それでも会いたい
玄関のチャイムを押すと、彼女はそっとドアを開けた。
「……入ってもいいですか」
無言で目を伏せると、彼女は部屋の奥へと入っていく。言葉はなく、表情もない。今日は調子があまり良くなさそうだ。後をついていきながら、そっと小さくため息をつく。
部屋の空気はどんよりしている。「どうぞ」言われるまま、床に置かれたテーブルの、彼女の正面に座る。
毎週金曜日。定時で仕事を終えると、僕は彼女に会いに来る。
「勝手に決めつけないでください」
彼女と初めて交わした言葉。高校1年のとき、僕はなぜか軽音部に無理やり勧誘された。どうみても、明らかに場違いだった。ここは市内有数の進学校で、僕はトップの成績で入学した。中学までずっと、まわりとは馴染めずにいた。軽音部は先生たちからの評判が悪く、成績優秀な生徒を集めようと強引に勧誘していたらしい。そして3年生だった彼女は僕を見て、明らかにどうせ名前だけの在籍だろうという対応をした。それが無性に気に障った僕は、冷たく言い放った。彼女はおびえたように僕を見ていた。
ある日の昼休み。教室に居場所がなく外で一人で弁当を食べていた僕を、彼女は視聴覚室の窓から大きな声で呼んだ。行ってみると、軽音部の部員たちが集まって昼休みを過ごしていた。みんな、当たり前のように僕に話しかけてくれる。彼女は話し好きで、あきれるほどよくしゃべった。そこは、それまで感じたことのないようなあたたかい場所だった。
「守谷くんって、笑うとすごく優しい顔になるんだね」
僕の顔を覗き込んで、彼女は笑った。僕はあわてて目をそらした。そんな僕を彼女はいたずらっぽい目をして見た。胸の奥がずきんと痛んだ。初めての感覚だった。
「調子はどうですか」
彼女に話しかける。彼女は無言のまま、少し首を傾げる。
「……夕食、まだですよね。何か作りますね」
彼女が小さくうなずくのを見て、僕は台所に立った。医師である母は仕事で忙しく、父は単身赴任。中学生のころには自分で食べるものはすべて自分で作るようになった。冷蔵庫のなかを確認し、簡単な食事を作る。
「食べましょうか」
こんなふうに一方通行で会話することにもだいぶ慣れた。彼女はほんの少し表情を緩めて「ありがとう」と小さな声で言った。
社会人になってから彼女はいつくかの辛い経験をし、こんなふうに心を閉ざしてしまった。あんなにおしゃべりだった彼女が、今はほとんど話せない。調子のいいときには少し会話ができることもあるが、特に調子が悪いときは会えずにそのまま帰ることもある。
それでも僕は、毎週彼女に会いに来た。いつか、昔のような笑顔を取り戻してほしい。時間がかかってもいい。ずっと憧れだった彼女と、こうして一緒に過ごせるなら。
「私ね、人と話すことって向き不向きもあるけど、慣れることも大事だと思うの」
うまく人と接することができない僕を心配して、彼女は言った。まだ学生の頃だ。接客のバイトなんかをして、無理にでも人と話すことに慣れるといいんじゃないかな。僕は初めはとても無理だと思った。こんな自分が接客なんてできるわけがない。しかし、彼女と会えなくなってから、僕は言われたとおり接客のバイトを始めた。うまくできたかどうかはわからない。それでも少しずつ、人との距離の取り方を覚えていった。
「このあいだ、会社の飲み会に参加してきました。やっぱり、話しかけづらいって言われて……でも、おかげで少しは話せるようになったんです」
ある日、会社で誘われたと話すと、そういう機会には参加したほうがいいと彼女は言った。その日は調子が良かったらしく、「楽しんできてね」と少しだけ笑顔も見せてくれた。
「……そう」
今日の彼女は笑顔がない。僕は、できるだけ笑顔を作って話しかけた。以前彼女は僕の笑った顔が好きだと言ってくれた。せめて自分だけは、無理にでも笑顔でいなくては。
「……また、来ますね」
夕食の片づけを終えると、僕は彼女の部屋を後にした。彼女は何も言わなかった。
――疲れた……。
駅へと向かいながら、ふと心が折れそうになる。今日も、ほとんど話すことができなかった。もし、このまま彼女が元に戻らなかったら……。何度もそう思いかけて、すぐに頭を振る。いや、大丈夫。時間はかかっても、少しずつ前に進んでいけばいい。
大通りに出る。目に入ったのは、仲良さそうに体を寄せて歩く恋人たち。楽しそうに会話をしながら、笑顔で見つめあう。……思わず。そんな光景から目をそらす。
僕もいつか、あんなふうに過ごせる日が来るんだろうか。不安で、胸が押しつぶされそうになる。彼女の心の傷は深い。いっそのこと、すべて投げ出してしまえば……。
朝、目が覚めると強烈な違和感に襲われた。頭のなかが波打つように揺れて、起き上がれない。いったい、何が起こったんだ。ベッドサイドに置いた携帯を取ろうと手を伸ばすと、うまく取れずに床に落ちた。無理やり体を起こして拾う。時間は朝6時30分。
そのとき、違和感の正体に気づいた。たぶん、熱だ。しかも、相当高い。
ふらつく足で棚から体温計を取り、測ってみる。39度1分。思った通りだ。倒れ込むようにベッドに戻り、携帯を手にする。会社に連絡をしなければ。
「……守谷です。すみません……今日は体調不良のため、お休み、させていただきます」
「……守谷くん? 何か話し方がおかしいけど、大丈夫?」電話の向こうで、上司の水沢さんの戸惑ったような声が聞こえた。
「え? あ、ああ……大丈夫、です。ちょっと、熱があって……明日には、たぶん……」
うまく口が回らない。電話の向こうでは沈黙が続く。
「……守谷くんは、一人暮らしだよね。もしあまりに体調が悪かったら、誰かに……そう、彼女に、来てもらったら?」
心配そうに話す水沢さんに適当な相槌を打ち、電話を切った。彼女に……そんなこと、できるわけがない。彼女はいま、自分自身のことでせいいっぱいのはずだ。
寒気で体がガタガタ震える。こんな高熱は小学校に入る前以来だろうか。
――彼女に、来てもらったら?
ふと、携帯を手にとり、アドレス帳を見る。たいして連絡先は入っていない。彼女の名前はすぐに見つかった。
――いやいや、何を考えているんだ。
携帯を乱暴にベッドに放り出し、目を閉じる。そんなこと、できるわけがないんだ。
……でも。
もう一度、携帯を手にとる。彼女は今日は通院の予定はなく、家にいるはずだ。寒気で震える指で彼女の名前をなぞる。もし、そばにいてもらえたら。あの、やさしい声……。意識が朦朧とするなかで、僕はただ彼女のことを思っていた。
額にひんやりと冷たいものを感じて、目が覚めた。
「……ごめんね。起こしちゃった?」
彼女はそう言って、はにかんだ笑顔を見せた。あの頃と変わらない、懐かしい笑顔。
「……あかりさん……どうして……」
「守谷くんがね、来てほしいって言ってくれたから」「……え?」
記憶にない。まったく覚えていない。ただ、携帯の画面にある彼女の名前を見ながら、意識がぼんやりしていくのを感じていた。それなのに……。
「急に電話が来て、何も話さないから、どうしたの?って。そうしたら、熱があって会社を休んでるって。それから……来てもらえませんかって」
信じられない。まさか自分がそんなことを言ったなんて。彼女は自分の問題を抱えていて、それどころじゃないとわかっているのに。
「私、ずっと守谷くんに頼ってばかりで……迷惑ばっかりかけて、そんな自分がすごく嫌だったの。でも、こんなふうに必要としてくれるんだって思ったら、なんだか嬉しくて」
彼女はそう言いながら、額の上のタオルを新しいものと取り換えた。ひんやりして気持ちいい。少し眠ったせいか、さっきまでのひどい寒気は治まっていた。
「そうそう、部屋の鍵、開いてたよ。ちゃんとかけておかなきゃだめだよ」
まだ保育園に通っていた頃、同じように高熱が出た。いつものベビーシッターさんが来ていて、母は仕事へと向かおうとしていた。熱でぼうっとした頭で、考えていた。病気で母を待っている人がたくさんいる。僕はそのじゃまをしてはいけない。
「おかあさん……」「ごめんね、行かなきゃ」「……いいよ。おしごと、がんばってね」
本心は言えなかった。母ははっとしたように僕を見た。外へと行きかけて、戻るとどこかへ電話をかけた。そしてベビーシッターさんを帰らせ、優しく微笑んだ。
「今日はお母さん、お休みする。そばにいるからね」
朝、母が出かけるときに鍵をかける音が嫌いだった。言いようのない寂しさが襲ってきた。あの感じ……時々、鍵をかけずにいるのは、あの頃の記憶がどこかに残っているから。
「守谷くん、食欲はある? おかゆ、作ってくるね」
彼女は軽い足取りでキッチンへと向かった。その後ろ姿を見ながら、何ともいえない穏やかな気持ちに包まれた。再び、心地よい眠気が訪れる。
――幸せだった。たとえ、すべてが、夢だったとしても。




