【7章】神さまからの贈り物 4
背中があったかい。
この温かさはシャワーの水の温度だろうか。この背中に伝わる水温が温かいせいだろうか。それとも——。
オレは背中に優しい温もりを感じた。若干ぬるいくらいのシャワーの水は、背中を伝ってタイルの上にぴちゃぴちゃと流れ落ちていった。まるで、小さな滝から水が流れ落ちるかのように。
「はい、おっけー。もういーよぉ」
どうやら、ラーニャは背中を流し終えたらしい。彼女の声をキッカケに、オレはピンと伸ばしていた背筋を少し弛緩させた。りらっくす。
心なしか、自分の背中が清潔になったような気がした。
「ありがと、ラーニャ。あの、わたしもお返しに……」
「んーん、だいじょぶだよぉ。あたし身体さっき洗ったばっかだから」
「そ、そっか。じゃあ、また次の機会にでも……」オレは言った。
「あはは。そのときはお願いしよっかなぁ、お言葉に甘えてっ」ラーニャが言った。「丘で出会ったときから思ってたけど、ミリアは気づかい屋さんなんだねぇ。他人にやってもらうばっかりじゃ居心地わるくなるタイプぅ?」
「や、そんなことは……」オレは言った。「うぅん、そうなのかも。なんか申し訳ない気がして……」
「んっふふ。気遣い屋さんだねぇ、ミリアは〜」
「……」
オレは自分の隣にいるラーニャから、正面にある鏡のほうに視線を移した。鏡は湯気のせいで少し曇っていた。
いま自分の目の前にある鏡には、どこかスッキリした顔を浮かべる女の子が映っていた。ひょっとしたら、先ほどの涙が憂いを洗い流してくれたのかもしれない。
気遣い屋さん。
ラーニャがそう言ってくれるならそうなのかもしれない。この子の気持ちを受け止めたい、この子の言葉を素直に信じたい。
オレ自身は特段そうは思わないけど、彼女がかけてくれた言葉を否定するのは気が引ける。この太陽みたいな子の言葉には、ひとを元気にする明るさがあると思うから。夜を照らす明るさがあるような気がするから。
ラーニャは太陽だ。太陽「みたい」じゃなくて……きっと、この子は世界を照らす太陽なんだと思う。きっとそう。
「ね、ミリアってお風呂に浸かるの好きぃ?」
ラーニャの言葉はオレをポエムの世界(笑)から現実に引き戻した。だから勝手にオレの心に入り込んで(笑)を付けるなとあれほど言っ——。
「う、うん。わりと好き、かな……」オレは言った。「寒いときはよく浴槽に浸かるよ、冬の時期とか」
「えー、そうなんだぁ。じゃあさじゃあさ、向こうのお風呂はいりに行かなぁい?」ラーニャは浴室の向こうを指差した。「あのお風呂ねぇ、水面にラマイラの実を浮かべてるんだよぉ。ほら、さっきからちょっとだけ爽やかな匂いするでしょお?」
「ラマイラの実……うん、たしかに」
オレはお風呂場に入ったときに嗅いだ香りの正体を知った。ラーニャいわく、どうやらこの香りは果実の香りだったらしい。どうりで石けんっぽくない匂いだと思った。
すでにオレは向こうにある浴槽に興味しんしんだった。
「せっかくだし、お風呂に浸かろっか。髪の毛あらってから」
「おっけー、おっけー」ラーニャが言った。「じゃあ、あたし手伝ってあげるねぇ?」
「え、なにを……」
ラーニャは再びオレの背後に回った。いつの間にか、彼女の手には小さな固形の石けんが握られていた。
「この石けんねぇ、よく泡立つんだよぉ」ラーニャが言った。「ちょっとコツがあるから、よぉく見ててねぇ。まず手のひらで石けんをごしゃごしゃしまぁーす」
「は、はい……」オレは言った。
「次にね、塗りたくるみたいに髪の毛に石けんを付けるの。ここがポイントっ」
ラーニャは慣れた手つきでオレの髪の毛に泡立てた石けんを塗りたくった。しっとりした泡の感触はお高いミルクのようだった。
「あ、気持ちいい……いい感触だね」
「でっしょおー?」ラーニャの声は明るかった。
「なんか、まろやかなミルクに包まれてるみたい……」オレは言った。「その、髪がしっとりしそうな気がする。けっこう香りもあるみたいだけど、これって高い石けんだったりとか?」
「んーん、ふつうにお店で売ってるよぉ。値段もお手頃だし」
「そ、そうなんだ。高級な石けんみたいな感じだけど……」
「ぜーんぜん。この村でよく使われてる石けんだよぉ」
「そっか……いいもの使ってるね、みんな」
「あはっ、そーかもぉ」ラーニャが言った。「ねねっ、今度いっしょにコスメのお店とか行ってみる?」
「え、コスメ?」
「そーそー、きっと楽しいと思うなぁ〜」
「こすめ……うん、行ってみたい、かも……」オレは言った。
「けってーいっ。どんどん行きたいとこが増えてくね、あたしたち!」
「そ、そだね。ちょっと楽しみかも……や、すごく楽しみっ」
「んっふふ、あたしもっ。いろんなとこ一緒に行こうねぇ」
「うんっ」
オレはラーニャに髪の毛を洗ってもらいながら、彼女と色んなところに出かける約束を交わした。約束のぶんだけ楽しみが増えていく。まるで、幸せなアメーバが次々と増殖するみたいに。
しばらくして髪を洗い終えたラーニャは、石けんが残らないようしっかりとシャワーの水でオレの頭を流してくれた。
「ミリア、ちゃあんと目ぇつむっててねぇ」ラーニャが言った。「石けんが目に入ったら痛いいたぁいだからね〜」
「う、うん……」オレは戸惑った。
なんか、ちっちゃい子に注意するみたいな言い方なんだけど。ひょっとして、オレ今この子に子ども扱いされてたり?(謎)
ま、いっか。どっちでもいいや。
ラーニャが楽しそうならどっちでもいい。きっとこれは些細なことなんだ。きっと、きっと——。
オレは(珍しく)こまかいことを気にするのをやめて、彼女にされるがままに髪の毛を水でゆすいでもらった。髪を洗い終えたあとは気持ちもサッパリしていた。ふぅ、すっきりっ。
「んじゃあ、向こうでお風呂つかろっかぁ」
「うん、行こっ」オレは言った。
「……ミリア、ちょっと元気になったねぇ?」ラーニャが言った。「お風呂はいってスッキリしたからかなぁ。お顔も柔らかくなってる気がする〜」
「そ、そうかな……?」
「だと思うなぁ。んっふふ、ミリアもそんな顔するんだねぇ」
「え、どんな顔……?」
「あは。どんな顔だろうねぇ〜」
ラーニャはにまにまと含みのある笑顔を浮かべていた。なんだか居た堪れない気持ちになったオレは、彼女の顔を正面から見ることができずにいた。
やっば。
たしかに、オレ今ちょっと声が弾んじゃってたかも。
や、べつに悪いことじゃないんだけども。けっして悪いことじゃないんだけど……なんかこう、ちょっと小恥ずかしい気がする。
きっと、これもただの気のせいだ。こうして恥ずかしい気持ちになるのは気のせいだ。お風呂に入って開放的な気分になってるから、さっきみたいについつい声が弾んじゃうんだ。
そうに決まってる。うん、そういうことにしとこーっと(投げやり)。
「ここ滑りやすいから気を付けてねぇ。はい、手〜」
「えっ」オレは驚いた。
少し先を行くラーニャがこちらに手を差し出してくれた。とたんにオレは眩ゆい光に手を伸ばすような気持ちになった。
「ほら、転んだら大変だから。手ぇちゃんと握っててね?」
「う、うん。ありがと……」オレは彼女の手を取った。
オレはラーニャの手に掴まりながら浴槽に入った。足先からだんだんとお湯の温もりが伝わってきた。ちゃぽん。
ラーニャもオレの後すぐに湯船に浸かった。浴槽に入ったあともまだ、彼女とオレはお互いに手をつないだままだった。この手を離すのが少し惜しいのは……きっと、お互いさまだったのかもしれない。
「はぁ〜、あったかいねぇ……」
ラーニャが気持ちよさそうな声を出した。オレも彼女に釣られるようにほうっと息を吐いた。ふたりぶんの吐息がひと気のないバスルームに溶け出した。
ひょっとしたら、お風呂の時間が好きなのは彼女も一緒なのかもしれない。さっき、ちょうどそれっぽいこと言ってたし。
「気持ちいいね。水温もちょうど良くて……」
「でっしょおー。あたし、この寮のお風呂けっこう好きなの」ラーニャが言った。「お湯も長湯できるくらいのちょうどいい温度だしさ、ここから外の景色ぼーっと眺めるのが好きなんだぁ。ほら、夜空キレイでしょお?」
ラーニャが窓の向こうに見える夜空を指差した。彼女の指先は遠くの空を指し示していて、オレは星の瞬きに誘われるように夜空を見上げた。
心なしか、月にかかる雲すらも美しく思えた。
「うん、きれい。すっごく……」
オレの口から素直な感想がこぼれた。はるか遠くにある夜空は星の水をこぼしたみたいに輝いてた。なんてキレイな眺め。なんてキレイな夜空。
ただ、ラーニャにこういう趣味があるのが少し意外だった。
「その、ちょっと失礼かもだけど……」オレは言った。「ラーニャもこういう楽しみ方するんだね。ちょっとギャップあるっていうか……」
「えー、あたしには似合わないってぇ?」ラーニャが言った。
「や、ちがっ、そうじゃなくて……!」
オレは慌てて胸の前で両手を振って否定を示した。当のラーニャはイジワルそうな表情を浮かべていた。まるで、いたずらを仕掛ける子どものような顔だった。
「あはは、冗談だよぉ。ミリアは素直さんだねぇ〜」
「むー……」
オレは彼女からからかわれたことを知って少しムッとした。ラーニャのほうは特に気にしたようすもなく楽しそうに笑っていた。もう何度も見た太陽のように明るい笑顔だった。
「あたし好きだよ、こういうのもぉ」ラーニャが言った。「いつもこうするわけじゃないけど、たまにゆっくりお風呂に浸かるの。お仕事から帰ってリラックスしたいときなんかに、ね?」
「そう、だね……その気持ちは少し分かる気がする」オレは言った。
「ミリア、さっき『お風呂はいるの割と好き』って言ってたもんね?」
「そうだね。こんなキレイな景色みながら入ったことはないけど……」
「んふふ、そっかそっかぁ〜」ラーニャが言った。「今日からウチに住むんだし、これからは毎日でも見れちゃうね?」
「うん、そだね。夢みたい……」
「あはは、大げさ〜」
「ほんとだよ。ほんとに夢みたいで……」
オレは夜空を見上げながら、自分に言い聞かせるように呟いた。この言葉がラーニャに向けたものだったのか、自分自身に向けたものだったかは分からない。
ただ、この空に浮かぶ瞬きがオレにそうさせた。
まるで、夢の続きを見ているかのような気持ちだった。今まさに新しい夢の続きを見ているかのように新鮮な気持ちだった。
オレの隣にいるラーニャがどんな顔をしてたかは分からない。ただ、この子も自分と同じ気持ちだったらいいなと思った。自分と同じように星の瞬きに目を奪われてたらいいなと思った。オレは夜空の星にこの夢が覚めてしまわないことを願った。
そうだ、この魔法がいつ解けるかなんて分からない。そんなことオレにだって分からない。
だったら楽しもう。いつ覚めるか分からない夢にビクビクするより、ずぅっと夢だったこの命を精いっぱい楽しもう。この時間がいつ終わるかなんて誰にも分からないんだから。
この宝石みたいな時間を、精いっぱい楽しみ切ろう。
きっと、きっと——この性命は神さまがくれた贈り物だから。
オレ、は……わたしは、頭上にある夜空を見上げた。
あんなに低く感じた空が今はこんなにも高い。どれだけ手を伸ばしても届きそうにないくらい空が高い。
空ってこんなに高かったんだ。こんな遠くに見えるほど彼方にあったんだね。とうに見慣れたはずの夜空がこんなにも新しく見える。まるで、生まれて初めて宝石を見たみたいな気分。とっても不思議な気持ちだった。
そう、きっとわたしは生まれ変わったんだ。
新しく生まれ変わるチャンスを、神さまから与えてもらったんだ。そうじゃなかったら、こんなに世界が広く感じるはずがない。こんなにも夜空が輝いて見えるはずがない。
きっとそうなんだ、そうに決まってる。
満点の星空に浮かぶ月がこちらに微笑みかけているように見えた。




