1.5 星の眠る地
宿に戻ると、扉の向こうから賑やかな笑い声と、香ばしい匂いが漂ってきた。
扉を開けた瞬間、目の前に広がる光景に、アルフレッドは思わず立ち止まった。
広間の中央には長いテーブルが設けられ、山の幸がこれでもかと並んでいる。炙った川魚、茸のスープ、香草で包んだ獣肉の蒸し物──どれも素朴だが心のこもった料理ばかりだ。
その周りには大人も子どもも入り混じり、歓談に花を咲かせていた。
「おっ、お二人さん、帰ってきたな!」
グレインが大きく手を振って呼びかける。
「なんですか、これ……?」
「俺ら以外の旅人なんて久しぶりでな。
こうやって来てくれた人を囲んで、村のみんなで歓迎するのがこの土地の流儀なんだよ。
祭りってほどじゃねぇけど、賑やかだろ?」
「……ありがたいな」
思わず口元が緩むアルフレッド。カナメも微笑みながら頷いた。
テーブルにつくと、すぐに村の子どもたちが話しかけてくる。
宿の中は、まるで小さな祝祭のようだった。
旅人の来訪を歓迎する村の慣わしとはいえ、その熱気は思った以上だった。
「こっち空いてますよ!」
腰の曲がった老婆が、手招きしながら席を作ってくれる。
「こりゃあ、ツィンルーも久々に賑わうわい」
「ほら、こっちの蒸し肉は塩漬けにして一晩寝かせとる。柔らかいじゃろ?」
村人たちは次々と話しかけてきて、アルフレッドもカナメも座る間もないほどだった。
いつの間にか彼らの前には皿がいくつも並べられ、箸を持つ手が追いつかない。
「……なんか、すごいな」
「ええ、でも……嫌じゃないわ。こういうの、どこか懐かしい」
カナメが小さく笑う。彼女にとって“家族的な場”は決して多くなかった。
この場の温かさは、少し胸に染みる。
「食ってるかい?」
ツィール婆さんが大皿を抱えてやってきた。
「今夜はキノコがたくさん採れてね。あとで茸粥も出すよ。体があったまるからさ」
「助かる。……今日はちょっと冷えるしな」
食べながら、アルフレッドはぽつりと漏らす。
外の風は冷たくなりつつあったが、ここには灯と人の声があった。
「剣を使うって聞いたが……あんた、どこかの兵だったのか?」
振り返ると、屈強な体格の男が立っていた。肩には狩猟用の革鎧、腰には使い込まれた鉈。
「いや、兵じゃない。ただの旅人…といっても出てきたばかりだけどね…」
「そうか……俺はこの村で、若いのに狩りや護身を教えてる。ヴァルトって名だ」
「……村の守り人ってとこかな?」
「そんなとこだな。」
ヴァルトは豪快に笑い、続ける。
「もし良けりゃ、明日軽く手合わせしてみねぇか? 他所の技を見られるのは、めったにないことだからな」
「……望むところだよ。力加減は頼むぜ?」
「そりゃお互い様だろ?」
二人の間に、静かな火花のような空気が走る。
それを察したのか、近くで遊んでいた子どもたちが騒ぎ始めた。
「えっ? 明日、ヴァルトさんと勝負するの!?」
「旅の人、剣使えるんでしょ? どっちが強いのかなぁ!」
「すごい、剣の勝負なんて初めて見る!」
「明日、絶対見るー!」
無邪気な歓声が広間に広がり、大人たちも苦笑しながらそれを見守っている。
「ふふ、すっかり見られてるわね、あなたたち」
カナメはその様子をちらと見て、微笑んだ。
「男の人って、本当にそういう時だけわかり合えるのよね」
「まあ……言葉より動きのほうが、伝わることもあるからさ」
宴の喧騒の中で交わされた、ささやかな約束。
明日のメインイベントは決まった。
宴がひとしきり盛り上がった頃、広間の入り口に静かな足音が届いた。
ふと気づいたカナメがそちらを見やると、杖をついた老人が一人、扉の外に立っていた。
「おお、ヤール村長……」
村人たちが次第にざわめきをやめ、自然と道が空けられていく。
村長は、ゆっくりと中へ入ってきた。
「皆、賑やかでなによりじゃ」
そう言って、優しく目を細める。
「お主も、席にどうぞ」
ツィール婆さんが椅子を持ってくると、ヤールは小さく頭を下げて腰を下ろした。
「……今夜は、良い火が灯っておる。遠いところから来た者が、こうして囲まれておる姿を見るのは、嬉しいものじゃな」
アルフレッドに一瞥を送り、柔らかく微笑んだ。
「昼にも話したが……風も火も、巡っておるようじゃ」
「……はい」
アルフレッドは少し照れたように頷いた。
「ヴァルトとも、何やら言葉を交わしたと聞いたが……まあ、無理はせんようにな」
その言葉に、周囲の村人たちがまた笑い声を漏らす。
「ほら見てみい、村長ももう知ってるぞ」
「どこまで話が早いんだか!」
宴は再び笑いに包まれた。
湯気の立ちこめる広間で、ひとしきり笑い声が落ち着いた頃。
ヤールが椅子の肘掛けに手を置き、ふと呟いた。
「……この地にはな、“星が眠る”と言われる場所がある」
誰ともなく静かになり、子どもたちも菓子をつまむ手を止める。
「それは遥か昔の話。空から“星”が落ちた。大地は裂け、風は止まり、水は枯れ、火さえも暴走した。
巡りという巡りが、ひとときすべて乱されたのじゃ」
人々の表情が、次第に真剣な色を帯びていく。
「だがな――その混乱の中で、人は祈った。
風の通り道を清め、土を耕し、水を引き、火を灯した。
互いを信じ、助け合い、小さな巡りをひとつずつ、繋ぎ直していった」
ヤールの声には、どこか優しさと誇りが滲んでいた。
「なかでも伝わるのが、“勇者”と“巫女”の話だ。
それはこのフローラ大公国の、遠い始まりの物語でもあるのだよ」
周囲にいた大人たちも耳を傾け始め、子どもたちは膝を抱えて静かに座り直す。
「昔むかしのことじゃ。
この地に、“星”が落ちた夜があったそうな。
空は裂け、光の柱が天を貫いて、地の底まで届いたという。
そのときじゃ――
大地はひび割れ、風は吹かず、水は濁り、火は暴れ出した。
巡りという巡りが、すべて乱れた。
人は動くことも、祈ることもできず……
まるで世界そのものが、ひととき息を止めたかのようだった」
ヤールの声はどこか遠くを見つめていた。
「そんな中に、ひと組の兄妹がいたんじゃよ。
兄は、名をレニオス。
剣を携え、荒れ果てた地を切り拓き、
命を守るための砦を築いた。
妹は、名をフローラ。
杖を手に、人の祈りを導き、
濁った巡りの中に、小さな光をともした。
兄は剣と紋章、
妹は杖と杯――
力と祈り、意志と希望、それぞれ異なるものを手にしておったが、
目指す先は同じじゃった」
焚き火の火が、ぼんやりとアルフレッドの顔を照らす。
「二人は、星の落ちた中心にある山へと向かった。
風に吹かれ、火に焼かれ、水に浸かり、土にひざまずき……
巡りのすべてを通って、ようやくその頂に立ったのじゃ。
そこで兄は、空に剣を掲げた。
妹は、地に杯を捧げた。
天に力を、地に祈りを――
そのとき、ようやく巡りは、静かに、優しく、戻ってきたんじゃ」
ヤールは静かに目を閉じて、ひと呼吸おいた。
「それからじゃ。
兄の砦を中心に人が集まり、大公国となった。
妹の祈りは信仰となり、フロル教が生まれた。
兄レニオスは国を護る大公となり、
妹フローラは祈りを導く教皇となった。
剣が民を守り、
祈りが巡りを支えた。
その両輪によって築かれたのが、わしらのフローラ大公国よ。
―そしてな、星の祈りが届いた霊なる山、霊峰レニオス。
兄と妹が最後に辿り着き、巡りを結び直したその山は、
今も静かに、空を見上げてそびえておる。
その麓に、我らのガーヴ村はある。
小さき村ながらも、巡りの端に位置する、
“始まりの地”のひとかけらじゃよ」
焚き火がぱちりと音を立て、子どもたちの目が丸くなる。
「巡りとはな、一方通行ではない。
風は揺らぎ、火は燃え、
水は流れ、土は重なる。
それぞれが支え合っておるから、巡るのじゃ。
力がある者が、祈りを捧げる者を護り、
祈りを捧げる者が、力ある者の導きを信じる。
そうして、ようやく……“国”というもんは立ち上がるんじゃよ」
語り終えると、広間に静かな余韻が広がった。
アルフレッドの視線が、焚き火の奥に吸い込まれていた。
夜更け。
宴はその後、語りの余韻と共に御開となった。
部屋に戻り柔らかな毛布の中で目を閉じながら、アルフレッドは村長の語りを思い返していた。
星が落ちた夜。
剣と祈り。
大公と教皇。
巡りの物語。
…どれも、自分には遠い話に思えた。
大きなことすぎて、まるで実感が湧かない。
ただ、ひとつだけ。
兄妹が肩を並べて歩いたという、その姿だけが、なぜか心に残っていた。
(……いいな)
そんなふうに誰かと歩けたら。
そんなふうに、誰かの隣に立てたなら。
眠気が少しずつ意識を溶かしていく。
世界の大きな物語も、自分のささやかな想いも、境目なくぼやけていく中で――
風がそっと、窓の隙間から吹き込んだ。