうねぇ。あ、次回はお弁当でも持ってこっかぁ?」
「や、ピクニックじゃないんだから……」
「あはは。楽しみに行くんだからピクニックみたいなもんじゃあ〜ん」
「そう、かな……うん、そうかもね」オレは言った。
「次また向こうに行ったとき、お昼は近くの公園で一緒にランチしようねぇ。れっつ☆図書館ぴくにっく〜っ」
「図書館ピクニック……うん、楽しみ。すっごく」
「でっしょおー?」
どうやら、ラーニャは次回お弁当を持参して図書館に行くつもりらしい。次はピクニック気分で図書館へLet'sGO〜っ☆
どこまで本気かは分からないけれど、この子が次も楽しみにしてくれているならそれで良かった。ラーニャが幸せそうならオレはそれでいい。
ぜんぜん関係ないけど、なんかの映画のタイトルみたいだね。図書館ピクニック。
きっとファミリー向けの映画だろーね。心がほっこりするような展開が売りのほのぼの映画。上映直後の興行収入は映画界空前の第1位。旧態依然とした映画業界に風穴を空ける話題作は、お子さまの心をがしっと掴んだピクニック日和の——。
どうやら、この心も少なからず浮き立っているらしい。少なくとも、ありもしない映画を頭の中で想像するくらいには。
オレはすっかり赤く染まった西の空を見た。向こうの空から茜が射して、村の景色を赤く染めている。東に伸びる影はどこまでも長く、地平線の向こうまで根を張りそうな勢いだった。
こんなにも空が高く見えるのはどうしてだろう。
あんなにも夕焼けがキレイに見えるのはなんでだろう。きっと、いまのオレはその答えを知っている。
夕焼けが赤く見えるのはレイリー散乱のおかげ。光の散乱があの色を生み出す原因そのものだった。
空が青く見える理由と同じ現象があの空を赤く染めている。長い波長の赤い光が空気中を通過して、短い波長の青い光は散乱し切っていた。どうやら、夕に青はお呼びでないらしい。
あの茜は光学現象。
西の空に浮かぶ太陽の光が大気を透かし、人間の目に届くまでに頬に紅差しておめかししている。
ひょっとしたら、お化粧が好きなのは空も人間も一緒なのかもしれない。お日さまは恥ずかしそうに地平線の彼方に隠れようとしていた。
ただの自然現象なのに。ただの光学現象なのに。
あの空もしょせんは科学のモルモットに過ぎない。東からのぼった太陽が西に沈むのと同じで、あの赤染め空も光の散乱の結果に過ぎない——。
うぅん、きっとそうじゃない。
この心はそんな科学的な説明を求めてるわけじゃない。そんな無機質な答えに満足できるはずなんてない。
もっとパーソナルな気持ちがあの夕焼けを赤く見せてる。西の空があんなにもキレイに見えるのは、きっと茜がこの胸を赤く染め上げたから。そうに決まってる。
夕暮れの大通りは相変わらず、人がたくさん行き交っていた。
オレは帰り道を歩いている途中、どうしようもなく切ない気持ちになった。あの夕焼けがそうさせた。そうに決まってる。
「……夕焼け、きれいだね」
オレはひとりごとのようにポツリと呟いた。思わず口から出た言葉は、どこかポエティックな響きを含んでいた。
「ねー、ほんと。今日のお空めっちゃ赤いよね〜」ラーニャが言った。「なんかさぁ、昨日よりうんっと赤く見えるよねぇ。あれ何でだろーねぇ?」
「あれはね、レイリー散乱っていう光の散ら——」オレは途中で言葉を切った。「……きっと、お日さまもごきげんだからだと思うよ。だから赤く見えるんじゃないかな」
「あはは、そっかそっかぁ。太陽さんも今日いいことあったのかなぁ?」
「かもね。わかんないけど」
「ミリアも今日ごきげんそうだねぇ。うれしそうなお顔してる〜」
「そ、そう……?」オレは戸惑った。
「んっふふ、本いっぱい読めて楽しかったのかなぁ。あ、あとお仕事も見つかったしぃ?」
「そう、だね……うん、今日はいいこといっぱいあったかも」
「よかったねぇ〜。ミリアが嬉しそうであたしも嬉しいっ」
「わ、わたしもっ……えと、その……」
「ん〜?」
オレが逃げるように目を逸らした一方で、ラーニャがこちらの顔を覗き込んできた。斜め下からこんにちは。
「……なんでもない」
黙り込んだ直後やっと絞り出した言葉は、やっぱりいつもどおりの頼りなさだった。オレの言葉はこんなにも弱々しくて情けない。この心はいつまで経っても素直になれない。
「そっかそっかぁ、なんでもないかぁ〜」
オレの弱々しい声のトーンとは裏腹に、ラーニャの声はどこか晴れやかだった。彼女の声の調子は夕暮れた空に似つかわしくないほど明るかった。
「〜♪」
寮に向かう道すがら、ラーニャは鼻歌を歌い出した。彼女のごきげんなハミングが夕暮れの大通りに溶け出した。周りから聞こえる楽器の音も相まって、まるで即興の曲を聴いているかのよう。
ラーニャのごきげんそうな振る舞いは、まるでこちらの胸の内を見透かしているかのようだった。
「……」
ラーニャがごきげんそうに鼻歌を歌う傍ら、オレは東に伸びる自分の影を見つめていた。
こんなときでさえ素直になれない自分がイヤになる。ただ「わたしも嬉しい」って言えばいいだけなのに。ただ素直になればいいだけのはずなのに、簡単な言葉を言うのがこんなにも難しい。
眼下にある砂利道が奥へ奥へと伸びている。あまり舗装されていない手付かずの道だった。
東に伸びる影とちょうど交差する大きな道は、仕事帰りらしき人たちでかなり混雑していた。昨日のお昼にも見たのと同じく、道の端っこでは楽器を演奏している人の姿もチラホラ。
この大通りは村の雰囲気をよく表しているような気がする。
ラーニャの鼻歌と調子を合わせるように、色んな楽器の音色が辺りに響きわたった。どちらも陽気なメロディを奏でていた。
ふと、このままじゃいけないと思った。このまま天邪鬼を自分の心に居つかせちゃいけない。この素直になれない心を胸の奥に住み着かせちゃいけない……そう素直に思った。
ひょっとしたら、あの陽気なメロディに感化されたのかもしれない。
理由は何でもよかった。ただオレは「いま言わなきゃいけない」と直感した。きっと、この直感が良い結果を運んできてくれると信じて——。
「あ、あのっ」
オレは隣を歩くラーニャの手を取った。自分にしては珍しく大きな声が出たと思った。
「ん〜、どしたのぉ?」
ラーニャが足を止めてこちらを見た。オレは思いきって顔を上げて、隣にいる彼女と目を合わせた。夕焼けを背にした橙色の瞳がいっそう赤に染まっていた。
オレはふぅっとひとつ息を吐いた。うそつきな吐息が夕暮れの大通りに溶け出した。
「わ、わたしも……わたしも嬉しいっ」オレは言った。「その、ラーニャが嬉しそうにしてるとっ。わたしも嬉しい、から……」
オレは今できる精いっぱいの勇気を出して言葉を吐き出した。いまの自分に出せる精いっぱいの声が周りの喧騒に紛れていった。
「だから、その……」
オレの声はだんだんと尻すぼみになっていった。勇気が出たのは最初だけで、あとはいつも通りの頼りない声が漏れ出るだけだった。
この胸に焦りと緊張が込み上げてくるのが自分でもよく分かった。
オレの正面にいるラーニャは相変わらずこちらを見ている。あのオレンジ色の眼差しがこちらをじぃっと見つめている。なにか、なにか言わなきゃ——。
ぐぅ〜っ。
緊張の糸を断ち切ったのはオレの腹の虫だった。
オレは慌てて自分のお腹を両手で押さえた。緊張と代わりばんこで恥ずかしさが胸に込み上げてきた。
「あはは、また鳴っちゃったねぇ」
ラーニャは花が咲くようにからからと笑った。彼女の明るい笑い声はどこにも邪気を感じさせなかった。
とたんに恥ずかしくなったオレは、やっぱり逃げるように顔を背けた。視線の先には先ほどと同じく自分の影があって、まるでこちらを見て笑っているような気がした。たぶん気のせい。きっと気のせい。
「寮もどる前に、どっかでごはん食べよっかぁ。ね?」
「ん……」オレは頷いた。
「んっふふ、今日はお祝いだねぇ。ミリアの職場も決まったことだし〜」
ラーニャはオレの手を取り直してくれた。まるで、恥ずかしがる子どもの手を引くお母さんのよう。自分とそう年齢が変わらないはずの彼女が一瞬お母さんのように見えた。
こっ、こンの腹ぺこ虫めぇ〜っ。
昨日からずっと最悪のタイミングで鳴るじゃん。なんなのアナタっ、朝から晩まで1日中お腹ぺこりんなんですの〜っ?(怒)
ラーニャに手を引かれる中、オレは自分のお腹にいる腹ぺこ虫にクレームを入れた。この苦情が腹ぺこ虫の耳に届くかどうかは分からなかった。お腹の虫さんに届けぇ、オレの精いっぱいの恥ずかし文句ぅんぅ〜っ!
オレはラーニャに手を引かれる形で大通りを歩いた。お母さんに手を引かれる子どもみたいな気持ちになったのは気のせい。たぶん気のせい。きっと機能性。
ぐ、ぐぅ〜。
どこからか、また腹ぺこ虫の鳴き声が聞こえてきた。
いっ、いまのはオレじゃないからっ。この不肖わてくしめ、そう何度も何度もお腹の虫を鳴らすようなマネはしなくってよっ?(必死)
「あはは、あたしも鳴っちゃったぁ」
ラーニャは恥ずかしそうに自分のお腹を押さえた。照れ隠しのようにはにかむ彼女の姿は、ただ純粋に大変かわいらしいと思った。
「ん〜、本いっぱい読んだからお腹すいちゃったのかなぁ?」
「そ、そうかもね……」オレは言った。
「これでおあいこだねぇ。あ、なぁんか急にお腹すいてきちゃったかもぉ〜」
「わ、わたしも。今ならお腹いっぱい食べれそう……」
「ねー、ほんとぉ。空腹のスパイスが効いてきたねぇ」
どうやら、ラーニャも意外とお腹が空いているようだった。彼女の言う空腹のスパイスが晩ごはんを美味しくしてくれることを願うばかりだった。
しばらく道なりに歩いていると、だんだんと楽器の音も多様になってきた。
道の端っこでは何人もの演奏者が楽器を弾いている。あの音色にはオレの好きな弦楽器の音も混じっていて、茜差す夕暮れ時に映える心地よいメロディだと思った。
「ねぇ、ラーニャ。あの楽器は?」
オレは通りの向こうにいる演奏家を指差しながら、すぐ隣にいるラーニャの手をくいっと引っ張った。彼女はオレが指で指し示すほうに顔を向けた。
「あれはテュマリだよぉ。けっこう音色きれいでしょお?」
「うん、きれい。心地いい音色……」オレは言った。「あれもキリティパみたいに、お祭りのときとかに使われる楽器だったりとか?」
「そだよぉ。運指がそこまで難しくないからね、小っちゃい子でも弾ける楽器なの」
「たしかに、穴の数も少ないね……そのぶんアンブシュア難しかったりしない?」
「んーん、わりとシンプルだよぉ。今度あたし弾いたげよっかぁ?」
「え、ラーニャあれ弾けるの?」
「んふふ、もっちろーんっ」ラーニャは胸を張った。「ラーニャちゃん、こう見えてたまに調律のお仕事もしてるからねっ」
「わ、すごい。そうだったんだ……」
「えっへーん。もっと褒めてくれてもいーよぉ?」
「ラーニャすごい。天才調律師さん、音楽の女神さま」
「やだやだぁ、冗談だってばぁ〜」
ラーニャは照れくさそうにオレの腕を軽くぽんと叩いた。自分で言ったクセに照れちゃう女の子の図。はぁい、大変かわいらしい一面いただきましたぁ〜。
どうやら、ラーニャは調律師の仕事も掛け持ちしているらしい。新情報。初耳。
楽器の調律を仕事としてできるなら、ラーニャ耳が良かったりするのかな。この子にはこの世界の音がどう聞こえてるんだろ。わたし、気になります。
オレはあのクラリネットのような楽器の音色に耳をすませた。あのテュマリという管楽器は子どもでも吹けるらしく、たしかに今あそこで吹いている男の子もずいぶん若い。10代前半と推測。
夕暮れ時の村は昼と変わらず賑やかだった。
この村の大通りは活気があって好き。ただ道を歩いてるだけで楽しい。すっごくわくわくする。
オレは左右どちらからも聞こえる音色を耳で堪能しつつ、もうすっかりと赤に染まった大通りをあちこち見回した。この大通りの賑やかさは夜でも一緒なのかな。この先どこかで夜の顔を見れる時が来るかなぁ?
「あらあらぁ、ラーニャにミリアちゃんっ」
オレが楽器の音に耳を奪われていると、どこからかオペラ歌手のようなメゾソプラノが聞こえてきた。
ふと気が付けば、オレとラーニャは今朝も通りかかったお店の前に来ていた。お食事処のテラス席にはユノンさんがいて、ちょうどこちらに向かって手を振っているところだった。
「あ、ユノンさぁん。今お仕事中?」ラーニャがたずねた。
「そう、今さっきお店ちょうど開け直したばっかりでね」ユノンさんが言った。「今日は天気が良かったせいか、もうお酒が売れちゃって売れちゃって。みぃんな仕事の疲れを癒したいんでしょうねぇ」
「そっかそっかぁ、じゃあ今夜は忙しくなりそうだねぇ?」
「ほんとよぉ。ここで働く身としてはね、ありがたい話だけどねぇ。さっき注文もらったときなんて——」
期せずして、ラーニャとユノンさんの世間話が始まった。
ユノンさんの後ろには何人かのお客さんの姿もあって、みんな1日の終わりに食事を楽しんでいるようだった。橙色の声は夕暮れ時も忙しない。




