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-fortune-  作者: イチマル
序章
4/11

1.3 陽は高く、道は続く

陽はすでに高く、草原の朝は静かに輝いていた。


カザリヤ平原を横切る街道の上を、四人と一台の荷車が進んでいく。


風はやや強めだったが、昨日より冷たくはない。季節の巡りを感じさせる、柔らかな空気だった。



「風向きが東に変わったな。……今日は、ユトウサギが群れで動くかも」


ニオが歩きながら呟く。空を一瞥したその声には、経験からくる確信があった。



「風の匂いも少し変わったな。昨日のうちにミルネズミが移動してても不思議じゃねぇ」


グレインも応じるように、草の波を眺めて言った。


彼らにとって、この草原は通りすがりの道ではなく、幾度となく往復してきた生活の一部――肌で覚えた季節と風の通り道だった。


 

「道も崩れてない。荷車も問題なし。上々だな」


荷の確認を終えたグレインが、にっと笑って肩を回す。その様子に、アルフレッドも小さく頷いた。


 

カナメは一行から半歩だけ距離を置いて、草の揺れに目を向けていた。


耳を澄ませば、風の流れと鳥の声――

けれど、今日は……少し、静かすぎるかもしれない。


 

「……空が広いですね」


誰ともなく、そんな言葉が漏れた。


返す者はいなかったが、歩調は止まらない。


四人と一頭のトールグリムが、街道に小さな足音を刻んでいく。



朝の陽は高く、雲ひとつない空を照らしていた。

雲も薄くちぎれたものが西へ流れている。


――けれど、そこにはひとつ、気になる“欠け”があった。



鳥の姿が少ない。


カザリヤ平原には、風に乗って滑空するカゼクイワシという大型の猛禽がいる。

空の高みに点のように浮かび、草の陰に潜む小獣を狙って急降下する姿は、この地の常とも言える光景だった。


昨日は確かにいたのだが今日は、その影が見当たらない。


小鳥たちのさえずりも、なぜか耳に届かなかった。

いつもなら、ユトウサギやミルネズミを狙う小型の梟や鷹も、空を斜めに横切っているはずなのに――


空を見上げれば、確かに晴れていた。


……だが、次の瞬間。



草原の一角に、影が落ちた。


一瞬だけ、陽の光が遮られたのだ。まるで、空そのものが揺らいだような――そんな重み。



誰も声を上げなかった。ただ、足が自然に止まっていた。

頭上を、巨大な何かの影が通り過ぎていったのだ。



振り返っても、もう姿は見えない。風の流れも変わらない。

けれど確かに、そこに“あれ”はいた。


「……アズルヴェンかもしれないわね」


カナメが、空の余白を見つめながらぽつりと呟いた。


"空喰い"アズルヴェンは風と雲の裂け目を住処とする高空性の飛竜であり、翼を広げれば30メートルを優に超えるとされる大型個体も存在する。

その姿を間近で見た者は少ないが、空を遮るような巨大な影と、風の変化でその存在は知覚される。


極めて高い知性を持ち、無駄な殺戮や侵略行動を取ることはない。

しかし、自身のテリトリーに侵入する存在には容赦なく対処するため、旅人たちは“空喰の空域”を迂回するのが常識となっている。


多くの飛竜と異なり、滑空・漂浮に特化した羽構造を持ち、羽ばたきの音がほとんどない。

このため「静羽竜」とも呼ばれ、気づいたときにはすでに頭上を過ぎているという。



「あの高度なら、姿が見えないのも当然。けれど――鳥たちは、先に気づいていたのね」



冗談めいた口調だったが、その目は冴えていた。



人は、空の一部を見落とす。

けれど風と獣たちは、その空の“異変”を、ずっと前から知っていたのかもしれない。


鳥たちの囀りが、少しずつ戻ってくる。

風もまた、いつもの流れを取り戻しつつあった。


 

その中で、アルフレッドがぽつりと口を開いた。



「……空が、少し広くなったような気がした」


 

誰に向けたでもない、静かなひとこと。

驚いたような声ではなく、ただ、そこにある空気の違いをそのまま言葉にしただけのようだった。


 

グレインが振り返り、思わず眉をひそめる。


「広くなったって、空はもともと広いもんだろ?」


 


アルフレッドは、肩をすくめた。


「うん。だから気のせいかもしれない。

 でも――なんていうか、さっきより、頭の上に余白ができたっていうか……そんな感じ」


 

言っている本人も、うまく説明できていない様子だった。

けれどその声には、奇妙な嘘のなさがあった。



カナメは横目で彼を見やった。

突拍子もないようでいて、妙にしっくりくる言葉。

説明をしない分だけ、余韻が残る。

 


空が通り過ぎた。風が戻った。

そのすべてを、彼はただ、自然に受け取っているだけ――そんなふうに見えた。


空の出来事を、言葉にせずに抱える人間。

彼が口にした曖昧な言葉が、なぜか一番、この場に似合っていた。





それからしばらく進み、陽が真上に近づく頃――

草原の空は、ますます青く澄みわたっていた。


けれど、その空を見上げたカナメが、ふと足を止めた。



「……鳥の声が、また止んだわ」


 


静かすぎる。


風の音はある。だが、草原にしては静かすぎる。



「上っ……カゼクイワシ!」



ニオが叫んだ。指差す先、青空の一角から、影が鋭く落ちてくる。


草の上に、陽を裂くような沈黙の爪――


 


カゼクイワシ。

カザリヤ平原に生息する大型の猛禽で、小獣だけでなく旅人の食料や荷まで狙うことで知られている。

滑空しながら距離を詰め、狙いを定めたら一気に急降下。

その突進力と精度は、しばしば馬車の帆や荷箱すら引き裂く。


 

「っ、間に合わない……!」


グレインが駆け出そうとした、そのときだった。


 


「――《澪環れいかん》」


 


カナメが静かに右手を掲げ、指先で弧を描く。


空気に、水の気配が広がる。

次の瞬間、荷車の上に、透き通った輪がふわりと浮かび上がった。


水の弧。揺れる薄膜。

それは陽光を受けて、ほとんど見えないほどに微細に震えていた。


 

そこへ、カゼクイワシの爪が衝突する。



――ビィンッ!


 


濁音に近い音が、空気を裂いた。

だが澪環は破れず、力を吸い込んで波紋のように受け流した。


猛禽は衝撃で姿勢を崩し、そのまま大きく旋回する。


 


「狙いは物資か……さすがに執着はないか」


カナメが、目でその影を追いながら呟く。


カゼクイワシは獲物を奪うことに長けてはいるが、執拗な追撃はしない。


捕食のチャンスを逃したと判断すれば、風に乗って次の標的へと向かう。


 


「今のは……水?」


ニオがぽつりと漏らす。


「私の水は、自在なの。

 流れることも、留まることもできる。

 ……ちょっとコツがいるけどね」



カナメは静かに笑い、手を下ろす。


 


「アルフレッドにせよ、嬢ちゃんにせよ……今回の護衛は当たりだな。まったく、運がいいぜ」


グレインが感嘆混じりに声をかける。


だがカナメは、ただ肩をすくめた。


 


「空を見ていれば、ある程度はわかるわよ」


 

「…それってやっぱすごいよ」


アルフレッドがつぶやくように言った。


彼の言葉はどこか嬉しそうで、驚きよりも、信じることに重きがあるような響きだった。


ふと見上げた空は、何事もなかったように広がっていた。

けれど、その青の奥には確かに、捕食者がいた。


それが“自然”というものだ。




午後の日差しはやや傾き、草原に長く柔らかな影を落とし始めていた。 風はまだ冷たさを含んでいたが、陽のぬくもりと混じり合って、旅人たちの衣をやさしく揺らす。


「前方、低木地帯……。そろそろ気配が濃くなるな」


アルフレッドは街道の先に広がる灌木帯を見つめながら、呟くように言った。 グレインが荷車の脇から顔を出し、唸るように言葉を返す。


「この辺り、昔は盗賊の根城にもされてたって話だ。最近は野犬が出るとも聞いたな」


カナメは足を止め、ひと呼吸置いて草原に耳を澄ます。 風が一瞬だけ、乾いた音を含んでいた。


「……足音。四……いや、五つ」


直後、藪の影から飛び出してきたのは、干からびた毛並みをしたワイルドウルフの群れだった。 その動きは鋭く、空腹の本能に突き動かされたものだった。


「荷車狙いだ! 前を固めろ!」


グレインが咄嗟に斧を構え、荷車の前へ躍り出る。 アルフレッドもすでに剣を抜き、前衛に躍り出ていた。


──斬っ。


一頭目の牙が迫るより早く、剣が風を裂いて首筋を払う。 血が草を濡らすと同時に、別の一頭が背後から迫る。


「……遅いっ」


アルフレッドが体を沈め、逆手で斬り上げるように切り払う。 跳びかかってきた狼が、虚空で一回転しながら地面に叩きつけられる。


残る三頭は円を描くように包囲を狭める。 そのうちの一頭がグレインに襲いかかるが、商人とは思えぬ重たい一撃が斧ごと頭蓋にめり込んだ。


「っ……まだ来るぞ!」


だが、アルフレッドの斜め後ろ―― その死角に一頭が入り込み、喉元へと跳びかかる。


「――《澪環》!」


その瞬間、水の輪がアルフレッドの背で弾けた。 透明な膜が狼の牙を受け止め、波紋を広げながらその勢いを殺す。


「助かった……!」


「また同じこと言わせないでね」


カナメは静かに言いながら、指先を走らせて術式を描き続けていた。


最後の一頭は、睨みを利かせるアルフレッドと水の残滓を見て逃走した。


ニオは荷車の傍らで震えていたが、トールグリムを落ち着かせながらその場を離れなかった。


「……動けないと思ったら、トールグリムが暴れないように押さえてただけでした」


「えらいな。どっちかってと、戦うよりよっぽど難しいぞ」


グレインが笑うと、ニオも小さく笑った。


夕暮れには、安全な小丘の野営地に辿り着いた。 焚火を囲み、簡素な食事をとる。


夜風が吹き抜ける中、彼らの静かな笑い声が草原に溶けていった。






三日目の朝は霧に包まれていた。 草原は白い靄に覆われ、視界が短くなっている。


「この時間帯は視界が効かない。慎重に行こう」


アルフレッドは先頭に立ち、常に地形と風の動きを確認する。 草の揺れ、靄の密度、風の跳ね―― そのすべてが、生き物の存在を物語る。


「ニオ、トールグリムの鼻先に集中。異変を感じたらすぐ知らせて」


「了解です。彼らの方が私より察知早いですから」


小一時間進んだところで、霧が晴れ始めた。 そこには浅く掘られた泥の跡と、砕けた獣骨が散っていた。


「……昨夜、何かがここで狩りをしてるな」


午後に入ると、またもワイルドウルフの群れが姿を見せる。 昨日より数は少ないが、動きが鋭くなっていた。


「……学習してる」


アルフレッドは気づく。 敵は真正面からではなく、後方と側面から同時に突こうとしていた。


「グレイン、前固定! カナメ、右から来る!」


「了解!」


「《澪環》、展開!」


右側面、草を割って現れた狼の爪が水の輪に阻まれる。 だがその隙を突いて、背後から別の一頭が跳ぶ。


アルフレッドは剣を横に走らせる。 だがギリギリの間合い、狼の前脚が彼の腕をかすめた。 血が飛び、剣を持つ手が少し揺れる。


「アルフレッド!」


カナメが声を上げ、術式の構成を急ぎながら彼を見つめる。


「……大丈夫。まだ切れる」


彼は剣を逆手に握り直し、無言で斬りかかる。 力任せではなく、精密で静かな一撃。 それは正確に、狼の頸を断ち切った。


戦闘はそれで終わった。 グレインが一頭を倒し、カナメが牽制し、アルフレッドが仕留める。 役割は自然に定まり、旅の隊列は、少しずつ“連携”を覚えていく。


その夜、アルフレッドはカナメに回復魔法をかけてもらった後に自分の腕に布を巻きながら、焚火の向こうで草を編むニオを見つめていた。


「……誰よりも、あの人が動かないのがすごいな」


「ああ。あれは勇気ってより、信じてるんだろうな」


カナメが火越しに言った。


「自分が戦えなくても、仲間が何とかするって」


焚き火の灯りが、小さく揺れていた。


草原の広がりは徐々に緩やかな起伏を見せはじめ、土の匂いの中に、かすかに湿った岩の気配が混じる。


明日には、山裾に入る。ガーヴ村はもう近い。


 


「……風、変わりましたね」


カナメが湯をすする手を止めて、ぽつりと呟く。


「草の香りが薄くなって、土と石の匂いに変わってきた感じがします」


 

「おうよ。ここから先は、だんだんと登りになる」


グレインが薪をくべながら応じた。


「小道は続いてるが、幅は狭くなるし、藪やら岩やらが増えてくる。荷車も、ゆっくり進まねぇとな」


 

「でも……明日の昼過ぎにはガーヴ村、ですよね?」


 

「たぶんな。よっぽどのことがなきゃ、な」


そう言って、グレインは荷を確認しながら、ちらりと周囲を見やる。


 

「この辺は道も分かれてねぇし、あまり襲われる場所じゃねぇが……なにせ、油断したときに限って来るんだ」


 

「……確かに。今日の午後、少し風の通りが気になった」


アルフレッドが火を見つめたまま呟く。


「鋭いってほどじゃないが、どこかこう……乾いてた」


 


「……気配の“薄さ”って、逆に気になるの」


カナメが小さく言う。


「獣も人も、あまり動いてないような空気。静かすぎると、逆に神経が立つ」



「そろそろ“抜け道”が近いからな」


グレインが唇を歪める。


「昔、抜け道を利用して商隊を襲った連中がいた。たいていは小物だが、そういうのほど、気配だけはやけに薄い」



「残りも気を引き締めて行こうね」


ニオはそう言って食器を片付けはじめる。


それぞれが、夜の準備を静かに整えていく。



「それでも、明日には着くんだな」


アルフレッドが空を見上げる。暮れかけの空に、淡い星が一つ、また一つと顔を覗かせていた。



「そうね。あと一日」


カナメもまた、星を見ながらそう答える。


「……けど、一日って、案外いろいろ起こるものよ」


火が小さくはぜた。


山の裾が、夜の中に輪郭を沈めていく。


けれどその先には、目的地――ガーヴ村が、もうすぐそこにあった。

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