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【7章】神さまからの贈り物 3


 オレは……たぶん、こんな風には話せないな。

 きっとオレはラーニャみたいには話せない。こんな風に家族のことを明るく楽しく話すなんてできなさそう。

 オレはラーニャの話を聞きながら過去を思い返した。オレの記憶の中にいる家族はうんざりしたような顔を浮かべていた。母さんのすぐ隣にいる父さんは、こちらの顔をあまり見てくれてすらいなかった。

 いいんだ、オレが悪いんだから。

 出来のいい息子になれなかったオレが悪い。べつに父さんと母さんに非があるわけじゃない。

 オレのせいなんだ。中学で周りからいじめられたのも、高校で特待生になれなかったのも。父さんの後を追って進学校に入れなかったのも……そう、ぜんぶオレがダメダメだったからだ。

 ラーニャはいいな。ちょっと眩しいくらいかも。

 こんな風に家族のことを話せる彼女が少し羨ましい。きっと、ご両親から愛されて育ったんだろうな。実際ところは分かんないけど。

 オレも……オレだって、父さんと母さんから大切にされたかった。こうして今ここにいることを家族に心配してもらいたかった。記憶の中にいる父さんと母さんは清々した顔を浮かべていた。まるで、厄介者がいなくなって胸を撫で下ろすかのような表情だった。これは妄想と現実どちらだろう?

 オレの心の中の暗いひとりごととは対照的に、こちらの背中を洗ってくれているラーニャの声は明るかった。

「——んでね、そのときウチのママ『きゃあーっ!』って叫んじゃってぇ」ラーニャが言った。「あたしまでホントもうびっくりしちゃったんだけど、どうしたのって聞いたら『ハエが入ってきたぁ!』とか言ってぇ」

「うん……」

「や、ママが虫ぎらいなのは分かるけどさぁ。ふつーハエくらいで叫ぶほどびっくりしなくなぁい?」

「……」

 オレはいよいよ返事をすることさえできなくなった。ラーニャの楽しそうな笑い声は今のオレの気分とは正反対だった。

 きっと、これもオレのせいだ。そうに違いない。

 こんな気持ちになるのもオレのせいなんだ。ラーニャは何も悪くない。この子は自分のご家族のことを話してるだけなんだから。

 父さんと母さん、オレのこと心配してくれてるのかな。きっと、ラーニャのご家族なら間違いなく心配するんだろうな。とつぜん娘が行方不明になったら心配するのが普通だもんね。こういうのを親心って言うのかなぁ?

「……」

 いつの間にかオレは俯いていた。目の前にはきちっと並べられたタイルがあった。タイルの上にはいくつもの水たまりができていた。

 記憶の中にいる家族の姿がオレの顔を俯かせた。

 人間、落ち込むとしぜんと顔が下を向くらしい。髪の毛を伝う雫がタイルに落ちてぴちょんと跳ねた。

 オレの頭の中は向こうの世界のことでいっぱいだった。いま自分がどこにいるのかも忘れて、オレは自分の脳が指し示すままに過去の記憶をたどった。記憶のアルバムに差し込まれた写真たちは、どれも苦い苦い思い出ばかりを伝えていた。

 そうだ、きっとそうだ——。

 やっと見つけた答えはシンプルだった。この答えは大切な何かを指し示していた。

 夜おそくまで勉強がんばってたのもそう、部活でAチームに入ろうとしたのもそう。高校の生徒会で無理して副会長になったのもそうじゃんか。

 父さんが言うとおりに医学部に入ろうとしたのだってそう。母さんが言うみたいに男の子っぽく振る舞おうとしたのもそう。オレはただ父さんと母さんに振り向いてもらいたかっただけ。ただそれだけだった。

 たぶん、オレは誰かに愛されたかったんだ。

「え、ちょっ。どうしたの、ミリアっ?」

 とつぜん、ラーニャがびっくりしたような声を出した。彼女の驚いたような声がオレを空想から現実へと引き戻した。

「え……」

 オレは俯きがちだった顔をパッと上げた。視界に入り込んできた丸鏡には、涙を流す自分の姿が映っていた。ひと雫の涙が今ちょうど頬を伝っているところだった。

 エーテルの光が頬を伝う涙を照らしていた。

「ぇ、あ……」

 オレは自分が泣いていることにようやく気付いた。いま自分の目の前にいる少女は、なんの音もなく涙を流していた。

 自分の流している雫にまるで現実感がなかった。どうして自分が今こんなにもボロボロ泣いているのかが分からない。どうして今こんなにも涙があふれて止まらないのか全く分からなかった。

 まるで、ダムいっぱいに溜まった雨水が突然あふれ出てしまったかのよう。ほっぺたを伝う雫の感触がやけにリアルだった。

「ごめんね、背中いたかったっ?」

 どうやら、ラーニャは背中ごしごしが強すぎたのかと勘違いしたらしい。

 彼女の心配そうな声がひと気のないお風呂場に響きわたった。まるで、無人のコンサートホールにオペラ歌手の歌声が響きわたるかのように。

「や、ちがっ……ちがく、て……」

 オレの声はあまりにも弱々しかった。シャワーの音でかき消されそうなほどに弱々しい声は、ほんとうに自分のものかと疑ってしまうくらいだった。

 涙が止まらない。どうしても止まってくれない。

 心配するラーニャを安心させてあげなきゃいけない。この子の誤解を解いて安心させてあげなきゃいけない。

 そんなことは分かりきってるのに、どうしても涙が止まってくれない。いちど溢れ出した感情の水飛沫は、ちっとも止まってくれそうにない。いつか止まる予感すら少しも感じさせてくれなかった。

「ミリア……?」

 オレの背中にかかるラーニャの心配そうな声は相変わらずだった。むしろ、先ほどよりずっと深みを増しているようにも思えた。

「ラーニャの、ラーニャのせいじゃない。そうじゃ、なくて……」

 やっと絞り出したオレの声は震えていた。情けないくらいに震えた声がお風呂場に反響した。まるで、ソリストの演奏がコンサートホールに反響するかのように。

「ごめ、ごめんね。ごめんなさい……」

 自分の口から謝罪の言葉がするりと滑り出て行った。まるで、なだらかな滑り台をするりと滑り降りるかのように。

 オレは今だれに謝ってるんだろう。

 オレが謝っているのはラーニャに対してだろうか。この謝罪の言葉は本当に彼女に向けられたものだろうか。それとも——。

 自分の顔をおおった両手の隙間から、鏡の中にいるラーニャがオロオロしているのがチラッと見えた。彼女は眉尻を下げて困ったような表情を浮かべていた。この子の心配そうな顔だけが鏡越しにやけに鮮明に映って見えた。

 はやく彼女を安心させなきゃいけないのに、オレはいつまでも泣いているばかりだった。

 ちっとも涙が止まってくれない。どうしても涙が止まってくれない。頬を伝う雫はざぁざぁと降りしきる雨のようで、オレの意思とは裏腹にいつまでもこぼれ出した。

 どうして、どうして止まってくれないの——。

「んん〜、緊張の糸が切れちゃったのかなぁ」ラーニャが言った。「おー、よしよし。ひとりぼっちで不安だったよね。もう大丈夫だからねぇ」

 ラーニャはオレを自分の胸に抱き寄せたあと、まるで猫を可愛がるように頭を撫でてくれた。ペットの頭を撫でるかのような彼女の手つきが優しい。

 どうしてだろう。

 どうして、こんなにも安心するんだろう。まるで、お母さんの腕の中におさまるかのような気持ちだった。

「ぅ、うぇ……」

 声にならない音がオレの口からもれた。まるで、お母さんの胸に抱かれながら泣きじゃくる子どもの嗚咽みたいだった。

 いつぶりだろう、こんな気持ちになるのは。

 この世界にはオレの家族はいないのに。家族はおろか親戚の1人すらいないのに、なんでこんな気持ちになっちゃうんだろ。

「きっと、前のミリアの記憶もすぐ戻るよー」ラーニャが言った。「今はまだ不安でいっぱいかもだけど、あたしも記憶が戻るよう手伝うから。きっと大丈夫だよぉ。ね?」

「……」

 オレは言葉で伝える代わりに何度も頷いた。この震えた声じゃ自分の伝えたいことを伝えられなさそうだったから。

 ラーニャは優しい。ほんとうに。

 こんな素性の知れないオレにも優しくしてくれる。こんな子どもみたいに泣きじゃくるオレを優しく抱きしめてくれる。

 どうしてこの子はこんなにもオレに優しくしてくれるんだろう。数学の問題は頑張って勉強すれば分かるのに、いま目の前にいるこの子のことが分からない。どうしてラーニャはこんなにも他人に優しくできるんだろう?

 堰き止めていたダムの水は一気にあふれ出した。

 どうやら、ラーニャはオレが不安と緊張のせいで泣いたと勘違いしたらしい。彼女はオレの記憶がまだ戻っていないせいで、今こうして泣いているのだと誤解したらしい。

 違うよ。そうじゃないよ、ラーニャ。

 この涙の理由はオレにも分からない。どうして涙が止まないのかはオレにも分からない。

 どうして、こんなにも涙が出てしまうんだろう。どうしてこんなにも彼女の腕が温かいんだろう。この子にオレはまだ何にも返せてないのに。お礼らしいことを何ひとつできてないのに。どうして、どうして——。

 どうして、こんな気持ちになるんだろう。

 オレはじゅびっと鼻水をすすった。頬を伝う涙がようやく収まりかけてきた頃、オレの脳みそが急速に冷静さを取り戻した。

 オレのほっぺたには柔らかいものが触れていた。ひと肌の体温が自分の頬に触れていて、この柔らかいものの正体が何なのかは明らかだった。オレは羞恥心と罪悪感が同時に込み上げてくるのを感じた。

 丸みを帯びた2つの柔らかいボールの感触は、オレの意識を現実に引き戻すには充分だった。

「……!」

 オレは勢いよくラーニャの胸元から離れた。がばっと。

「わ、びっくりしたぁ」

 ラーニャは自分の言葉どおり、びっくりしたような顔を浮かべていた。彼女のまんまるな瞳が驚きでさらにまあるくなっていた。

「ご、ごめっ……その、わたし……」

 オレは慌てて言い訳を口にしようとした。いまのは不可抗力だってことを説明できなきゃ手錠がちゃんこ。あと牢屋にもがしゃんこ。訴訟。告訴。

 オレは上手く働かない頭で必死に言い訳の言葉を探した。

 あぁ、なんてことでしょう。この頼りない脳がちっとも言葉という花束を見繕ってくれませんわ。いますぐ釈明しないと手錠がちゃんこですのにぃ〜!

 オレは大慌てで両手をばたばたと動かした。言いわけの言葉はちっとも出てこないのに、手の動きだけはやたらとスピーディだった。いまの気分は翼を広げて大空をパタパタと羽ばたく鳥さん。あわわゎわわわわゎっ(汗)。

「……んふっ」

 オレが逮捕を免れようと言い訳の言葉を探している途中、目の前にいるラーニャがおかしそうにぷっと吹き出した。

 目の前にいる少女は堪えきれないようすでくすくすと笑っている。笑った拍子に肩を小刻みに震わせるようすは、彼女の今の気持ちを物語っているようだった。ジェスチャーは言葉よりもずっとお喋りだった。

 口もとを隠すように手を当てて笑う仕草は、まるでどこかの国の上品なお姫さまのよう。

「なぁにもう、いきなり慌て出して?」

 どうやら、ラーニャはオレが急に慌て出したことがおかしかったらしい。や、そりゃそうでしょって感じですけれども。

「んっふふ、泣いたり慌てたり忙しいねぇ」ラーニャが言った。「ミリア、けっこう表情ゆたかな人だったんだぁ。うちの妹といい勝負かもね?」

「ど、どうかな……」

 オレは言い逃れじみた曖昧な言葉を返した。まだラーニャの妹さんに実際に会ったことがない手前、あんまりハッキリと否定or肯定するわけにもいかず。

「ね、もう平気? 大丈夫ぅ?」

「だ、だいじょぶ……ごめんね、いきなり泣いたりして……」オレは言った。

「んーん、ぜんぜんだよぉ。ミリアが元気ならそれでいーのっ」ラーニャが言った。「ほらほら、お水で背中流さなきゃあ。いつまでも石けんまみれだと、お肌にあんまりよくないんだよぉ?」

「え、あ……そ、そだね。わたし乾燥肌だし……」

「あはは。なおさらちゃんと流さなきゃだねぇ。あ、記憶ちょっと戻った?」

「ちょ、ちょっとだけ。ほんの少しだけど……」オレはしれっとウソをついた。「その、そういえば肌わりと乾燥しやすかったかもーって……」

「そっかそっかぁ。この調子で他の記憶も戻るといーねぇ?」

「うん、そだね。ごめ……あ、ありがとう、ラーニャ……」

「いーえー。あ、向こう向いててねぇ」

 ラーニャはオレの背中をシャワーの水で流してくれた。水に溶け出した石けんが排水溝に吸い込まれていくようすは、まるでエーテルの光が夜の中に吸い込まれていくようだった。

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