プロローグ
トントントントン、軽やかな音がキッチンに響く。
家主が滅多に食事を取らないため数年前までは存在を忘れ去られ放置されていたこの場所は、今では一般家庭で使うものより少し低い調理台が置かれていた。調理台の主人である少女は朝昼晩ほぼここで食事を作り続けている。彼女が料理をするために設られたために彼女の身長に合わせて一般のキッチンよりも低く作られている。
もっとも、そろそろ成長期であるのでもう少し身長が伸びればそれに合わせて家主が作り直してくれるだろうが。
寒い冬の朝晩には必ずスープが作られる。今日もまた、窓際によれば息が白くなるような、そんな寒い日であった。
――今日のご飯はトーストと、カリカリに焼いたベーコンと豆のサラダに、昨日のポトフのあまりはトマトを入れてミネストローネ風にしてみよう。トマトの酸味のおかげで朝でもたれることなく食べられるはずだ。
昼はバザールに行くというのでそちらで取ることにして、良い品があればそれを夜のメインに据えようと思う。新鮮な卵が手に入るので、明日の朝はトロトロのスクランブルエッグでもいいかもしれない。
調理がしやすいように髪を後ろで纏めている少女、レナエステは包丁を握っていた手をお玉に持ち替えて、鍋が焦げ付かないようにかき混ぜるながら考えた。
味を調整しようと振りかけた胡椒がもう少しでなくなるそうなことを思い出し、バザールで買い足さねばと頭の中にメモをする。塩や砂糖はどうにかなるが、ハーブやスパイス類が切れるのは彼女の中では由々しき事態であるので、出発する前に在庫を再度確認しようと心に決める。
そのあとはベーコンをカリカリにするためにフライパンを見張ったり、また鍋をかき混ぜたりと忙しなく動きなっている。
次はサラダだ。ちぎったレタスをボウルに敷き、角切りにしたきゅうりと数種類の豆をドレッシングで和えたものを盛り付けていく。本来なら冬に新鮮な葉物野菜は貴重なのだが、彼女の持つ能力によって年中食べられるようにしてある。本来なら旬のものを旬の時期に食べるのがもちろん良いのであるが、できればサラダは色々な種類を食べたいので。基本的に世界情勢や豊作不作の状況を見るために他の季節はバザールで野菜を買うことが多いが、冬の季節はそう言ったこともありズルをしている。
ようやっと納得いくカリカリ加減になったベーコンを見、満足げに笑う。
レナエステにとって、朝食の出来が1日の良し悪しの判断基準のひとつになっている。美味しくできれば良い1日になると確信できるし、少し納得できない…となればもっと精進せねばとなるのである。
「エヴェノスさま、朝食ができました!」
彼女はそう言って新緑の瞳を輝かせ、自身を見つめる家主である魔法使いの男――エヴェノスに話しかけた。
そうして豆のサラダの入ったボウルを食事テーブルに置き、カトラリーを並べていく。
食事の準備をしている姿を時たま見つめながら読書をしていた男はその声に頷き、揃いの食器が並んだ棚から食器を選び並べ始める。そして選んだ器に魔法を使いできた食事を盛り付けていく。宙に浮かぶベーコンとトースト。瞬きの間にスープカップには熱々のミネストローネが満たされている。
「今日もありがとうございます。」
「ああ。」
少女が食事を作り、男が器に盛り付ける。どうしても所用で一緒に取れない日でも朝昼夜のどれかで必ず一緒に食事をとり、今日の予定やあったことを話し合うこと。そうすることが一緒に暮らし始めてからの2人の当たり前の日常であった。
手足を動かすかの如く簡単に不思議な現象を起こす、『魔法』と呼ばれる力を持つエヴェノスは1日のほとんどを読書に費やす。そのうちの気が向いた時にレナエステに魔法の術式や魔物の生態、魔力の宿る石や植物などを教えてくれる。
その代わりにレナエステは普通の人間の生活というものを全く知らずに生きてきた彼に、自分が知る限りの人の営みというものを伝える。
力ある魔法使いである彼は、その莫大な能力や知識に反して生活感が全くなかった。――生命体としての営みが壊滅的であったのである。
特にすごかったのは食事の面だ。
魔法使いとて人間。食事をしなければエネルギー不足で弱ってしまうので、普通の魔法使いであれば一般人と変わらず食事をとる。食事の内容が一般人と違う者も稀にいたりはするが、それでも嗜好品としてでも食べると言う行為を行う者ばかりだ。
しかし出会った当初彼は食事をエネルギー補給の面において非効率的であるとし、他の物質からエネルギーを補給する代替魔法によって賄っていた。後に彼の兄弟弟子から理論としては可能だが流石にそれは人間というか、生物としてどうなんだと思った先達たちがしてこなかったことを、何の抵抗もなくしてしまったと聞いた時は、衝撃で倒れるかと思ったが。
それでも彼は変わった。――レナエステが教えたのだ。『食事』とはエネルギー補給のみが意味ではないと。
何を言わずとも食卓の準備をしてくれるようになった彼を見ながら、いつも胸の奥底が熱くなるような気持ちを持つ。当初ここにきたばかりの自分が見たら驚愕するに違いない姿だ。
彼女は常々思う。食育は偉大だ、と。
この数年、少しずつ彼女が教え積み重ねてきたものは、確かに彼の中に根付いている。
食事をテーブルへと準備し終えた二人は椅子へと座り手を合わせる。
「「いただきます。」」
そうして今日も、ふたりの1日ははじまるのである。




