【7章】神さまからの贈り物 1
夜。
もうすっかり夜も更けたころ。
部屋の窓から月の光が差し込んで、マットな光沢の床を照らしている。
この部屋の床はマットな木材を使っているらしい。向こうの世界のように表面にワックスが塗られているわけではなく、切り出した木をそのまま加工して床材として使っているようだった。
オレは月明かりが照らす床を見つめた。
このフローリングの表面はメノウのようにマットで、光を鈍く反射するようすは多結晶の宝石を思わせた。
部屋の中は夕暮れ時と比べてかなり暗い。太陽はもうすっかり1日の仕事を終えて、地平線の向こうで休んでいるところだった。代わりに上空にのぼった月と星が夜空に瞬いている。
オレは着替えを持ったまま入口のドアに向かった。部屋の扉を開ける直前、足元にある床がギィっと軋む音が鳴った。
「……」
オレはこっそりと部屋のドアから顔を覗かせた。辺りを見回して人がいないかを注意深くチェック。きょろきょろ。
よし、誰もいないっぽい。
今のうち、今のうちに……できるだけ音を立てないようそぉ〜っと。そぉ〜っと。
オレは細心の注意をはらって部屋のドアを閉めた。開閉音すらしないくらい扉を静かに開け閉めしたあと、もうすっかりとひと気のなくなった寮の廊下へと出た。
廊下は思ったよりずっと明るかった。
月明かりがあるせい……とも思ったけど、やっぱり一番の光源はエーテル光。この光の石は月の光のように明るい。
これ便利だね。すっごく便利。さっきオレの部屋にも大っきめの石が置いてあったけど、間接照明みたいでオシャレなうえに利便性もかなりある。これなら向こうの世界みたいにライトも要らないね。
とはいえ、この光の届く範囲は限られている。
そう遠くまで照らすことはできず、明るさも決して高いわけではない。せいぜい、月明かりよりも少しだけ明るくしたくらいの輝度だった。
だけど、この石の光どういう原理なんだろ。
ぱっと見ただの石だし、とくに特別なところは見当たらない。変わった特徴なんてなさそうな白いだけの石ころ。
この世界の人たちは、この石の輝きを頼りに夜道を歩くらしい。向こうの世界にあるライトと同じように、この世界ではこのエーテルの光が夜を照らしてくれるんだって。
もちろん、夜はたまに野盗も出るから注意しなきゃらしいけど。
ルイゼナいわく、この石は日中に太陽のエネルギーを溜め込むらしい。お日様から受け取ったエネルギーを光として放出して、石のサイズに応じた輝度で夜を明るく照らしてくれる——。
今度また時間があるときに詳しく調べたいところだね。
どうやって光を吸収して、どうやって光を放つのか。どういう仕組みで暗くなると光り始めて、どういう原理でエネルギーを貯めるのか——。なかなか好奇心を刺激するアイテムなのです。
オレは光の石を頼りに夜の廊下を歩いた。
この道の先を照らすエーテルの光は、まるでコチラの行き先を明示しているかのよう。薄らぼんやりと輝く光のコンパスが指し示すとおりに、オレは先ほどキリカたちから聞いた大浴場を目指した。
窓から差し込む月明かりは明るい。夜に溶ける月の光は幻想的な輝きだった。
オレはバスルームに向かう途中でふと立ち止まった。窓の向こうに見える半月は淡く光っていて、その周りにある星々もまた光り輝いていた。あれが今夜の一番星かもしれない。
「……きれい」
オレの呟きが夜に溶け出した。いまだ慣れない自分の声を聞いて、オレは今までにない感傷に浸った。
あらためて聞くと、この子の声はキレイだ。かなり透き通ってる。
日中よりも夜に映える声だと思った。ラーニャの元気たっぷりな声とは似ても似つかない。彼女の声は太陽がのぼる時間が一番よく似合うから。
ひょっとしたら、この声は夜に好かれているのかもしれない。月が照らす夜に聞くのが心地よいタイプの声だと思った。どうしてこうなってるのかはいまだによく分からないけど、この子の声が自分のノドから発せられることが少し嬉しい。月明かりの照らす夜がよく似合う声だと思った。ほんとうに。
こんな風に感傷にひたるのは、きっと夜も更けたからだろう。
認知神経科学の分野の研究によれば、人間の心は夕方〜夜間にかけてセンチメンタルになりやすいらしい。これは自律神経の働きによるもので、副交感神経の活動が優位になるから。
日中は交感神経に偏っていた自律神経のシーソーは、夕方以降に副交感神経にバトンタッチするんだとか。
副交感神経はリラックス神経。副交感神経へのスイッチングがセンチメンタルを連れてくる。リラックス神経の働きがオレたちの心にもの悲しさやうら寂しさを覚えさせる。
どうやら、人間の心は神経系の奴隷らしい。知らないけど(適当)。
まぁ、だからってみんながみんなポエムつぶやくわけじゃないけども。誰も彼もがポエム製造機になるわけじゃありませんけれどもね。往々にして個人差はありまぁ〜す(注:多様性への配慮)。
オレは束の間にポエマー(笑)を疑似体験しながら廊下を歩いた。
ちょっと待って。誰だ今かってに(笑)を付けたのは。勝手にオレの心に入り込んで(笑)を付けるのはやめてください。オレの繊細なガラスのハート(大爆笑)がパキッと割れちゃいますのでね〜っ?(泣)
さておき、夜の廊下はとても静かだった。
窓の向こうからは虫の鳴き声が聞こえてきて、秋の夜に似たような感慨をオレに覚えさせた。
どうやら、この世界でも夜は虫が鳴くものらしい。虫の鳴き声には犬や猫の鳴き声とはまた違った風情がある。とくに気温が涼しくなってきた頃の虫の鳴き声は趣き深い。
だけど、夏の夜に聞く虫の鳴き声も好き。
虫を直接さわるのはのーせんきゅーだけど、鳴き声を聞くのは意外と好きだったりする。
オレは天然のBGMを聴きながら曲がり角を曲がった。寮の廊下には等間隔で光の石が置かれていて、暗がりに慣れた目には充分なほど明るかった。この光の道標は進むべき方向を指し示していた。
途中ちょびっとだけ迷ったけれど、ようやくオレはお風呂場に着いた。
音を立てないよう、オレは入口の扉をそぉ〜っと開けた。お風呂場のドアは引き戸タイプになっていて、レールの上を走る滑車がわずかにカラカラと音を立てた。無音でドアを開けることに失敗。残念でした。あは。
オレはお風呂場の脱衣所に入ってすぐ、近くにあったラックに部屋から持ってきた着替えを置いた。ふぁさっと。
脱衣所の中はほとんど音がなかった。お風呂場からわずかに水が滴る音が聞こえる以外は、ほとんど無音と言っていいほどの静かな空間だった。なんなら、オレの呼吸音がいちばん目立つくらい。
オレはいそいそと服を脱ぎ始めた。辺りが薄暗いせいか、自分の裸を見る抵抗感が少し和らいだ。
いまは自分の身体とはいえ、女性の裸をまじまじと見るのはさすがに抵抗があった。この女の子がどこの誰かは分からないけれど、最小限のチラ見で抑えるのでご容赦願いたい。なにとぞご勘弁を〜(懇願)。
オレは着ていた服を脱ぎ終わったあと、いちおう小さめのタオルを持ってお風呂場に入った。
当然ながら、バスルームの中はがらんとしていた。ひとの気配なんてどこにもなく、ただただ水が滴る音が聞こえるばかり。ここでも天然のBGMがよく仕事をしていた。これはワーカホリックの可能性があるね。ありません。
オレは後ろ手にお風呂場のドアを閉めた。シャワー室があるかを探すため、辺りをきょろきょろと見回した。浴室内は思ったよりもずっと広かった。
あ、シャワー発見。歴史の教科書で見たことあるレトロな感じの。
なにか仕切りで区切られてるわけじゃないけれど、シャワーノズルが一列に並んでいるのを見つけた。あれは紛うことなきシャワールームにござりまする(?)。
まるで何か特別なものに誘われるかのように、オレはシャワールームに向かって歩き出した。
オレは今もってきたタオルで自分の身体の前を隠していた。べつに誰かに見られるわけじゃないんだけど、なんとなく隠したほうが安心できるかなって。ほら、ね?
というか、さっきからなんかいい匂いしてない?
気のせいかな。どこかで嗅いだことあるような匂いだけど……あ、ひょっとして石けんの残り香とかかな?
オレは匂いの正体を勝手に決めつけた。石けんの匂いとは少し違うような気がしたけれど、ほかに匂いの発生源らしいものが見当たるわけでもなく。うん、きっとこれは石けんの香りだね。そーぷすめるず(?)。
シャワールームに向かう途中、タイルの上に付いた水滴がぴちゃぴちゃと跳ねた。
足の裏から小さな水溜まりを踏みしめる感触が伝わってきた。オレが足を前へ前へと動かすたびに、タイルの上にある水たまりが水々しい音を立てた。ぴっちょん、ぴっちょん。
とつぜん、シャワー室の向こうから声がした。太陽と見紛うかのような聞き覚えのある声だった。
「あれぇ、ミリア。あなたも今からお風呂ぉ?」
オレは思わずびくっと肩を震わせた。視線の先には一糸まとわぬ姿のラーニャがいた。
どうやら彼女もまた、オレと同じように時間をズラして入浴していたらしい。ラーニャのようすはいつもと変わりなかった。いつもどおりの元気さだった。
まさか人がいると思わなかったオレは、あっけに取られてポカンとしてしまう。脳みそが今まさに自分の目の前にある景色を、視覚情報として上手く処理してくれなかった。うぃーん、うぃーん(※脳が稼働する音)。
ようやく脳が正常に働き出したころ、オレは現在の状況を急速に理解した。
「うっ……」
オレは思わず呻き声にも似た声をあげた。いま発した声に驚きと焦りが入り混じっているのが自分でもよく分かった。
とても刺激的な光景だった。少なくとも脳が現在の状況を理解できずに、ほんの一瞬フリーズしてしまうくらいには。つい先日まで普通の男性だった人間には、刺激的すぎるほどに刺激的な景色だった。
オレの目の前には肌色があった。日中は服で隠されていたそのふっくらとした身体つきは、今は生まれたての状態でオレの目の前にさらされている。当の本人は特に気にしたようすもなくコチラを見ていた。
じつに女性らしい丸みのあるフォルムが目に飛び込んできて、オレは思わず両手で目を覆いながらその場にしゃがみ込んだ。
「訴えないでくださいっ……」
「えぇ?」
ラーニャはすぐに間の抜けた声をもらした。ぽかんとした顔が脳裏に浮かぶような声のトーンだった。
目隠しのせいで今は彼女の表情が見えていないけれど、おそらくキョトンとした顔を浮かべているに違いない。じっさいに顔を見なくとも声の調子から相手の表情を察する男の図。や、今は女なんだけども。
み、見てないっ。
オレまだ見てないからっ。ほんのちょっとだけしかっ。
せ、セーフだよね。まだオレちょっとしか見てないからセーフだよねっ。手錠がちゃんこからの牢屋がしゃんこされる展開にはまだなってないよねっ?(必死)
オレの脳裏には先ほどの光景が焼き付いていた。
視界が真っ暗闇に包まれた今もなお、先ほど(ちょっとだけ)見たラーニャのあられもない姿が脳裏に焼き付いている。
まるで海馬と大脳皮質がこぞって先ほど見た光景を、記憶回路に焼き付けようとしているかのようだった。どこでやる気だしてんだぁ、オレの脳みそぉ〜っ!(天誅!)
いっ、今もし訴えられたら、オレ絶対もう確実に敗訴なんだけどっ。告訴っ、告訴ぉ〜!
「どしたのぉ、ミリア。大丈夫ぅ?」
ラーニャの心配そうな声が先ほどよりも近くに感じた。
どうやら、彼女はオレのもとに少しずつ近づいているらしい。タイル上にある水滴をはじく足音がだんだんと大きくなっていた。ぴちゃん、ぴちゃん。
「は、はひ……」
オレの口から情けない声がもれた。オレが今まで聞いたかぎり最も情けない声だった。それはもう、情けない声グランプリ選手権大会(MtoFの部)でぶっちぎりのトップを飾れそうなくらいに。
や、そんな選手権あるか知らんけどもっ。




