1.1 風の鳴く街セレノア
笛の音が、どこか遠くで鳴っている。
その音で目を覚ました。
「……何の音だ?」
辺りはすでに明るく、人々の行き交う気配を感じる。
階下へ降りると、宿の主サラがカウンターの向こうでパンを切っていた。
「おはよう、よく眠れた?」
「うん。笛の音で目が覚めたよ」
「それなら上出来。この街じゃ、あの笛の音が朝の合図だからね」
皿の上に、焼きたての黒パンと豆のスープが並べられる。香草の香りが鼻をくすぐり、夜の名残を吹き払ってくれる。
「貴方、これからどうするんだい?」
「まだしばらく滞在するし、できれば動ける仕事が欲しいです」
パンを食べながらそう答える。
「なら、街の中心にある大風車の前に行ってごらん。そこで仕事を紹介してもらえるからさ。詳しい話は、向こうで聞くといいよ」
アルフレッドは頷き、スープを飲み干して腰の剣を確かめた。
「ありがとう。行ってみます」
そう言って立ち上がり、扉へと歩を進める。
「行ってらっしゃい」
女店主の活力ある声に背を押され、外の扉を開けた。
朝の空気はひんやりとしていて、けれどどこか心地よかった。
石畳の路地にはすでに人の姿があり、荷車を押す商人や、朝市に向かう住人たちの声があちらこちらから響いていた。
風が、どこからともなく吹き抜ける。
商店の屋根に仕込まれた小さな笛――“音呼”が、風を受けてひとつ、またひとつと優しく鳴り始める。
さきほど聞こえた笛の音は、これだった。
街全体が、少しずつ笛の音のオーケストラのように目覚めていく。
五つの区が風車の羽のように広がり、中央には巨大な風車と塔がそびえている。
それが、今日アルフレッドが向かう場所――**“大風車”**だ。
風を読み、風に乗せて人や物や言葉が行き交うこの街では、仕事の募集もまた“風紙”と呼ばれる紙に書かれ、毎朝張り出される。
その日の風に合った者が、それを受け取る。
だからこそ、人々は言う――「この街では、風に選ばれるのだ」と。
アルフレッドは風に撫でられるまま、大風車へ向けて歩き出した。
足取りは軽い。何かが始まりそうな、そんな予感がしていた。
街の中心。小高い丘の上に、一際大きな風車が据えられた建物がある。
改めて見ると――デケェなぁ、とぼんやり思いながら向かう。
“大風車”。
五つの区から延びる道が、この丘へと放射状に集まり、まるで風車の羽根のように街を形作っている。
風を受けて回る巨大な羽根が、空を切って軋む音を立てていた。
塔のように高い白石造りの建物。その土台に広がる円形の広場には、朝から人が集まり、賑わいを見せている。
ここはただの風車ではない。
評議会の詰所であり、区政の中枢であり、冒険者や旅人、傭兵たちが集まる仕事仲介の場でもある。
いわば、セレノアの心臓部だ。
戸籍の申請、通行許可の発行、住民登録、物資流通の調整、さらには討伐や護衛、輸送といった依頼の仲介まで――
この建物の中では、風のように日々、様々な情報と人が流れていく。
アルフレッドは、緩やかな石段を登りながら、そんな街の仕組みに思いを巡らせていた。
「街の要――かなめってわけか……」
丘の途中で立ち止まり、振り返る。
幟が風に揺れ、朝日を浴びた街が静かに目覚めていく。
風が通るたび、屋根に仕込まれた“音呼ねぶり”の笛が、かすかに鳴った。
丘の上に立つ者は、風の動きを感じ取れる――そう言われるのも、あながち誇張ではない。
やがて大風車の足元に辿り着き、建物の外壁に設けられた掲示板に目をやる。
紙が何枚も貼られており、風に揺れていた。
風紙ふうし――この街における依頼書である。
とはいえ、実際に見るのは初めてだ。
どれも旅人や傭兵らしき人々が、慣れた手つきで眺めていたが、自分は勝手がよく分からない。
――勝手に触っていいもんなんだろうか。
掲示板の前で少し間を置き、周囲の様子を盗み見る。
誰も注意する風でもない。むしろ次々と紙を剥がしては、係員に渡している。
「……ま、読んでみるくらいなら怒られはしないか」
そう呟いて、一枚に手を伸ばす。
『西門からガーヴ村往復の護衛依頼。
二人組の商人隊。荷車一台。食料、干し肉、香草等
報酬:銀貨十二枚。
集合:アストラ暦第137巡 第2風節11日・正刻
場所:セレノア西門・巡備所前
※風鐘区評議承認済』
――読める。書き方も、内容も、変に難しくはない。
紙の角に刻まれた印章が、何か特別な承認のしるしなのだろう。
「……これ、たぶん、普通のやつ……だよな?」
半信半疑のまま掲示板の脇に視線を向けると、ちょうど年配の係員が目を留めて声をかけてきた。
「その風紙を希望かい?」
「え? あ、はい……その、装備はありますし、移動と護衛の経験も……あるっちゃ、あるくらいには」
言いながら、自分でも少し不安になった。
こんな軽口でいいんだろうか。必要なのは身分証か、それとも推薦状とか……。
「ふむ。ちょうど片方が降りて空いていたところだ。条件は満たしてるな」
男は特に迷う様子もなく、確認の印を押すと風紙を剥がして手渡してきた。
「風紙を受けた者は、責任を持って果たすこと。それがこの街の流儀だ」
「…申し訳ない。その風紙とやらについて教えてもらえないですか?」
風紙を受け取ったはいいが、正直なところ、よく分かっていない。
アルフレッドの問いかけに、係員の男は少し目を丸くし、すぐに苦笑を浮かべた。
「そっちから聞いてくるとは珍しいな。大体の連中は、分かったふりして持ってくもんだ」
「……まあ、正直、初めてなんです。似たようなのを見たことはありますけど、本物は、こうして手に取るのは初めてで」
「なるほどね。いい心がけだよ。じゃあ、少しだけ教えてやろう」
男は掲示板を軽く指差す。
「まず、風紙ってのはこの街――セレノアで使われてる“依頼書”だ。旅人や冒険者、商人の手を借りるべく出される依頼がこうして貼り出される」
男は続ける。
「風は巡るだろ? どこかに留まらず、必要な場所に流れていく。依頼も同じさ。だから“風紙”って名がついてる」
なるほど、とアルフレッドは頷いた。
「紙の色には意味がある。たとえばお前のは“緑”だな。これは護衛の依頼を表してる。他にも討伐なら赤、調査は青、輸送は灰、特殊案件は金色だ」
「へぇ……じゃあ、この模様は?」
紙の縁に描かれた銀の二重線を指差すと、男は軽く顎をしゃくった。
「それは等級だ。風紙には“評価等級”ってのがあって、未経験者でもできる“ひとつ星”から、最大“五つ星”まである。お前のは“二つ星”だな。まあ、そこそこの経験があれば問題ない」
「そこそこの、経験……」
少し不安になってきた。が、男は気にする風もなく話を続ける。
「それから角の印章。これは依頼が区の評議会に正式承認された案件って意味だ。無認可の依頼も稀に出回るが、あれは風紙じゃなく“裏紙”って呼ばれてる。お前が今持ってるそれは、正規のものだ」
「正規の……なるほど」
アルフレッドはもう一度、風紙を見た。ざらついた感触。風に揺れることを前提に作られた独特の材質。
「それ、風羊紙って素材で作られてる。この辺りで取れる風羊の毛を混ぜた特製の和紙だ。破れにくいし、湿気にも強い」
「風羊……?」
「ま、あんたが世話になるとしたら、干し肉になる頃だな。セレノアの名産だ。エールによく合うぜ」
冗談めかした言葉に、アルフレッドも少し笑った。
「ありがたいです。助かりました」
「礼なんていいさ。風紙を持った以上、果たすのはあんたの責任よ。それがここの流儀だ。俺の名前はダン、あんたに風の加護があらんことを。」
もう一度そう言って、ダンは掲示板に視線を戻した。
アルフレッドは頭を下げると、紙を大事に懐へしまった。
風が吹く。
掲示板の紙がひらりと舞い、また誰かが足を止める。
風に乗って、誰かの手に届く紙。
それはただの依頼書ではなく、誰かが誰かに託す小さな願いの束だろう。
セレノア西門。旅の準備をする場所。通称巡備所の広場には、朝の光が差し込みはじめていた。
門の内側――石造りの壁に囲まれた巡備所では、旅人や衛兵、物売りたちがそれぞれに動き回っている。 荷をまとめる者、馬具を締め直す者、壁際で干し肉をかじる者。その中に、彼もいた。
アルフレッドは、懐の風紙をそっと確認してから、集合場所と記された“西門・巡備所前”に立った。 時刻はまだ正刻には早いが、既にそれらしき一団が荷車のそばで待機していた。
「……あんたがもう一人の護衛か?」
声をかけてきたのは、背の高いがっしりとした体格の男だった。肩には麻袋を括った縄の痕が残り、目元に陽の下で鍛えられた皺が深い。
「ラステル便のグレインだ。こっちは相棒のニオ」
グレインが顎で示すと、小柄な青年が片手を上げて微笑んだ。軽装で動きやすそうな服装だが、その足取りは静かで、観察力のある目をしている。
「アルフレッドです。風紙を受けて来ました。今日からよろしくお願いします」
「礼儀正しいな。最近じゃ珍しいくらいだ。今回の依頼、飯はこっち持ちだからなしっかり頼むぜ」
と、グレインが笑う。そのとき――
「……あの、もしかして、今回の護衛で来られた方ですか?」
後ろから、やわらかな声がかかった。
振り返ると、空色の外套をまとった人物が立っていた。中性的な顔立ちに、穏やかな眼差し。淡い髪が、そよぐ風に揺れている。
「はい。アルフレッドっていいます」
「ああ……よかった。私、カナメと申します。今回の護衛依頼で、先に風紙を受けていた者です。誰が来るのかわからなかったので……」
「こっちも同じですよ。よろしくお願いします」
「私は魔術師です。主に補助と防御が得意です」
「そっか。俺は剣士です。一応、前に立つ方は慣れてます」
二人は互いに会釈した。やや堅さの残る、形式的なやりとり。
それを見ていたニオが、ふっと笑って口を挟んだ。
「……真面目やね。なんか式典の挨拶みたい」
「もうちょいラフでいこうぜ。どうせ一緒に寝食を共にするんだ。息が詰まるのは長旅の敵だよ」
「そ、そうですね……たしかに」
アルフレッドが笑い、カナメも少し表情を緩めて頷いた。
「慣れていないもので…つい丁寧になりすぎました。……気をつけます」
「その調子で頼むよ、お二人さん。こっちはもうとっくに荷の積み込み終わってんだ」
グレインが荷車を引く馬のような草食獣"トールグリム"をく優しく撫でて呼びかける。
「風も良さそうだし、出発するには悪くねぇ日だ。行くぞ、ラステル便」
三人が並ぶと、まだぎこちないながらも、どこか空気が和らいでいた。
偶然に思える出会い。けれど、それは風紙が結んだ“巡り合わせ”。
アルフレッドは、懐の紙をそっと撫でながら思う。
――この旅は、たぶん、悪くない。