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【4章】ミリアにお仕事案内? 1


 図書館に来てからは時間があっという間だった。

 ここで本を読み始めてからしばらく経ったあと、オレはラーニャと一緒に近くのカフェに行った。

 先ほど図書館に来たときよりもずっと、カフェの表にあるテラス席は人の姿がまばら。飲み物を飲みながら読書する人がチラホラいるくらいだった。

 ラーニャは図書館から持ち出した本を読んでいる。

 オレのすぐ隣の席に座っている彼女は、どうやらあの小説が気に入ったらしい。「次どんなことが起きるか分かんなくってドキドキする!」とのこと。ふぅん、そうなのぉ〜?(好奇心ぐさぐさっ♡)

 ラーニャの口もとはわずかに緩んでいた。どうやら、ちょっぴり口角が上がっているのがこの子のデフォルトらしい。

 まるで、ごきげんな猫のよう。ページをめくるたびにコロコロ変わるラーニャの表情は、彼女の横顔を盗み見るオレをけっして飽きさせなかった。ひとの顔を見ていてこんなにも退屈しないのは初めてかもしれない。

 ふいにラーニャがオレのほうを見た。ひょっとしたら、こちらの視線に気付いたのかもしれない……ずいぶん長いこと彼女を見ていたせいで。

「なぁに、どうかしたぁ?」

 ラーニャの口もとは相変わらず緩んでいた。猫のような口の形が彼女のパーソナリティーを物語っているように思えた。

「……うぅん、なんでもないよ」オレは言った。

「そーお?」

 ラーニャはちょこんと首をかしげた。首を少しだけ横に傾けた拍子に、彼女の前髪がおでこをさらりと撫でた。まるで、新品の絵筆でキャンバスの表面を撫でるかのように。

「その、ラーニャってすごく楽しそうに本読むんだなって」

「あはは、そうかなぁ。はじめて言われたかも〜」ラーニャが言った。「この本が面白いからかもね、きっと。ほら、この小説どきどきワクワクする展開じゃあん?」

「そ、そだね……」

 や、知りませんけど。ほら、オレその小説まだ読んだことないじゃあん?

 オレは心の中でそっと本心を呟いた。あいかわらず、この臆病者は心の中で思ったことをなかなか実際に口にできない。おそらく、このチキンっぷりは他人との衝突を避けるためのものだと思われ。

 この胸にある言葉はそっと心の奥にしまい込む。心に浮かんだ言葉はそっと胸の奥深くにしまい込む。まるで、ひとに見られてはいけないものをクローゼットの奥にしまい込むかのように。子どもじみた羞恥心がオレの口を閉ざした。

 オレが読書が好きなのは、きっと本の世界が自由だから。

 現実世界では言えないことも、言葉の魔法をかければ言える。あの言葉のキャンバスで思うままに心を表現できる。

 むかし、とある女性作家が言ったらしい。「本は私たちを心の向こう岸に連れてってくれる。言葉は船だから」って。作家として生きる以上、彼女は今も言葉の船を編む途上にいるのかも。

 本は人々を広い海に連れてってくれる、まだ誰も見たことのない広い広い海に。だから好き。だから読む。

「あたしね、たま〜にふとしたときに本読みたくなるの」ラーニャが言った。「普段はあんまし読まないんだけどね、なぁんか定期的に読書したくなるんだよねぇ。なんでだろーね?」

「さ、さぁ……ラーニャ、じつは自分が思ってるより本が好きだったり?」

「そうなのかなぁ〜。あ、刺繍の本とかは普段からよく読むけどね?」

「さっき向こうで見た本だね」オレは言った。「その、イラスト付きで書かれててびっくりしたけど……」

「絵ぇあると分かりやすいよねぇ。字ぃだけだと『むむ〜っ?』ってなっちゃうもぉん」

「言葉だけだとね、ちょっと物足りないかも。かゆいところに手が届かないっていうか……」

「そおそお〜。イラストあるとスイスイ読めちゃうよねぇ」ラーニャが言った。

「うん、わかるよ。すごく」オレは言った。「あ、ごめん。読書の邪魔しちゃって……」

「いーえー、ぜぇんぜん。あたしもちょうど休憩しよっかなって思ってたとこだしぃ?」

「そ、そっか……あ、クッキー食べる?」

「食べるっ」

 オレはテーブルにあるお皿をラーニャのほうへ滑らせた。平べったいお皿にはいくつか茶色のクッキーが乗っていて、まるで誰かが食べてくれるのを待っているかのようだった。

「あーん」

 ラーニャはテーブルに両手を付けたまま小さく口を開けた。オレにクッキーを食べさせるよう彼女がおねだりしてきた。

 ここでもオレは自分の思ったことを言えなかった。「じ、自分で食べたら……?」という心の呟きは霧が消えるように霧散した。はたして、今の心のひとりごとは本当に自分の本心だっただろうか?

「あ、あーん……」

 オレは答えらしい答えも見つけられないまま、ラーニャにクッキーを1つ食べさせてあげた。サクサクっと小気味いい音が辺りに響きわたった。

 彼女は満足そうな顔を浮かべながら、口の中にある食べものを噛んでいた。もぐもぐ、もぐもぐ(※咀嚼音)。

「もいひぃ〜」

 どうやら、ラーニャは口の中にあるクッキーの味を堪能しているらしい。もごもごと口を動かす彼女の姿がハムスターと重なって見えた。なんでだろーね?

「そ、そう。よかった……」

「ね、ミリアもクッキー食べるぅ?」ラーニャがたずねてきた。

「や、たいじょぶかな。さっき食べたばっ——」

「はい、あーんっ」

「は、はひ……」

 どうやら、オレに選択権はないようだった。ラーニャは有無を言わさずこちらにクッキーを差し出してきた。

 ひょっとしたら、さっきのお返しなのかもしれない。この「あーん返し」ひとつ取っても、人間が進化の過程で獲得してきた普遍的な心理傾向は健在だった。返報性の法則こんにちは。

 や、だから今はまだ朝だってば——。

 ——と思ったけど、もう時間的にはお昼を過ぎた頃だった。正味、図書館に来てから2〜3時間は経っているはずだった。

 ごめんなさい、心理学者さん。もう時間的には「こんにちは」で正解でございましたわ。もうすでに「おはよう」の時間ではないようでしたの。どうかどうか、この哀れな未熟者をお許しくださいませね〜?(謝)

「あ、あーん……」

 先ほどのラーニャと同様、オレは小さく口を開けた。こちらが口を開けるやいなや、茶色い固形物はすぐに口内ブラックホールに吸い込まれた。

 オレは口の中にあるクッキーをもしゃもしゃと噛んだ。もぐもぐ、もぐもぐ(※咀嚼音)。

「おいし?」

「もいひぃ」オレは言った。

「ここのクッキーおいしーよねぇ。あたしもだぁい好きなのっ」ラーニャが言った。「この図書館きたときよく食べるんだぁ。ほら、本読んでると甘いもの欲しくなっちゃうでしょお?」

「読書って頭つかうもんね。わたしも途中で何か甘いもの食べること多いかな……」

「だよねだよねっ。あ、飲み物も飲ませたげよっかぁ、ミリアお嬢さまぁ〜?」

「だ、だいじょぶ。自分で飲めますゆえ……」

「あはは」

 ラーニャはひまわりが咲うようにからからと笑った。どうやら、いまのは冗談だったらしい。

 オレはテーブルに置かれているカップを手に取った。模様で装飾された陶器の中には薄茶の液体が入っていて、あのクッキーのせいで渇いた口の中を潤さんとしていた。

 この口の渇きは本当にクッキーのせいだろうか。それとも——。

 オレはカップに口を付けてお茶を飲んだ。くぴっとひと口ぶんお茶を飲むと、とたんに口の渇きが癒されていくような気がした。

 顔が熱い、口が渇く。たぶん更年期障害。たぶん違います。

 今日は天気がいいせいか、ほっぺたもいつもより火照っている気がした。まるで、あたたかいお風呂に入ったあとのような心地だった。

 先ほどの戯れ合いも束の間、オレとラーニャはどちらともなく再び本を読み始めた。

 カフェ近くにある木の青葉が陽の光を透かしている。木漏れ日があまり舗装されていない地表を照らし、枝葉の合間をかいくぐって小道に影を作っていた。風そよぐ葉々が笑うように揺れている。

 午後にゆっくりと読書をするには、あまりにも豊か過ぎる情景だった。

 カフェのテラス席は屋根があってちょうどいい。身体に直に太陽の光が当たることもなく、あまり暑さを感じずに読書に集中できた。頭上にある庇が本の旅を手助けしてくれている。

 先ほどまでオレと戯れていたラーニャも、もうすっかり本を読むのに集中している。

 彼女の眼差しはいつもよりずっと真剣そうだった。ひょっとしたら、今ちょうどストーリーが山場を迎えているのかもしれない。彼女にしては珍しい表情がオレの興味を引きつけた。この好奇心は自分の手元にある本よりもあの子のほうに向いていた。

 読書に熱が入ったようすのラーニャの視線は、いま彼女が手に持っている本へ注がれている。

 ラーニャ、こんな顔もするんだね。いつも太陽みたいににこにこ明るく笑うから、こんな風に真剣な顔するなんて思わなかった。まるで、授業してるときの先生みたいに真剣そうな表情を——。

 ——と思った直後、ラーニャは頭を小さく揺らしながら微笑んだ。

 ご機嫌そうに笑みをこぼすようすは、いつもどおりの彼女らしい姿だった。まるで、心待ちにしていたゲームで遊んでいるときの子どものよう。

 表情がコロコロ変わるところが何より彼女らしい。まるで、1日のうちに空模様がコロコロと変わるドイツの天気のようだった。どうやら、この子は本を読んでいるときでさえ彼女らしく振る舞うらしい。表情ゆたかなところが本当にラーニャらしかった。

 もしかしたら、この子には魔法がかかってるのかもしれない。いつどんなときでも楽しく過ごせる幸せの魔法が。

 幸福度とパーソナリティーとの関連を調べたデータによれば、陽気で元気な人ほど幸せの基本的ベースラインが高いらしい。じっさい、このタイプの人たちは普段から笑顔でいることも多い。

 たとえば、世の中には他人と関わるのが好きな人もいれば、あまり目立たないよう人のいない場所で静かに過ごしたい人もいる。

 もちろん、幸福度のベースラインが高いのは前者。アクティブでエネルギッシュな人ほど幸せを感じやすく、そうでない人は幸福度のベースラインが低い傾向にある。

 ひとことで言うと、陰気/内気な性格の人は幸せを感じにくい。

 幸せを感じるには時に自分の感情を豊かに表現したり、自分の言いたいことをハッキリ言うことも必要らしい。じっさい、自己主張の強さは幸福度の高さと比例する傾向にある。どうやら、自己表現できない苦しさは幸福度を下げてしまうらしい。

 まぁ、これはあくまで統計的な傾向ではありますけれどもね。確定的な事実とは異なりますけれどもね。いえすいえーす。

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