第百十七話 騎士道精神
「メイドの仕事って逃げられましたクソッ!」
珍しく口の悪い綺楼を尻目に、軌光はアルウェンティアの私有鍛錬場について行っていた。移動中に売った喧嘩を、アルウェンティアはしっかりと買っているのだ。
一歩踏み入れて、普段アルウェンティアが武器としている旗を振っている光景を見た。そこで軌光の心の内に湧き上がってきた感情は、戦意でもなんでもなく……
まず、感嘆だった。
「なんだよ……なんだよ、なんだよすげえじゃん!」
いつ来てもいい、という許可は既に取っている。
アルウェンティアが武器として使用する、“旗”。それは象徴であったり、前線の士気向上だったりに用いられるものであったり、とにかく戦闘で使うようなものではない。
しかし、それを振るうアルウェンティアの姿はどうだ。戦場の戦女神とは、正にこういうことを言うのだろう。
今までに見たどんな動きよりも洗練されて、美しい。飛び散る汗の一つ一つまでもが輝いていて、体全体を見ても無駄な部分が何一つない。とことん美しさを極めた動き。
「ん……来ていたのか。済まない、気付かなかった。すぐに着替える……もう少しだけ、待っていてくれ」
先端部分が刃になっている、一応は戦闘における殺傷を意識したデザインの旗。それでも、重い布を振り回すことによる空気抵抗や、武器としての違和感は存在するだろう。
それを無視した上で、あの軌光が美しいと思ったのだ。原因が極めてどうでもいいものだとしても、湧き上がっていた敵意を塗り潰して、感嘆が最初に訪れた感情なのだ。
(ただの煽りクソ野郎じゃなかったんだな……)
「元から煽ってなどいない。私の発言を勝手に挑発だと判断して喧嘩を吹っかけてきたのは貴様だろう、焔緋軌光」
「よく顔に出るって言われるのこういうことね」
いつもの白銀の鎧に着替えたアルウェンティアが、ブンブンと片手で旗を振りながら姿を現した。かなり身長の高い彼女の身の丈よりも大きな旗だ。重量も中々のもののはず。
膂力において、軌光と同レベルか。そこに、先程の洗練された技術が加わる……果たして、勝負になるのかどうか。
「ルールを決めておく。私も、仕事があるのでな。互いの状態に関係なく、五分経過で終了だ。気絶、部位欠損を強制停止の条件とする。それ以外は……貴様が決めるといい」
「いんや、それでいいよ……始めようぜ」
剛腕神器、顕現。日々の地道の訓練により、その力は更に強大なものになっていた。最早リィカネルでは及ばぬ。
しかし。アルウェンティアには。
「フンッ!」
神経の裏で、瞬く光があったような気がした。視界から得た情報を、脳が理解するより先に……脊髄が反射する。決して当たってはならない。そう、本能が告げた。
仰け反る。異常極まる踏み込みの速度。何段階もの進化を遂げたはずの剛腕神器を装備して尚、脳が追いつかない。
「危ねぇな……っと、よ!」
剛腕を肩から背中に向けて生やし、逸らした体の勢いそのままに倒れ込む。突いた旗をそのまま下方にズラすアルウェンティアの腹に、全力のアッパーを叩き込んだ。
(生やした腕を支えにして、元の腕による攻撃……! 肉体変化系神器の練度は、キャッツすら上回るか!)
純白の鎧が凹んだ。ドールハウス監修、+5の作り出した最硬度合金を加工した鎧が……この鎧が、凹むなど。
アルウェンティアをもってして、肉体変化系と肉体強化系を兼ねる神器は初めてだった。それも、ここまで強力に使いこなすなど……元の相性が、おぞましいほどに良い。
(想定より早く……決着をつける必要があるか)
鎧の向こう側、アルウェンティアの肉体にまでアッパーの衝撃は通った。しかし、彼女の精神性は鋼の如く。全力で踏みとどまり、根性のみで旗を振り下ろして見せた。
「ちょいちょいちょいちょいちょい!」
今度は逆に、背中に向けて生えた剛腕を消去することによる自由落下で躱した。頭の数ミリ上方に旗の先端が突き刺さり、パラパラと何本かの髪が落ちる。死ぬ。
ブリッジの要領で跳ね起きながら、旗を握るアルウェンティアの右肩に足を回す。体から数本の剛腕を生やし、回転をかけながら捻じ切る。脱臼か骨折か……なんにせよ、旗は
「考えが足りないようだ。何故私が片手で旗を振るのか?」
反対の……左腕が、軌光の腰を掴んだ。エスティオンの戦闘用隊服には、ベルトを通す穴が存在している。
苛烈な戦闘がデフォルトである軌光は、サイズを少し小さめにして、ベルトを通さないようにして着用している。鎧に包まれたアルウェンティアの指が、そこを通った。
「掲げ……敵を仕留めるためだ!」
天高く軌光を放り投げ、アルウェンティアも跳躍。旗の切っ先を向けて、凄まじい勢いで突き出した。
あまりの怪力に驚愕しながら、防御用の巨大な剛腕を空中に出現させる。しかし、そんな中途半端な状態で出した剛腕に大した耐久力があるはずもなく……容易く貫かれる。
(やっべ)
最初に、敬意を覚えたことが。感嘆を胸に抱き、尊敬の念を抱いてしまったことが……敗因に、繋がった。
アルウェンティアに本気の敵意を向けることが出来ない。罪悪感すら覚える。いつもの動きが出来ない……死
「……と、戦場なら言っているところだぞ」
分厚い旗の布が、落下する軌光の体を包み込んだ。
「技と……何より心を磨け。まだ……童だ」
目をパチクリさせる軌光を放り投げ、アルウェンティアは歩き出した。久方ぶりの……完膚なきまでの敗北だった。