セカイの芳香
楠木ミノル。
それが僕がここにやってきた時、自分で自分に名付けたこの世界での名前だ。
国王であった父や母には頼らず自分の力で繋げた扉の先に、あまりに雄大なクスノキがそびえ立っていたから迷うこともなかった。
それはこの島国の南にある神様の領域、後で知るところの神社の境内に鎮座していた。6人姉弟の末っ子とはいえ、武運の神と豊穣の女神から産まれた僕と親和性が高かったのだろう。
樹齢1500年を超えようかとしている大クスノキは、この世界にやってきた異分子である僕のことを受け入れ歓迎してくるように常緑を広げていた。と同時に、彼もまたこの世界にとっては神々の一柱でしかないことをぼんやりと理解した。
その名を借りることがごく自然なことに思えたので、鳥居をくぐるると真っ先に向かった異世界庁での手続きを終えた時僕は、この世界への留学生の一人"楠木稔"となったのであった。
私は君とは違って留学生じゃないの。亡命者なの。私達は、ね。
学園で多分一番有名人な彼女は言った。
目が覚めるほど鮮やかで華やかな天使の唇から零れるにはあまりに似合わない言葉。
それでも驚くことはなかった。想像よりもずっと異世界人も異世界人の子孫も溢れ切って共生しているこの世界で、みんながみんな僕のようなのほほんとした気持ちでここにいる訳じゃないということはもう解っている。留学から永住登録への切り替えは年々右肩上がりで、彼女たちの様な者からしたらこの世界は楽園なのだろう。
僕も最初の一年は拠点をこの国としつつ世界中を回った。いろんなものを見て、いろんな人や人じゃないものに出会って、いろんなことを知った。王宮での暮らしがうんと懐かしいものに思えるほど沢山の経験をした。そして、最初の予感通りこの国に戻ってきた。
春の風にあそばれて桃色の髪が舞い踊る。ふわふわと、ゆらゆらと、流れる隙間から覗く瞳はこちらを捉えてはいない。独り言の様に彼女は呟く。
「私には護るものがあったから強くも優しくもあれたけれど、あの子はちっぽけな身体一つで放り出されたようなものだから、心の奥底にある最後の隙間が埋められずにいたんだと思うの。気付いてくれてありがとう」
「偶然だったんだよ」
僕も彼女から目を逸らし独り言みたいに呟く。器用で不器用なあたりがよく似ているなと思った。
「小さな違和感に気付いてなんとなく伝えた言葉に、激しい色を返してきた事に驚いて罪悪感すら残った。でもその後の彼女が何よりも格好良かったんだ。あの瞳の色は、多分生涯忘れない」
これがどんな名前の感情なのかまだはっきり決めたくなかった。それは僕の生まれて初めてのわがままかもしれない。
「世界よりも肉親を選んだ天使がいて、世界のために消滅を選んだ妖精がいて、社会見学気分で観光しにきた王子様がいる。こんな世界、都合が良すぎて笑っちゃうわね」
「極め付けに、嘘がつけない悪魔がいるんだから」
そして僕たちは初めてお互いの目を見て笑った。
空はどこまでも青く、優しくそこにあった。