1.7 静けさの中で
木剣を腰に戻したアルフレッドが、広場の外れにある井戸の縁に腰掛ける。
陽は高くなり、さっきまでの熱気が嘘のように落ち着きを取り戻していた。
カナメが横にやって来る。湯呑みを片手に、少し笑って言う。
「……対人もいけるんだね。ちょっと意外だった」
アルフレッドは肩を竦める。
「いや……親父に教わっただけさ。昔の話。」
さっきの木剣の感触を、まだ手が覚えていた。
「野で動くのと、そんなに変わらないよ。目で見て、身体で動いて、次を読む。それだけ」
「それができるのがすごいんだけどね」
カナメは静かに言い、湯飲みの縁にそっと指を添えた。
そのとき、背後から気配が近づいてきた。
「よう。……あれ、本気だったのか?」
声の主はニオだった。グレインと並んで歩いてきた二人は、井戸のそばに腰を下ろす。
アルフレッドは少し考えてから、首を横に振った。
「……分からない。夢中だった。気がついたら、身体が動いてた」
「へぇ……じゃあ、本気じゃなかったってこと?」
ニオが面白がるように笑うと、グレインが静かに言葉を挟む。
「でも、あの場にいた誰もが思ったと思うぞ。お前は……本当に強いって」
少しの間、風が吹き抜ける。
アルフレッドは目を伏せ、井戸の石縁を軽く指で叩いた。
「強いって言われるほどじゃない。ただ……」
言葉を探すようにしてから、ぽつりと続ける。
「――ちゃんと、やれる自分でいたかっただけ」
三人はそれを聞いて黙った。けれど、どこか安心したような沈黙だった。
少しして、アルフレッドがふと笑って言った。
「……ま、たぶん、たまたま勝てただけさ」
ニオが首を傾げる。
「は? それ、本気で言ってる?」
「運が良かっただけだったと思うけどね」
アルフレッドは井戸の縁から足をぶらぶらさせながら空を見た。
「なんとなく、こっちは最初からうまく動けただけって気がする。ヴァルトさんが最初から本気だったら、俺が寝転がってたかもしれないな」
「それ、謙遜ってやつ?」
「いや、わりと本気で。……ああいうの、偶然ってあるんだよ。たぶん」
そう言いながら、アルフレッドはどこか楽しそうだった。
けれどその目は、ただのお気楽さではなく、どこかでちゃんと見ている目だった。
「でも、どうせやるなら――偶然じゃなくても勝てるようには、なっておきたいかな」
ニオがふと湯飲みを見下ろしながら、ぽつりと尋ねる。
「……そういえばさ、アル。あんたはなんで旅なんかしてるの? 別に追われてるとかでもないんでしょ?」
アルフレッドは小さく笑って、空を見上げた。
「んー、そうだね……たぶん、“面白そうだったから”かな」
「は?」
ニオが眉を上げる。
グレインが吹き出しかけて、堪えるように口元を押さえた。
「それだけ?」
「それが全部、だよ。なんかさ、あのまま村にいたら、毎日がずっと“昨日と同じ”になりそうで」
井戸の縁に手をつきながら、アルフレッドは足をぶらぶらさせる。
「どうせ生きるなら、毎日ちょっとくらい面白くないと損だと思ったんだよね」
ニオは思わず笑って、肩をすくめた。
「なんそれ……あんた、けっこう変なやつだね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そう言って笑うアルフレッドの目は、どこか無邪気で、そしてまっすぐだった。
グレインが腕を組みながら呟く。
「そういう理由で旅に出て、やってけるもんなのか……」
「たぶん、やってけてるよ。まあ、腹が減れば働くし、寝る場所がなけりゃ歩くし。案外なんとかなるんじゃないかな?」
「それを“なんとかなる”で済ませるところが、すごいわ……」
ニオが呆れたように笑って湯飲みを置いた。
「うちらは荷を運ぶために旅してるし、ちゃんと段取りがあって、スケジュールも組む。帰る場所もある」
「それはそれで、きっと楽しいよね」
「まあ、そりゃあね。でも、あんたのは……」
「完全に道楽、だよ」
アルフレッドは楽しげに笑うと、広場の方をちらりと見た。
「でも、そんな風にふらふらしてると、不思議と面白い人とか、変な出来事とか、勝手に出会ってくるんだよ。不思議だよね」
ニオとグレインは顔を見合わせ、少しだけ笑った。
「昨日の話も…故郷では聞けない話だし、今日の模擬戦も日々行う訓練とも違う。
なんか…こう、あるんだよね…楽しい事の積み重ねで成長してる事もあるし」
アルフレッドはカップの水を飲み干して言った。
「……色々やってみたい。それだけかな」
言葉のあと、少しだけ風が通り抜ける。
ニオもグレインも、何も言わず、ただその言葉を受け取った。
誰よりも不確かで、誰よりも真っ直ぐ。
今日も、明日も、自分の歩幅で歩いていく。
「……らしいわね」
カナメはそう呟いて微笑みながら何処かへ歩いていった。
「…だな。じゃ俺らは明日の準備があるからまた夜な」
グレインとニオも笑いながら荷造りへと向かった。
一人になり、尚も手には消えない感触が残っていた。
井戸の縁に腰をかけたまま、アルフレッドは空を仰いだ。
青はまだ澄んでいて、雲の影もどこか遠くにあった。
さっきまで交わしていた会話の響きが、少しずつ胸の奥に沈んでいく。
(……たまたま、か)
自分で言っておきながら、その言葉が少しだけ喉の奥に残る。
拳を軽く握ってみる。
もう木剣はない。けれど、あの瞬間の熱は、まだ手の奥に残っていた。
「……ちゃんと、やれる自分でいたかっただけ」
自分で言った言葉が、ふと脳裏を過る。
誰に対してでもない。誰かに見せるためでもない。ただ、自分自身にだけ、示していたかったのだ。
足元に伸びる影が、午後の陽に揺れていた。
風が通り、どこかで誰かが笑っている声が聞こえる。
広場のざわめきも、遠くで響くトールグリムのいななきも、今はすべてが少しだけ遠くに感じられた。
アルフレッドは目を細め、ぽつりと呟いた。
「……少なくとも…間違いじゃない…と」
言葉は空に溶けていった。
けれど、それを誰かが聞いていたかのように、頭上で小鳥がひとつさえずった。
立ち上がると、腰にぶら下がった木剣が揺れた。
それを軽く手で押さえながら、アルフレッドは背伸びをする。
夕餉の時間にはまだ少しある。
けれど何か――心の奥で、次に進む準備が整いつつあるのを、アルフレッドは静かに感じていた。
アルフレッドはひとつ、深く息を吸って、そして歩き出した。
広場の方へ歩いて向かうと、
「――あんちゃん!」
と、大きな声で呼び止め駆けてくる少年がいた。
ガーヴ村の子ども。昨日、荷運びを手伝っていた子だ。
「あんちゃん、さっきの、すっごかった!」
興奮した様子で、少年は目を輝かせながら言った。
アルフレッドは少しだけ照れたように笑い、首を傾げる。
「そうか? ……まあ、運がよかっただけかもな」
「ううん、ぼく見てた! ちゃんと、こう……風みたいに、動いてたよ!」
「風みたい、ねぇ」
アルフレッドは苦笑しながらも、どこか嬉しそうにその言葉を噛みしめた。
「ねぇ、旅って楽しい?」
少年の問いに、少しだけ間を置いて、空を見上げる。
「まだ始まったばかりさ。でも……うん、悪くない」
それだけ言うと、少年は満足げに頷いた。
「じゃあ、ぼくも、いつか旅する!」
その小さな声に、アルフレッドは頷く代わりに、軽く片手を上げて応えた。
少年は嬉しそうに手を振って、広場の方へと走り去っていった。
その背中をしばらく眺めてから、アルフレッドはふぅ、と息を吐く。
広場を歩くと、どこかちぐはぐな静けさがあった。
いつもの午後と、そう変わらない。
けれど、どこか違っていた。
いつもより、笑い声が控えめで。
いつもより、荷を運ぶ足音がはやい。
みんな、普通を装っているように見えた。
けれど、その普通の奥に、何かが揺れていた。
「……なぁ、見たか?」「見たよ見たよ」
井戸の裏から、子どもたちのひそひそ声。
目が合うと、パッと散るように逃げていく。
でも、角を曲がった先でまた顔を覗かせる。
どこかで湯を沸かす音がして、鼻先を煮物の香りがかすめる。
トールグリムのいななきがひとつ、遠くで響いて、
村の空気に、まだ薄く残る、木剣の風音が混ざった。
今日の村は、やけに静かだった。
けれどそれは、火が消えた静けさじゃない。
――まだ、胸の奥がくすぐったいまま、口に出せないでいるような。
空を見上げ、ふぅ…と一息つく。
広場には、さっきの模擬戦を見ていた村人たちが散らばっていた。
道具を片づける手、草を掃くほうき、ぽつぽつと交わされる声。
けれど、誰もがどこか落ち着かず、少しだけ浮ついていた。
すれ違いざま、ひとりの村人がふと小さく言った。
「……やるもんだねぇ」
それだけ。振り返りもせずに、足早に去っていった。
アルフレッドは笑わず、頷きもせず、ただその背中を見送った。
火照りが、まだ胸の奥に残っている。
それがなんなのかは、まだ分からない。
けれど、きっと悪いものではないと思えた。
広場の風が、すこしだけ冷たくなっていた。