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-fortune-  作者: イチマル
プロローグ
1/11

0.始まりの夜


風吹く街道を、ひとりの男が歩いていた。


名はアルフレッド。

小さな村を出たばかりの、まだ若い旅人だった。


 


「なんとなく、そうしたいだけさ。

 村を出れば、何かが変わる気がした。」


そうとしか、彼は答えられなかった。


地図は持たず、目的地もない。

今日を選んだ理由は──空が晴れていたから。

ただ、それだけだった。


自由。だが無鉄砲。

彼はまだ、“選ぶ”ということの重さを知らない。


 


丘の上に立つと、

赤く燃える空と、まだ沈みきらぬ太陽が、世界を琥珀色に染めていた。


遠くに、小さな街が見える。

風が吹いて、アルフレッドの外套がはためく。


 

歩き慣れない道は、思っていたよりもずっと遠く感じた。


足元には石と砂利が混じり、ところどころ雑草が顔を出している。

けれど、彼は不満ひとつ言わなかった。


それが“旅”というものだと、なんとなく思っていたからだ。


 

ときどき、通りすがりの馬車や商人が彼を追い越していく。

彼は帽子を軽く持ち上げて挨拶を返すが、深く関わることはなかった。


風が吹くたびに、草がさざめき、何かの匂いが運ばれてくる。

遠くの野焼きの煙か、それとも誰かの家の夕飯か。

それを確かめるすべもなく、彼はただ歩き続けた。


 

背中に負った荷物は軽い。

けれど、その軽さが少しだけ心細く思えたのは、きっと日が傾いてきたせいだろう。


「あそこまで行けば、飯にありつけるか……?」


ぽつりと、誰にともなく呟く。

見えてきたのは、街を囲むように立つ木造の柵と、小さな門の影。


街の名前は知らない。

けれど、あの煙と灯りの群れは、明らかに“ひとつの場所”だった。


夕空はいつのまにか、藍色に近づいていた。

その中を、街の鐘の音がかすかに響いてくる。


足を止めたアルフレッドは、少しだけ深呼吸をした。


「……うん、今日はここまでだな」


そう言って、再び足を動かす。

風がひとつ吹いて、街の名前を、遠くからささやいた。



セレノア。

彼はまだ、それがどんな場所かも知らないまま、小さな門をくぐっていく。


宵の風が、街に柔らかく吹いていた。




空は茜から藍へと変わり始め、


石畳に伸びた家々の影が、ゆっくりと夜に溶けていく。



穏やかな空が続くこの街では、日が沈む前から静けさが満ちていた。


煙突から立ち上る白い煙、窓からこぼれる灯り、


どの家の食卓にも、きっと誰かが待つ温もりがある。





街の境の緩やかな坂を下りながら、


「とりあえず飯と寝床だな」と小さく呟いた。


目的地なんてない。計画もない。


あるのは、今日一日をどう締めくくるかという感覚だけ。




通りには、焼きたてのパンとなんとも食欲をそそる香りが漂っていた。


小さな食堂の前で立ち止まると、


店の中から笑い声と、誰かが鍋をかき混ぜる音が聞こえる。



腹が鳴る。


ついでに、少し背伸びをして看板を見上げる。


"トラリア"と描かれた文字は、手描きで少し傾いていた。




「……まあ、悪くなさそうだ」




重たい扉を押す。


その瞬間、温かな空気と、


どこか懐かしいシチューの匂いがアルフレッドを包み込んだ。

 


『カラン』とベルの音がする



「いらっしゃい。」



出迎えたのは栗色の髪をした女性だった。歳の頃は三十路を少し過ぎたくらいだろうか。派手さはないが、芯の通った女性という印象だった。



「ああ…えっと、飯と…できれば寝床を」



たどたどしく答えると店主らしき女性は笑って、



「どちらもあるわよ。まずはシチューでいいかしら?」



「飯は選べないんですか?」



「"選ばせない優しさ"ってものもあるのよ。」



少し面食らってしまった。



「…それ、ちょっとズルいね」



「ま、食べたら分かるわよ。私の自信作」



満面の笑み。



「じゃあそれとパンをよろしく」



「分かったわ、じゃああっちの席で少し待ってて」



窓際にあるテーブルを指差しそう言った。



アルフレッドは奥の窓際の席に腰を降ろした。


群青へと色を変えた空の元、鍛冶屋の打音と、露店の店じまいの声が通りを巡っている。



一つずつ灯る街灯が通りを照らしていき、遠くから鐘の音が響いた。



「おまたせ。シチューとパンよ。」



素朴な陶器の中にゴロゴロとした野菜と柔らかく煮込まれた肉が乳白色のスープに浮いている。


見た目よりもずっと豊かな香りが鼻に届くと、腹が食わせろと鳴り響いた。



「気に入って貰えそうね。」



軽くウインクをして女店主はその場を離れた。


パンを一切れちぎる。


表面は香ばしく、中はふわふわとして温かい。


それをシチューに浸して口に運ぶ。



野菜の甘みと煮込まれた肉の旨味、ほのかに香るハーブ。


がつんとくるわけじゃないのに、身体の奥からほどけていくような、そんな味だった。


「……うまいな」


思わず漏れたひと言。


その瞬間、何かがほどけたのか、フォークを置くのがもったいなくなった。


二口目、三口目と、あとはもう早かった。


パンをちぎり、スープをすくい、ただひたすら口へ運ぶ。


味わうというより、食べることそのものに夢中になっていた。


そうして、気づけば器も籠も空になっていた。


腹は満たされ、肩の力も抜けていた。


どこかふわふわと心地よく、でも眠いわけではない。




ふと、窓の外を見る。


群青だった空は、すでに夜の帳が下りていた。。


灯りの灯った通りに人影はまばらで、鐘の余韻だけが夜空に残っていた。



「……明日のことは、明日考えればいいか」



誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。



パンとスープだけの夕食。


けれど、今夜はそれだけで、もう十分だった。



「ずいぶんいい食べっぷりね」



声がして、アルフレッドは顔を上げた。


さっきの女店主が、空になった器を載せる盆を手に立っていた。


柔らかな声と、控えめな笑み。少し湯気の香りをまとっている気がした。


「……そんなに腹が減ってたんだな、俺」


頬をかきながら笑うと、彼女も少しだけ肩を揺らした。



「よく食べる人は好きよ。料理人としてね」


「じゃあ、俺は合格ですか?」


「合格どころか、満点よ」


言ってから、ふと思い出したようにアルフレッドを見た。




「そういえば、まだ名前を名乗ってなかったわね。私はサラ。この店、“トラリア”をひとりで切り盛りしてるの」



「へぇ、サラ。……ありがとうございます、飯美味かったです。」


「ありがとう。あなたは?」


「アルフレッド。通りすがりの、なんの取り柄もない旅人です」



「旅人ね。なら、寝床もいるわよね。上の階、空いてるから案内するわ」


サラは盆をカウンターに置いて、ふわりと身を返す。



「こっちよ。重い荷物は置いていっていいから」



「いや、大したもんは持ってないよ。身軽なもんで」



二人は並んで階段を上がっていく。


足音が木の床に心地よく響き、上の廊下に灯るオレンジ色のランプが、夜の静けさを際立たせていた。


二階の廊下は細く、板張りの床が時折きしむ。


サラの後ろをついていくと、端の方にある部屋の前で彼女が立ち止まった。



「ここよ。鍵はないけど、泥棒なんてこの辺にはいないから安心して」



そう言って扉を開けると、ランプの灯りがゆらりと部屋を照らした。


簡素な木のベッドと、小さな机と椅子。窓のカーテンは風に揺れていた。


部屋の隅には、水差しとタオルが置かれている。


特別なものは何もないけれど、それが逆に心地よかった。



「足音が下に響きやすいから、あんまりドタバタしないでね」



「了解。爆睡するから、たぶん静かだと思います」



「じゃあ、ゆっくり休んで。おやすみ、アルフレッド」



サラは軽く手を振って、扉を閉めた。



アルフレッドは荷物を椅子に置き、外套を脱いで壁のフックにかける。


部屋を見回して、ひとつ息を吐いた。



「……ふぅ、ようやく落ち着いた」



ベッドに腰を下ろすと、わずかに軋む音がした。


それがなんだか耳に心地よく、彼は靴を脱いでそのまま横になる。



天井を見上げる。


何もない。けれど、何もないことが、今夜はちょうどよかった。



「……明日からの食い扶持稼がねぇとな」



誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。



でもすぐに、考えるのをやめた。



窓の外から風が、静かにカーテンを揺らしていた。


その音を聞きながら、アルフレッドはまぶたを閉じた。




夜が、静かに深く、彼を包んでいった







そして彼は、まだ知らない。


この旅が、


やがて運命の火を巡る旅となることを──

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