その芋が全国に普及するまで
時は西暦1732年、享保17年――八代将軍・徳川吉宗の治世で、その飢饉は発生した。後の世にて『享保の大飢饉』と呼ばれる危機である。
「吉宗様! 大変です! 各所で害虫が大発生し……さらに冷夏な事も相まって、今年の稲作は……」
当時の農業を担当する侍が、恐る恐る書面を差し出す。今年の米の出来高の目録だが、見る見るうちに将軍は青ざめた。予測の時点で、相当に悪い。それも一部地域のみならず、国のいたるところで凶作の予想だ。
「な、何たることだ……今年は全国の年貢を下げるよう、各所の大名に触れを出せ!」
「し、しかしどこまで従うでしょうか……」
「なら……指示に従った大名に、国庫から金を補填せよ! 他にも備蓄の穀物はすべて解放! あと出来ることは……長崎の出島で、ありったけの食料をオランダと中国から買い付けろ!」
「ですが出費が……それに、あれは緊急の備蓄で」
「今、この国が危機ではないと? ここで使わずして何時使う!」
八代将軍・徳川吉宗――彼は本来であれば、将軍職に就くはずが無かった。ただ、本筋の将軍家、徳川家の血筋にふさわしい人物がいなくなってしまい、遠縁から引っ張られた田舎侍……それが徳川吉宗である。
しかし――彼は徳川幕府の中でも、かなりの名君として知られている。この飢饉への対応も、その一つだろう。
「か、かしこまりました! これでどうにか――」
「……いや、恐らく犠牲は避けられまい。救える民は救いたいが、こうも各所で凶作続きでは……全員を救済するのは不可能であろう。誰もが飢えに苦しめば、野盗に身をやつし、運送中の食物を奪う者も現れよう。厳罰を布いたとて、空腹に抗うのは難しいものだ」
将軍職に就いた徳川吉宗は、その後も質素な食生活を続けている。田舎侍時代に、空腹に悩まされた事もあるのだろう。沈痛な面持ちの中に、現実を知った男の顔がある。彼は次の手を考えていた。
「食物を運ぶ際は、警戒を厳とするよう伝えよ。それと……今後の国策について、やはりもう一度考え直す必要がある」
「と、申しますと?」
「今回の飢饉は……稲作に偏った農耕政策にも問題がある」
「な、何を仰います! 米の無い生活など考えられませぬ!」
「稲作をすべてやめよ、とは言わぬ。私だって米は食いたい。ただ、食を米だけに頼るのは危険だと、今回の飢饉で理解できただろう? 米が不作になった途端、国がこの有様では困る。備蓄にも限度はあるし、国外から買い付ければ足元を見られるだろう」
「な、なるほど。確かにその通りですな……」
主食たる米は、日本人の魂の食。しかしそればかりに頼れば、米の病や害虫が流行った時、大打撃を被ってしまう。それを経験した以上、学習し、対策し、備える必要がある。八代将軍・徳川吉宗は……米とは別に、新たな食を担う作物を求めているのだ。
配下の将は頷くが、同時に疑問を呈した。
「ですが……何の栽培を推奨いたしましょうか? カブやダイコン、小松菜や大豆を?」
「もちろんそれらも重要だが、現状で足りておらぬ。何か……何か新しい作物を探し、栽培を推奨したい。それらとは別に、民を救済し得る作物を」
「うぅむ……」
将軍の言い分は理解できる。
確かに……今までも他の作物も栽培しているが、それで食料が足りないから飢饉が起きているのだ。
当時の日本は、肉食文化もあまり浸透していない。野生動物を狩る方法もあるが、餓えた状態で成功率を上げるのは難しい。ならば魚を取ればいい? 馬鹿な。それにしたって、安定して食料を供給できる方法ではない。イナゴやハチのコなど、食用にできる虫もいなくはないが……焼け石に水だろう。
やはり農耕。安定した農業こそ食の基盤。そして既存の作物では不足するなら、新たな農作物を探すしかない。理解を示しつつも、配下の将は問わずにいられなかった。
「ですが……すぐに見つけられるでしょうか。こうしている間も、民は……」
餓えに苦しめられ、死んでいく現実がある。今すぐに打てる手には限界があり、将軍はそれを既知していた。
「……難しい、だろうな。こちらも最善は尽くすが、犠牲は避けられまい。仮に都合の良い作物を見つけたとて、全国に栽培を推奨し、苗を配り、普及するまでは……どうしても時間が必要だ」
「……………………」
「だが……ここで学び、備えれば、次の飢饉を乗り越えられるやもしれぬ。この災害を、この犠牲を、我々は無駄にしてはならぬ。彼らの死をただの悲劇、ただの無価値にしてはならぬのだ」
「そう……ですな」
彼らの予想は当たっている。
この享保の大飢饉にて、全国の餓死者は一万を超えたとされている。思ったより死んでいない……と感じるかもしれないが、この認識は甘い。
あくまでこれは『江戸幕府が集計し、記録された死者数』に過ぎない。恐らくは……老人や子供を山に捨てる『姥捨て』が、各所で起きていた事は想像に難しくない。さらに『死ななかった』だけで……生き延びはしたものの、多くの人々が餓えや栄養失調に苦しんだ事は、間違いないだろう。
それを繰り返さないために……徳川吉宗は、この情報さえ生かした。
「今回の飢饉での死者を、地域ごとに集計させよ」
「……慰霊碑を建てるのですか」
「それも必要かもしれぬが……本命は異なる。『餓死者の少ない地域』を見つけ出すのが狙いだ。
今、日本全土で飢饉が起きている。その中で死者の少ない地方には、食物に余裕があると言うことだ。個人ではなく、地域として」
「それは、つまり――」
「飢えを凌げる『何か』……つまり我らが求める『作物』が、地域に根を張っているのやもしれぬ。そうでなくても、空腹を凌ぐ何かがあるに違いない。犠牲が出るのは心苦しいが……」
「やりましょう、吉宗様。我らの行動が、未来の民を救うと信じて」
こうして――八代将軍及び、享保の江戸幕府は、飢饉での死者を集計した。あまねく屍に心を痛めながら、彼らは『その地域』を炙り出す事に成功したのである……
「薩摩の餓死者が少ないな……この地域に何か」
「はい。実は……この地域では『サツマイモ』なる作物の栽培を推奨しているようです」
「サツマイモ……聞いた事が無いな」
「私も初めて耳にしました。実は知人の伝手の伝手で、この『サツマイモ』について調べ上げている者がいるのです。半分浪人のような男ですが、情熱は本物。真摯に研究を進めているようです」
「会えるか?」
「直接お会いするのは……ですが、吉宗様の心意気に胸を打たれたようです。私の知人に思いを伝えた所、すぐに一冊本を書き上げました。いかがなさいますか?」
「おぉ……! ありがたい! すぐ持ってまいれ!」
「はっ! ただちに!!」
かくして献上された書物には……『サツマイモ』について、よく纏められていた。素人の吉宗にも分かりやすいが、農民に普及するための問題点を指摘する。
「うぅむ、知れば知るほど素晴らしい作物だ。栽培上の注意点も分かりやすい。すぐに種イモを用意し、民に苗を配るよう手配を進めたい。が」
「何か問題が? 書物を複製すれば、すぐに手法も伝わりましょう?」
「それが……伝わらない可能性がある。民の中には字を読めぬ者もいる。ひらがなは何とか読めても、漢字までは難しい。まだ作付けの五月まで時間はある。それまでに……」
「承知致しました。本の内容をひらがなに改めさせます!」
「手間だが……頼むぞ」
「はっ!」
かくして、その作物……『サツマイモ』の苗は、関東を中心に栽培が始まる。
ひらがなの振られた指導書を手に、農民たちは空き地を耕し、植え込みの準備を始めた。
時期は五月。田植えを終え、春野菜の収穫を終え、当時の農家はコメの様子を見つつ、内職に励むシーズンだ。ここでお触れを受け、サツマイモの栽培を推奨された、各所の農民たちの様子を見てみよう。
「これが『サツマイモ』の苗だべか……」
「はぇ~……芋一つから十本ぐらい取れるのかぁ……」
「これなら、余裕をもって皆に配れるなぁ」
「んじゃ元肥を撒いておくべ?」
『サツマイモ』の栽培は……直接イモを植えてもいいが、イモを水につけて芽を出し、それを切り取って植えると効率が良い。一つのイモから十ほどの苗を取ることが出来るので、十個の種イモで百の苗を生み出せるのだ。
芋は土の中で育つ物。丹念に畑を耕し、地面の中から石などを取り除く。余裕があれば水牛も使いたいが、あいにく凶作で余裕がない。人の手で耕された畑に、肥料を撒こうとした所で本を持った男が注意した。
「あまり肥料を畑に撒き過ぎないように!」
「村長? どういうことです?」
「この書物によると……サツマイモは『肥料をやり過ぎると、かえって芋が育ちにくくなる』らしいのだ。日当たりが良く、水はけが良ければ育てられるらしい」
「えっ……肥料がいらない!?」
「うむ……他の作物に回せるのはありがたいのぉ……」
サツマイモの特徴だ。『肥料がほとんどいらず、むしろやり過ぎると芋の出来が悪くなる』特性を持っている。植え付けを終えた後も、作物によっては追肥……肥料の追加が必要になるが、サツマイモはこの追肥も少なくていい。つまり――
「こりゃいいべ……肥え貯めも備蓄が少ないし、本当にいい作物だなぁ」
江戸時代、人のクソを発酵させて肥料としていたが、これは逆に言えば『飢饉の時は肥料を得られない』事を意味する。多くの人が食事にありつけない飢えでは、出す物も少なくなってしまうからだ。江戸の町の人糞は、栄養価が高く人気があったそうだが……やはり飢饉となれば、クソの中の栄養素も落ちている。そんな中で『肥料がいらない作物』は、農家目線では大変ありがたい。
「害虫はどうだべ? 全くいないって訳じゃ……」
「うむ……病気も害虫もいないわけではない。しかしサツマイモは比較的強い方らしいの。注意すべきはヨトウムシぐらいかのぉ?」
「あぁ、夜行性のアイツか……」
これは諸説あるが……サツマイモの病害、害虫被害は少ないとされている。これは他の作物と、病気や害虫の共有が少ないから……との説がある。他の作物が致命的な病害虫に犯されても、サツマイモだけは被害を逃れる事もある。
例外はヨトウムシ系統だろうか。食害する植物の範囲が広く、おまけに食欲旺盛の蛾の幼虫だ。何より最悪なのは『夜行性』であり、昼間に畑を見に行き、葉っぱを喰われた跡があるのに犯人がいない……一時の気のせいかと放置すると、一週間後には作物がボロボロにされている。今も昔も変わらない、農家の天敵たる害虫の一種である。
「収穫は10月ごろ……秋口だべ」
「ふぅむ、時間はそこそこかかるだなぁ」
「それまで手入れは? 稲みたいに結構な手間が――」
「雑草を毟ったり、ヨトウムシや他の虫がついていないか、たまに見るぐらいで良いらしい。水もやり過ぎると良くないから、乾いていたり、葉がぐったりしている時ぐらいだけで良いそうじゃ」
「手間いらずだべ!」
『サツマイモ』は、信じられないぐらい手間がかからない。
肥料は少なくていい、水も少なくていい。害虫や病気も少ないので、神経質にならなくていい。環境をある程度整えれば、ほっといても育ってくれる。
米作に時間を取られる農民にも優しい、片手間で育てられるような野菜だ。十分な土地と日当たり、そして適した温度があれば、簡単にサツマイモは生育する。
農民たちは半分放置するような形だったが、初めてのサツマイモ栽培を成功させた。させてしまった。今回は時間を進めて、収穫期の十月まで飛ばすとしよう。
「うひょーっ! 丸々太った芋だべぇ!」
「結構取れたなぁ……肥やしもほとんどやってないのに」
「うわぁ、オイラの所はかじられてる……犯人誰だ?」
「歯形を見ると……イノシシやモグラじゃないか? 対策が必要かな……」
「アレ植えるべ、ヒガンバナ」
「あぁ……それいいなぁ!」
一つの苗から、10以上のサツマイモを収穫できる。大きさや数は時期によってまちまちだが、獣による食害もある。対策として……球根に毒を持つヒガンバナを植え、かじった獣を毒でコロりと倒す方法が取られた。
――ちなみに、これは一説によると――ヒガンバナの球根から、毒を抜く方法があると聞いた事がある。飢饉の時にヒガンバナから毒素を抜き、非常食とした……らしい。ただ現代には伝わっておらず、方法は不明だ。
話をサツマイモに戻す。十分に芋を収穫できた農民たちは、保存について話し合っているようだ。
「んで、これは日持ちするべか?」
「日陰でおいておけばいいらしい。普通に長持ちするそうだ」
「いくつかは種芋にして、残りはさっそく食べるべ! どうする?」
「竹串に刺して……落ち葉に火をつけて焼き芋にするぞぉ!」
「んだんだ!」
サツマイモは調理も簡単である。軽く洗って、串に刺して、適当に積んだ枯れ葉で焼くだけでいい。ちょっとした調理器具があるなら、蒸かしてもおいしい。しかも皮ごと焼いたり蒸したり出来るので、これまた手間いらずである。
その上、常温で保存も効く。あまり豊かな暮らしの出来ない農民でも、実に都合の良い食材だった。
「うまかぁ~っ!」
「甘っま!? 肥料無しでこんなに甘いのかぁ!?」
「はふっ! はふっ!」
甘味料も高価な時代で、サツマイモは糖分を含んでいる。これは農民だけでなく、江戸の町人たちにも安価なおやつとして普及した。しかも、食物繊維やビタミンを始め、各種栄養バランスも良好と来ている。あっという間に日本人を虜にしたのだ。
さらに……サツマイモには、もう一つ『反則』がある。大地の恵みを味わう農民の一人が、来年の作付けについて言及した。
「しかし……来年は別の所に植えんといかんのかぁ……結構広い土地が使えないべ」
「あぁ、同じ作物や近いの植えっと、病気が出やすかったりするからなぁ……」
基本、植物は毎年同じ場所に植える事は非推奨だ。
『連作障害』という現象があり、同じ作物、種類の近い作物を同じ場所に植えると、生育が悪くなったり、病気や害虫が発生しやすくなる。なので農家は複数の畑を使い、毎年作物を別の種類に変えてローテーションする。これを『輪作』と言う。
だが――サツマイモは、この法則さえ打ち破る。
「それがなぁ……サツマイモは毎年、同じ場所に植えても大丈夫らしいのじゃ」
「えっ……虫が沸かないんだべ!?」
「それどころか……同じ場所で育てた方が、良い芋が沢山取れると本に書いてある」
「色々と都合が良すぎるべ!?」
何故かはわからないが、サツマイモは連作障害が発生しない。
なので……毎年同じ土地で栽培しても、問題なく元気に育つ。他にも、サツマイモ栽培経験者の多く証言しているのだが――『変に場所を移すより、同じ場所で毎年育てた方が発育が良くなる』らしいのだ。
「こりゃいい! 栽培は楽、保存も楽、食べるのも簡単で、しかも美味い……すごい作物だべ!」
「んだんだ。これを育てれば、米がダメになった年ても生きていける……」
「いやぁ、吉宗様様だなぁ!」
「はっはっは!」
かくして――サツマイモは日本全国に受け入れられ、各地で盛んに栽培される事となる。
多くの農民、多くの国民、そして多くの未来の人間を救った事は、間違いないだろう。