【3章】図書館フラッシュバック 2
オレはまるで何かに導かれるかのように、ほかのコーナーにもフラッと立ち寄った。
どの本の背表紙もオレの脳に直接その意味を伝えていた。この解読不能なはずの文字が目の前に立ち並んでいる中、オレはまた何かに導かれるように1冊の本を手に取った。
どうやら、今度の本は大人向けのようだった。表紙に可愛いイラストは一切ない。
「……心の成り立ちと記憶の干渉について」
先ほどと同じく、オレは再び本のタイトルを読み上げた。
どうやら、いま手に取った本は人間の心の仕組みについて解説した本らしい。ひょっとしたら、脳の記憶回路についても書かれているのかもしれない。
この本のタイトルはオレの好奇心を少なからず刺激した。ぐさぐさ、ぶすりっ(※好奇心が刺激される音)。
オレは本のページをめくった。小難しそうなことが書かれている厚手の本には、やっぱり心と脳について詳しく解説されていた。向こうの世界なら学術出版されていそうな内容だった。
「わ、すごぉい。ミリアこんな難しそうなの読めるのぉ?」
気付けば、オレの隣にはラーニャがいた。これまた先ほどと同じく、彼女はオレが手に持っている本を覗き込んでいた。お隣からこんにちは。
「や、読めるっていうか……な、なんでだろうね……?」
あいまいな言葉が口からこぼれるばかりだった。いま吐き出したオレの声は戸惑いに満ちていた。
自分が何故この世界の本を読めるか分からないオレは、ラーニャからの問いかけに曖昧に答えるしかできない。むしろオレのほうこそ、どうして自分が本を読めるのか教えて欲しいくらいだった。
「やっぱり、記憶がなくなる前のミリアも読書家だったのかなぁ」ラーニャがいった。「前にキリカとも本のお話してたもんね。ほら、記憶喪失でも身体は覚えてることあるらしーし?」
「あぁ、たしかに……楽器の演奏とかボールの蹴り方とかね?」
「そーそー。きっと、ミリアは前からずっと勤勉さんだったんだねぇ」
「ど、どうかな。本を読めるのは嬉しいけど……」オレは手元の本を見た。
「んっふふ、良かったねぇ〜」ラーニャが笑った。「ねねっ、これはどーお? この本にはどんなこと書かれてる?」
「んっと、これは——」
ラーニャに図書館を案内してもらうはずが、なぜかオレが彼女に読書案内をすることに。周りの迷惑にならないよう、オレたちは小さな声で本の内容を話し合った。マナー大切。ルール大事。
どうしてだろう。
どうして、オレはこの世界の本が読めるんだろう。この解読不能な文字が直感的に分かるのはどうして?
いまオレの目の前にあるのは、意味不明な字ばっかりなのに。この暗号みたいな文字はちっとも読めないのに、文章の意味だけが脳内にスッと入り込んでくる。
わけ分かんない。いま自分の目の前で起きてることが全く分からない。まるで、こっちの世界の文字を最初から知ってたみたい。なんで、どうして……この本に書かれてることが分かるのはどうしてだろう?
ラーニャはオレが話す本の内容を楽しそうに聞いてくれた。この子が興味深そうに話を聞いてくれるのが嬉しかった。
ひと通り内容を読み終えたあと、オレは本を元あった棚に戻した。目の前の本棚には相変わらず難しそうな本が並んでいて、学者さんが読んでいそうな内容のものも少なくなかった。ここにあるのは1人で来たときに読むのが良さそうだと思った。
一旦、オレたちは今いる本の森から出ることにした。活字の海に溺れる前に緊急脱出ぅ〜。
「ね、ラーニャ。2階にあるのは1階の本と違うの?」オレはたずねた。
「んっとねぇ、たしか上は歴史書とか実用書のコーナーだったと思うよぉ」ラーニャが言った。「お料理とか編み物の本とかもだしぃ、いろぉんなジャンルの歴史書とか伝記もあったんじゃないかなぁ。うろ覚えだけど〜」
「伝記に歴史書も……えと、この村で出版された本ってこと?」
「んーん、向こうの街から持ってきたものがほとんどみたい。ほら、あっちのほうってここより栄えてるでしょお?」
「そ、そっか。そうなんだね……」
や、知りませんけども。そんな「ほら、あなたもご存知のとおり」みたいな言い方されましても。ほら、わたしこっちの世界のことほとんど知らないでしょお?
オレは頭上にあるフロアーを見上げた。上の階には何人か人がいるのが見えた。
「ね、もし気になるなら行ってみよっかぁ?」
「そう、だね。うん、行ってみたいっ」オレは言った。
「おっけー。んじゃあ、2階にれっつごーだよぉ」ラーニャが言った。「あ、向こうに階段あるからねぇ。いくら本が楽しみだからって、駆け上っちゃダメだからね〜?」
「や、わかってるけど……」
「あはは」
ラーニャは花が咲くようにからからと笑った。どうやら、今のは彼女なりの冗談だったらしい。この不肖わてくしめ、もう階段を駆け上がるような年齢じゃなくってよ〜?(心外です!)
オレはラーニャと一緒にカウンター近くにある階段をのぼった。
上の階に続く階段をのぼる直前、横目に見た受付カウンターでは司書さんが忙しそうにしていた。図書館の仕事は思ったよりずっと忙しいのかもしれない。
階段は途中に踊り場があって、上り下りが少しだけ楽な構造になっていた。
踊り場って何のためにあるのかと思ってたけど、仕組み上けっこう色んな意味があるんだってね。①休憩ポイントとしてとか②転落時の安全スポットとしてとか、長ぁ〜い階段を作るときには構造的にも必要な場所なんだって。
たしかに、ずぅっと階段が続いてると途中で疲れるもんね。
もし万が一どこかで足を踏み外しちゃったときなんかも、踊り場があれば途中でストップできるようになってるし。
やぁー、ものごとってよく考えられてるんだねぇ。ごめんなさいね、建築士の方々ぁ。なぁんにも知らずに「これ何のためにあるの?」とか思っちゃって。階段の構造上あったほうがいい場所なんだね、踊り場って。無知って怖いねー?(恐っ)
オレは心の中でひとりごとを呟きながら階段をのぼった。ひとりごとに気を取られちゃって、足を踏み外さないようご注意です。
「わ、すごい眺め……」
2階に上がった直後、大変な景色がオレの目に飛び込んできた。上の階は1階から見る眺めとはまるで違っていた。
「1階とぜぇんぜん違うよねぇ。ね、見て見てっ」ラーニャが下を指差した。「ほら、あそこ。いま司書さんが本しまってるところ、さっきあたしたちがいた場所だよぉ」
「あ、ほんとだ。もうあんなに小っちゃく見える……」
「距離的にはそう離れてないのにねぇ。上から見ると別物だね?」
「ね、ほんとに。その、別の世界から見てるみたい……ちょっと大げさかもだけど」
「んーん、わかるよぉ〜。景色ぜんぜん変わっちゃうもんね?」
「うん、ぜんぜん違う……」
オレは眼下に広がる景色に目を奪われた。あの剥き出しの木の柱すらも、幻想的な風景の一部に思えた。
きっと、夜になったらもっと幻想的な眺めになるんだろう。あの天井から伸びるヒモで吊るされた光の石は、きっとイルミネーションのようになるんだろう。夜の光が待ち遠しい。
直後、違和感が時間旅行に終わりを告げた。
上からの眺めを楽しんでいる途中、オレの目に留まったのは転落防止用の柵だった。
ほんの一瞬、いつか見た景色が頭をよぎった。棒状の冷たい金属が行く手を阻み、上階に上がった利用者が下に落ちないよう設置されていた。あの死神のような金属光沢がオレの注意を引きつけた。
下階の景色に心惹かれるのとは裏腹に、オレは防護柵に近付くのをためらった。
「ほら、こっから下の受付が見えるんだよぉ。さっき司書さんがいた——」
ラーニャが柵に寄りかかった瞬間、いつか見た光景が脳裏をよぎった。あのときの、あの港に落水したときの記憶が——。
「ラーニャっ」
オレはとっさにラーニャの腕をグイッと引いた。足がもつれたせいかバランスを崩した彼女は、こちらに背中からもたれかかるような格好になった。
オレはすぐに空いたほうの手をラーニャのお腹に回した。まるで、バリケードで行く手を阻むかのように。
「え、えっ?」
どうやら、ラーニャは戸惑っているようだった。ひょっとしたら、とつぜんオレが彼女の身体を引き寄せた意味がよく理解できなかったのかもしれない。
胸の音がうるさい。ばくばくと脈打つ心臓の鼓動がやけに鮮明だった。
あの冷たい柵の下にチラッと目を向けると、眼下には先ほどと変わらず穏やかな景色が広がっていた。過去、オレが死に際に見た眺めとはまるで違う日常のいち風景だった。
「ど、どしたのぉ、ミリア?」
ラーニャはやっぱり戸惑っているようだった。ただでさえ大きい彼女の目がまんまるに見開かれていた。誰の目から見ても明らかなように、ラーニャは今びっくりしているようだった。
オレの脳内には相変わらず以前の記憶がこびりついていた。まるで、フライパンに黒いコゲがこびりつくかのように。
「……柵、危ないよ。もたれかかったら」
深く息を吐いた直後やっと絞り出した声は、自分が想像したよりもずっと弱々しかった。注意をうながすときの声とは思えないほど弱々しいトーンだった。
「あ、あぁ〜……そだねぇ、ごめんごめん。あはは」
「……」
ラーニャにしては珍しく、なにか取りつくろうかのような苦笑いだった。いつもの彼女らしくない笑顔にさせたのはオレ自身だった。
なにも話さずに無言のまま、オレは相変わらず彼女の腕を強く握っていた。
この手を離したら、この子が柵の向こうに行っちゃう気がしたから。いつか見た光景がまた、この世界でも繰り返される気がしたから——どうしてもラーニャの手を握らずにはいられなかった。
少し時間が経ってから、オレは右手で掴んでいた彼女の腕をようやく離した。
「……ごめんね、ラーニャ。腕痛かった?」オレは言った。
「んーん、全然だよぉ。ありがとーね?」
「あと、お腹もごめん……ちょっと触っちゃった」
「あはは、だいじょぶだってばぁ」ラーニャが言った。「ミリアは気遣い屋さんだねぇ。べつに謝ることないのに〜」
「そっか……うん、ごめん」
「もぉ〜、謝んなくっていいったらぁ」
ラーニャは眉尻を下げて困ったように笑った。ひょっとしたら、彼女は今オレに立て続けに謝られて困っているのかもしれない。
もし、あのとき——。
もしあのとき、あの鉄の柵に寄りかかるオレの腕を誰かが引いてたら。たぶんオレは今ここにいないのかもしれない。
きっと、こうしてラーニャの手を握ることだって——。
ラーニャと一緒に上階の書棚を巡っている途中、頭の中ではありもしない可能性が渦巻いていた。




