開幕の前奏
里のはずれの竹林は、ただただ深い闇の中にあった。
風も吹かない。
虫も鳴かない。
高く頭上を覆う梢の向こう、遥かな天にも、ここまで届く強い光を放つものは、今はない。
すべてが闇に沈む、新月の夜。
かさり、さくりと、小さな足音がする。
ふわり、ゆらりと、空気が揺れる。
うすぼんやりと白く、さらりと赤い服の人影が、黒く長い髪をなびかせて、何かを待つようにゆっくりと、闇の中を歩いていた。
わずかに漏れる荒い呼吸を、ときおり唾と一緒に飲みこみながら、女は竹薮の奥へと歩みを進める。
「止まれ」
向かう先から、突然に響く声。
直後、息と足とを止めた女の前に、ぶわぁと白い塊が湧き出すように現れ、大きく膨れ上がる。
宙に浮かぶ、巨大な髑髏のような顔。首から生えた一対の腕。
炎のように燃える瞳が、黒い梢を背にして女を見下ろしていた。
「ムジナ……」
こちらも紅く光る瞳で、青白い化け物を見上げながら、掠れを隠すような低い声が、その名を呼んだ。
「久しぶりだな? しばらく見ねぇ間に、結構でかくなったじゃねえか。……体だけはな」
「……お前は、相変わらず小物みたいね。見た目に似合わず」
無表情に、抑揚のない声で言い返す女に対し、ムジナは、ひひひ、と高く笑ってみせた。
「なかなか言うようにもなったなぁ? 口は減らねぇが、喰えもしねえ。それで?」
ぐい、とその顔が女の眼前に近づけられる。
一瞬、圧されてのけぞりかけた背筋を、ありったけの気力でまっすぐに立て、女はムジナを睨み返す。
「何の、用だ?」
その眼を覗きこみながら、じわりと念を押すように、言葉が吐きかけられた。
「……聞かなくても、わかってるでしょ?」
「ああ。だがお定まりの手続きってものがある。そいつがなけりゃ、幕は上がらねぇ。……面倒くせぇが、そういうルールだからな」
一転して淡々と口を動かした後、顔の片方だけを器用にゆがめて笑みを作ったムジナは、女がその「手続き」を踏むのを待つ。
少し前、幻想郷に新しいルールが制定された。
ルールの源は、妖怪の力を維持し、高めるための、制御された争いの理念。
問答無用の殺し合いではなく、取り決めに沿ったゲームによる解決を。
単なる力のぶつけ合いではなく、力を魅せつけあう戦いを。
そして特に、己の美意識を体現する特別な技を編み、思想を名として札に記し、枚数を対等に限って披露しあうこと。
その流儀は、スペルカード決闘法、と呼ばれていた。
問われた女は、静かに鼻だけで深い呼吸を一つしたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……私は、この竹林が欲しい。お前を追い出して、ここのヌシになりたい。だから……今夜、お前に挑む」
視界をさえぎる巨大な顔に、逆に突きつけるように鼻先を上げ、喉に力をこめて、その意を告げる。
「この一帯の縄張りを賭けて。勝負しなさい、ムジナ」
声はもう、かすれても震えてもいなかった。
口上を聞いたムジナは、へっ、と軽く笑ってから、少し後ろに下がって顔を離した。
「ああ、そっちの要求はわかったぜ。それで? 貴様は何を賭けるんだ?」
どこか揶揄するような調子でさらに問う声に、変わらぬ表情であっさりと、
「別に何も。ただ、負ければ今夜は引き下がるだけ」
「……なにぃ?」
そう言い返された台詞で、にやにや笑っていたムジナの顔が、困惑と不快感に塗りつぶされる。
「てめえは何も賭けずに、俺にだけ縄張りを賭けろだと? 話にならねえ、とっと出て行きやがれ」
「勝負しないの? だったら、私も勝手に、ここに居座るけど」
「……あぁ!? 何ふざけたこと言ってんだ!? この竹林は、俺のもんだぞ!」
女が重ねて投げつけた思わぬ宣言に、ムジナは牙を剥き出して怒声をぶつけ返す。しかし、
「ふざけてなんかない。いたって大真面目な話。いくらお前が縄張りを主張しようが、口で出て行けと言おうが、決闘で負けないかぎり、私は出て行かない」
わずかに目を細めて見据えつつ、なおも女は宣言し続ける。
「これは、私がお前に一方的に要求する決闘じゃない。
お互いが相手に対して、出て行け、と要求しあう勝負。
何かおかしなとこ、ある?」
「なっん……!」
言葉に詰まったムジナは、怒りに顔をびくびくと引きつらせ、しばらくの間、うぬぅと唸りながら女の前を行ったり来たりしていたが、やがて表情と居場所を落ち着かせると、やや低い声で口を開いた。
「ちっ……確かに、理屈は通ってるな……。いいだろう、勝負してやる。だが……」
値踏みするような斜めの視線で女を睨み、少し間を置いてムジナは続ける。
「……何、たくらんでんだ?」
「たくらむ?」
「そうだ。人狼の貴様が……なんでわざわざ、こんな日に戦いを挑む? 何か魂胆があるんだろう」
そう言って、ふん、と鼻を鳴らし、小馬鹿にするように口角を上げてみせた。
「言っとくが……闇に紛れて加勢を頼む、なんてのは、ルール違反だぜ?」
そう釘を刺しつつ、じろりと目だけを動かして、竹林の中を睨め回す。
少なくとも、その視線の届くうちには、誰の姿も気配もないが。
「するか、そんなこと。……お前じゃあるまいし」
こちらも低く抑えた声で、ぼそりと付け加えてから、女は少しあごを上げ、わずかに見下すような目つきを見せ返す。
「魂胆……そうね。どっちかというと、先のことも見据えての選択、ってとこ」
「先のこと、だぁ?」
「確かに、私が一番強いのは、満月の夜。その日に挑めば、お前に勝つのなんか簡単だけど」
「おい。聞き捨てならねえ事を言いやがったな。満月だったら、簡単に勝てるだと?」
「ええ」
言葉をさえぎって牙を鳴らしたムジナに、短く、鼻息まじりに女は言い放った。
女の答えに小さくこめかみを痙攣させながら、それを打ち消そうとするかのように、ムジナも大きく鼻から息を吹き、
「ほぉぉぉお……大した自惚れっぷりだ。満月の夜に、自分が負けるわけがねえ、と……」
おどけて笑ったその後に、もう一言をねっとり付け足す。
「……アイツも、そう思ってただろうな」
ぎり、と、ほんの微かに、なにか硬いものが軋む音が。
女の口元からこぼれ、闇の中へと染みて消えた。
ムジナは気がつかず、言葉を続ける。
「まあ、とりあえずは、そういうことにしといてやるよ。じゃあ何でなおさら、満月のときに挑まねぇ?」
「……満月の夜に、ここを奪い返したとしても、どうせお前は、また奪いにくるでしょ。それこそ、こんな新月の夜に、とか」
心を深く喉の奥に押しこめて、女はふつふつと言葉を吐き出す。
「それを退けられないようじゃ、ここを取り戻したとは言えない。月が巡るたび、奪って奪われて……なんて、そんなウザったいのは、お断り。だから」
ゆっくりと右腕を前に上げ、紅く燃え立つ瞳で見据えた相手を、鋭く指差す。
「どんな時でも、私はお前に勝てる。
それを今夜、証明してやる。
……お前が二度と、ここに近づけないように」
「けっ……身のほど知らずが。
だが、それをしっかりわからせてやるのも、悪くねぇ」
しばしの間、ムジナは女の瞳の奥を見透かそうと、顔を左右に傾け探っていたが、ほどなく最後の手続きを口にした。
「……形式は?」
「弾幕格闘」
「枚数は?」
「一枚」
女の言葉に、ぴくとムジナの片眉が跳ねる。
「……一枚?」
「ええ」
そこをひとつ聞き返したムジナは、少しだけ何かを思って女を睨んだが、
「……ふん……まあいい。そんじゃ早速……始めようか!」
叫ぶと同時に、風を切る音、地面と竹を蹴る音、そして硬いもの同士がぶつかる音が、無数の閃光と共に竹林に舞った。