【2章】薬草屋さんのラーニャちゃん 3
まるで、青空のコンサートホールでオペラを歌うかのよう。
彼女の軽やかな歌声はどこまでも遠く響きわたった。初めて聞くラーニャの声は想像していたよりもずっとキレイで透き通っていた。
「はっは。今日もごきげんだねぇ、ラーニャ」露店のおじさんが話しかけてきた。
「あは。ラーニャちゃんはいつでもごきげんだよぉ、ヤカリおじさぁん?」
ラーニャは慣れたようすで言葉を返した。どうやら、いま彼女に話しかけてきたあの露店のおじさんは『ヤカリさん』と言うらしい。物腰の柔らかそうな中年男性だった。
ラーニャが露店のおじさんに手を振りかけると、向こうもまたこちらに向かって手を振ってきた。
オレは初対面の人に失礼があってはいけないと思い、向こうからも見えるよう少しおおげさに頭を下げた。ヤカリさんというおじさんは会釈の代わりに笑顔を返してくれた。
やがておじさんの姿が見えなくなったころ、代わりばんこで楽器の音色が聞こえてきた。先ほどとは少し違う軽快な音色だった。
「ラーニャ、さっきの人も知り合い?」オレはたずねた。
「そだよぉ。うちの近所に住んでるヤカリさん!」ラーニャが言った。「あのおじさんねぇ、奥さんのことだぁい好きみたい。仕事が終わったらすぅぐお家かえるんだって〜」
「へぇ、いい旦那さんだね。家族想いな人なんだ?」
「そーみたぁい。おばさんのほうは『ちょっとうっとおしい』らしいけどね〜」
「そ、そっか。おじさんの片思いなんだね……」
「あはは、そーかもぉ。おばさんも照れてるだけだと思うけどねぇ」
ラーニャは特に気にしたようすもなくからからと笑った。
オレは先ほどのおじさん夫婦のやり取りを頭の中で想像した。ヤカリおじさんからの熱烈なラブコールを、うっとおしそうにする奥さまの姿が目に浮かぶようだった。かわいそうなヤカリおじさん。
こうして大通りを歩いているだけで、新しい出会いと発見がいくつもある。
ラーニャが仲人として新しい出会いをつなげてくれる。さっきの心地よいメロディもそう、ヤカリおじさんとの出会いもそう。
ただ道を歩いていて、こんな気持ちになるのはいつ振りだろう。こんなにワクワクした気持ちになるのはいつ以来だろうか。ひょっとしたら、毎日が冒険だった子どものころ以来かもしれない。
そう、子どものとき以来の——。
……オレの、子どものとき?
どうしてだろう。
自分が子どもだったころの記憶が上手く思い出せない。どうして何も思い出せないんだろう?
まるで、脳の記憶情報にアクセス制限がかかっているかのよう。過去の記憶を心のスコップでどれだけ掘り起こそうとしても、オレの頭の中にある体験記憶には一切アクセスできなかった。
どうしてだろう。どうして小さい頃の思い出が思い出せないんだろう?
オレの頭の中は真っ白だった。中学生の頃までの記憶はすんなりと思い出せるのに、小学生以前の記憶にはアクセス制限がかかっていた。
まるで……まるで、記憶の欠片が頭から抜け落ちてしまったかのようで——。
「ミリアー、どおかしたぁー?」
ラーニャの声がオレの意識を現実に引き戻した。気付けば、彼女は足を止めてこちらの顔を覗き込んでいた。視界右下からこんにちは。
や、だから今は「おはようございます」のほうが正しい表げ——
「え、あ……ごめん、なぁに?」オレはたずねた。
「や、急に静かになったから。どうかしたのかなーって思って」
「うぅん、大丈夫だよ。その、ちょっと考えごとしてて……」
「そっかぁそっかぁ、なんにもないならおっけ〜」ラーニャが言った。「んでも、歩きながら考えごとはダメだよぉ。段差につまづいてすってんころりんかもなんだからぁ」
「あ、うん。ごめん、次から気を付ける……」
ラーニャは自分の腰に片手を当てながら、ぴんと立てた人差し指をこちらに向けた。まるで、お母さんが子どもを注意するときのような仕草だった。
「んっふふ、わかればよろし〜」ラーニャが言った。「んでね、この道まっすぐ行ったところがあたしの職場だよぉ」
ラーニャは大通りの途中で分かれた一本道を指差した。彼女の人差し指は奥へ奥へと続く小道を指し示していた。
「ラーニャの職場……」オレは呟いた。
「ほら、前に話してた薬草屋さんっ」ラーニャが言った。「あたし今日はお休みだけど、いつもはこの先にあるお店で働いてるの〜」
「や、初耳だけど……」
「ありゃ、そーだったっけぇ?」ラーニャは首をかしげた。「じゃあ、いま言ったからおっけーだね。もーまんたいもーまんたいっ」
「そ、そだね。もーまんたい……」
どうやら、ラーニャはオレに自分の仕事を紹介したつもりでいたらしい。当のオレは今はじめて知ったけれど、いま聞かされたからのーぷろぶれむ。もーまんたいもーまんたい。
まだラーニャと知り合って間もないけれど、どうやらこの子は細かいことをあまり気にしない性格らしい。
オレは細かいところまで気になる性格だから、この子のこういうところは少しだけ羨ましい。きっと、こういうタイプこそ毎日たのしく過ごせるんだろーね。わかんないけど。
「その、今日は薬草屋さんもお休みなの?」オレはたずねた。
「んーん、ふつーにやってるよぉ。あたしが休みなだけ〜」ラーニャが言った。「うちは少人数だから、お休みの日はスタッフ同士でローテーションしてるの。店長さんはいつもお店にいるけどねぇ」
「そう、なんだ……忙しいお店なの?」
「んー、日によるかなぁ。あ、よかったら少し寄ってく?」
「え、いいの?」オレは再度たずねた。
「もっちろーん。もしミリアが興味あればだけど〜」
「興味……うん、興味あるかな。ラーニャがどんなお店で働いてるのか」
「おっけー。んじゃあ、図書館の前にあたしの職場にれっつごー!」
「お、おーっ」
オレは先行するラーニャに手を引かれながら大通りを左に曲がった。メインストリートから一本わき道に逸れると、先ほどの楽器の音色はとたんに遠く聞こえた。
大通りから一本わきに逸れるだけで、先ほどまでの喧騒はウソのようになくなった。
今はもうあの祭囃子のようなメロディも遠く聞こえる。オレの耳に届くのは鳥の鳴き声ばかりで、人工的な音はあまり聞こえてこなかった。どうやら、景色が変われば音色も変わるらしい。
ラーニャと一緒にしばらく道なりに歩いていると、遠くのほうに小ぢんまりとした建物が見えてきた。
看板に草の模様が描かれているところを見るに、あれがラーニャの働いているお店かもしれない。軒先からぶら下がった看板が薬草屋さんの所在を指し示していた。
「ほら、あそこ。あの店があたしの職場だよぉ」
ラーニャは道の先にあるお店を指差した。やっぱり、あの建物が彼女の働いている薬草屋さんだったらしい。どんぴしゃり。
「あそこがラーニャの……」オレは言った。「その、ずいぶん可愛らしいお店なんだね。おとぎ話とかに出てきそう」
「そーお? ミリアのイメージとちょっと違ってた?」
「そうだね、少しだけ。もっと病院っぽいの想像してたから……」
「あぁ〜、たしかにねぇ」ラーニャが言った。「いちおう、うちもお薬とか扱ってるわけだしぃ?」
「わたし、こういう外観けっこう好きかも。わくわくするっていか……」
「あはは、そっかそっかぁ。ミリアはこういう外観が好きなんだねぇ」
「そう、だね。そうかも」
「うちってインテリアも結構こだわってるんだよぉ。店長さんの趣味みたいでね?」
「へぇ……その、店長さんは今お店のほうに?」オレはたずねた。
「そだよぉ。あ、せっかく来たし挨拶してこっかぁ?」
「そうだね、せっかくだからご挨拶を……」
「おっけー。んじゃあ、1名様ご案なぁ〜いっ」
ラーニャはいつも通り元気よく、表にした手のひらを空に掲げた。なんかレストランの受付みたいな言い方なんだけど。はぁい、1名様ご案内されまぁ〜す。
初対面の人と会うとき特有の緊張感を覚えながら、オレは少し先を歩くラーニャの後をついていった。
視線の先にある薬草屋さんは木造で、いかにも薬を扱っていそうな雰囲気があった。お店の窓から少しだけ見えるガラス瓶には、緑の葉っぱらしきものが何枚か入っていた。
ひょっとしたら、あれがこのお店で扱っている薬草なのかもしれない。ゲームの世界でしか見たことのない薬草屋さんは、オレの好奇心を掻き立てるにはじゅうぶんだった。心の隅っこから好奇心お化けさんこんにちは。
や、だから今はまだ「ぐっもーにん」の時間帯で——
「ぐっもーにーんっ、ラーニャちゃんだよぉ〜」
お店の入り口のドアを開けるやいなや、ラーニャは元気な声で朝の挨拶をした。彼女の明るい声が室内に響きわたった。
「あらぁ、ラーニャ。あなた今日は仕事お休みでしょう?」
入り口を入ってすぐのところに女性がひとり立っていた。お店の中はやっぱり、身体に良さそうな葉っぱが入ったガラス瓶であふれていた。
「あはは、お休みだけど来ちゃったぁ」ラーニャが言った。「イリスさんにもこの子のこと紹介しようと思って〜。ミリア、この人がうちの店長さんだよぉ」
オレはラーニャに紹介される形で女性店長さんと初対面した。背中まで伸ばした艶のある黒髪が特徴的な女性だった。
彼女は生成り色のロングワンピースを身にまとい、腰にはポシェット付きの皮のベルトを巻いていた。まっしろなエプロンから飛び出た袖には、この村でよく見る模様が刺繍されていた。
ひょっとしたら、あれがこの薬草屋さんでの仕事着なのかもしれない。病院服とはまた違った趣のある清潔そうな服だった。
「イリスさん、この子はミリア。昨日知り合ったあたしの友だちだよぉ」
「は、はじめまして。ミリアです……」
ラーニャは先立ってオレのことを店長さんに紹介してくれた。
あ、オレこの村に来て初めて人間として紹介された気がする。今まで「あの丘で見つけた猫ちゃん」扱いされてたから。や、たしかに野良ネコ扱いされそうな状況ではあったけども。
いやぁ、人間として扱われるのって素晴らしい。こんなオレにも人権はありまぁ〜す(?)。
「よろしくねぇ、ミリアちゃん」彼女は言った。「私はイリス、この薬草屋さんのオーナーをしてます。ラーニャはうちのスタッフね」
「こ、こちらこそよろしく……」
「あらぁ……ねぇ、あなた緊張してる?」
「え、あ……そう、ですね。ちょっとだけ……」
「いいのよぉ、そう固くならなくっても」イリスさんが言った。「あなた見たところ、ひとに気をつかうところがありそうね。違う?」
「そ、そうですね。少し気をつかい過ぎちゃうところが……ごにょごにょ」
「だと思った。あなたみたいな人のために、こういう薬草があってねぇ……」
イリスさんは近くにあった箱から袋を1つ取り出した。どうやら、あのベージュ色の袋の中には薬草が入っているらしい。
「さ、飲んでごらんなさい。ちょっとでいいから」
「え、あ……でも、これお店の商品なんじゃ……」
「いいのよお、気にしないで。たいした量じゃないから」イリスさんは薬草を飲むよう再度うながした。「この薬草はね、心をリラックスさせる効果があるの。ね、今のあなたにぴったりだと思わなぁい?」
「そう、ですね……じゃあ、お言葉に甘えて」
オレはイリスさんから差し出された薬草を手に取った。彼女から手渡された薬草は身体に良さそうな色をしていた。目に痛いほどの鮮やかな緑色。
今もらった薬草を口のなかに入れると、オレの舌は独特の苦味成分を検知した。ぴこぴこぴこーんっ♪(※苦味を検知した音)。




