第六十七話 そして勝利さえも
「さ〜てサてさてさてサてさてえ? 万策尽きたかな〜?」
もし【融滅】ならば、あと五、六個の策は最低限用意しているのだが……飛燕狭霧はどうだろうか。無茶な訓練+なんらかの仕掛けをしているということ以外の情報がない。
Evil angelがいる。呼吸器を防護した【融滅】自身と不死の軍勢はいくらでもいる。いくら事前情報があろうと、飛燕が【融滅】を殺す為だけに用意したものがあろうと……全戦力を向けられて、【融滅】に勝てる者はそういない。
ましてやそれが、レギンレイヴの中で最も新入りであり、戦闘に重きを置き始めて時間の経っていない小娘であれば。
「ナら、アチシがすルことはもう決まッてるな〜」
かろうじてくないを構えたまま静止する飛燕を見つめ、試合を監視しているアンタレスの端末に手を振る。黄燐他運営側の人間が見ているはずだ。確か、声も届くのだったか?
試合における殺害を許可する……というルールは、何故存在しているのか。それは、二つ目の名を持つ者と戦う人間はそのぐらいの気でかからねば傷一つ付けられない可能性が高いから。だがそれは、限りのない諸刃の剣である。
殺されることもある。飛燕狭霧は死ぬ……誰もが、そう、
「黄燐〜? アチシリタイアで。飛燕ちゃんの勝ち〜!」
思っていた。
確かに【融滅】的に、飛燕は強化素材として最適だ。まだ実用的ではない、Evil angelの自立判断機構が完成に近付くだろう。だが、それ以上に優先したいことがあった。
それは、飛燕狭霧を苦しめること。レギンレイヴの人間を鏖殺しただけでは生ぬるい……もっと、強い絶望を。
「アチシはソもそも、最上第九席第一席なンて微塵も興味はなイんだよ……ただ、君と戦っテ、そして!」
ソレは悪魔である。人の不幸を喜び、死を愉悦とし、生ある全てを嘲笑う悪の権化。その怪物にとって勝敗など、至極どうでもいい番外の結果。求めるものは、ただ一つ。
絶望を。目で耳で鼻で頭で手足で感じられる、ありとあらゆる絶望をこそ望んでいる。そして、その目的のために勝利や敗北といった……誰もが掴み取ろうとするものさえ、利用する。今回に限ってはまあ、違うのかもしれないが。
ならば、手にさせてやることにしよう。最も欲しいものが手に入れられず、いらないものだけ手に入る……
復讐云々と言って拗らせるようなクソガキには、これだけの嫌がらせでも効くものだ。そしてそういう奴に限って、感情を変に昇華させて“絶望”だとか宣う……
最っっっっっっ高に、気分がいい。
「君のその顔ヲ、見てみたカっただケなんだ……」
第一試合。勝者、飛燕狭霧。
――――――
通じなかった、何もかも。
甘かったのだ。セレムならどうするか、カイムならどうしていたのか……そんな考えが浮かんでは消え浮かんでは消え、脳の奥底を焦がしていく。なんて屈辱だろうか。
一度苦しめて、絶望させて……それ故に積み重ねた全てを軽くあしらうように粉々にする。こんな、ことが。
(流石の俺もどう声かけたらいいかわからんな……)
エスティオン基地から出発した回収用の車の中。悠々とEvil angelで帰った【融滅】は放置するとして、衝動に駆られて車に飛び乗った軌光は、思った以上に暗い雰囲気を醸し出しながら何も言わない飛燕に困り果てていた。
何か言ってやらねばならないと思った。人間の、そういう細かい感情の機微はよくわからないが……今の飛燕を放置してはならないと、軌光の中の何かが叫んでいた。
勝利を讃えるべきではない。それは分かる。だが慰めも違う。こういう時、なんて声をかければ……
「軌光殿は」
視線が宙を泳いでいると、ふと飛燕の声が聞こえた。気を利かせた運転手が、運転席と後部座席の間に遮音性の高い仕切りを立てる。単に、気まず過ぎるだけかもしれないが。
「悔しくて、悲しくて、憎くて、耐えきれなくて。【融滅】を、あの怪物を苦しめて、殺してやりたいと思いませんか」
「そりゃ……思うよ。俺もセレムたちは好きだった」
「そう、ですよね……あの、ごめんなさい。殺せなくて」
視線が、飛燕の横顔に固定された。その言葉にあまりに元気がなかったことと、そして……何に対して謝っているのかが分からなかった。何故、謝っているのかも。
憎いのは飛燕だ。誰より恨む権利があるのは飛燕だ。軌光にあるその感情には、たった一時よくしてくれた人たちのことを想う以上の権利はない。寧ろ、何もしてやれなかったと謝るべきは……軌光だというのに、何故飛燕は。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
ああ、そうか。
頬を伝い、落ちていく涙。たっと跳ねる水滴。
どうしようもなく、悔しいのだ。無力なことに、耐えられないのだ。本当は今すぐにでも【融滅】を殺したい、けれどその力がないことを……思い知って、しまったから。
そして、勝ってしまった。為す術もなく負けたのに、試合というフィールドで勝ってしまった。心を掻き乱すぐちゃぐちゃの状況が、感情が、入り乱れているのだ。今の飛燕の心の内を表現する言葉は……きっと、この世界にはない。
だから、焔緋軌光に出来ることは。
「んえ……」
「とりあえず、泣け。その後……色々、聞くから」
最初は声を堪えていたけれど、段々と。
漏れ出るように、溢れ出るように……そして、この感情の全てを、軌光の胸板に押し付けるように。声を張り上げる。
その小さな頭を、自身の胸板に押し付ける。がっしりとした軌光を強く、強く抱き締めて涙を流す飛燕を、どこまでも優しく抱きしめる。そっと添えた手を、ゆっくりと動かす。
余計な部外者の涙が、邪魔をしてしまわないように。
「ひっ……う、ぐう、ううええええ……」
「泣いていいんだ、おまえは……謝らなくて、いいんだ……」
ガタゴトと揺れる車の音が、いつまでも耳に残った。




