第45話 テルモピュライ
テルモピュライの戦い。
紀元前のギリシャで行われた戦いで、スパルタ教育の語源となった都市国家スパルタの軍が勇名を轟かせた戦いだ。
勇猛果敢なレオニダス王に率いられたスパルタ兵300(他国の軍勢もいたが)が、隘路を利用して20万にもなるペルシャ軍の攻撃を3日も食い止め、しかもペルシャ王の親類を含め2万もの戦死者を出させたという凄まじい戦いだ。
今回の状況もそれに近しい。
いや、隘路を利用したファランクス陣形もなく、チート級の狂戦士のスパルタ兵でもなく、偉大なる王もいなく、国を守る気概もない。
スパルタを相手にするよりははるかに楽だ。
だからテルモピュライで勝利したペルシャの軍略通りに事を進めれば間違いなく勝てる。
すなわち、山道を抜けて背後から奇襲するのだ。
「隊長殿ぉ……本当にこんなところ登るんですか?」
まぁ、それが可能だったらの話なんだが。
俺は部下200人を連れて、サカキたちの戦う谷間の入り口から南に1キロほどの場所に来ていた。
『古の魔導書』で調べたところ、こここそが唯一と言っても良い山を登れる入口だった。
だがその入り口がクロエの言う通り、想像を絶するものだったわけで。
「……当たり前だろ、クロエ。簡単に登れる場所を行ったって奇襲にはならないんだよ」
「激しく目を泳がせながら言い切らないでください……」
だってこんなもの想像してなかった。
これ崖だよ?
落ちたら死ぬやつだよ?
くそー『古の魔導書』って言っても所詮は本かよ。
「こんなところでグダグダ言ってもしょうがないだろ。本当にどうしようもないやつだなクロエ、貴様は」
「にゃにおー! ってウィットどこ行ってたの?」
「はぁ……言われたことだけしかやらないやつに教える義理はない」
「む、むー! 隊長殿! ウィットが傲慢です!」
どんな悪口だよ。
でもウィットも良く分からない。
近場から拾ってきたのだろう。
枝やら蔓やらを拾ってきて……あっ!
「さすがウィットだな。機転が利く」
「おお、お褒めに預かり光栄です。もうその言葉だけで死んでもいい……」
いや、死ぬなよ?
困るの俺だからな!
「何やってんの、ウィット?」
「見て分からないか。ふん、やはり脳まで筋肉に侵されたか」
「うるさいわね! あんたなんかアレよ! その……えっと……ばーか!」
「まぁまぁ、クロエ。ここはウィットに任せておこう」
これ以上はクロエが惨めすぎた。
その間もウィットは黙々と枝と蔓を合わせていく。
他の部下も手伝い、数分すると10メートルほどのロープが2本出来上がった。
「隊長、とりあえず自分が先に行きます」
「分かった。頼む」
ウィットが恍惚とした表情を浮かべると(ちょっとキモいとか思ってない)、すぐに気を取り直して頷くと、ロープを体に巻き付けた状態で崖をひょいひょいと登っていく。
背中に剣と弓を背負っているのに、すさまじい速度だ。
「すごいな、もうあんなところまで登ったぞ」
「ふん、まぁ色々努力しているみたいですし? こないだもサバイバル訓練で3千メートル級の山を踏破したとか自慢してましたし? いえ、別に全然悔しくないですけど」
分かりやすすぎだろ、クロエ。
「けど、凄いな。俺には真似できない」
そもそも体力ないし。
もともとインドア派だから、山登りなんて狂気の沙汰としか思えない。
「いえ! 隊長殿は真似する必要ありません! 隊長殿は隊長殿のままでよいのですから!」
クロエが何か力説している間に、ウィットは崖の上に登り切った。
「隊長、ロープを降ろします。つかまって登ってきてください!」
声と共にロープが落ちて来る。2本だ。
まずは俺が1本を取る。
ギュッと握り、少し引っ張る。
反応が硬い。しっかり固定されているようだ。
ためしにロープを掴んで壁に足をかけてみた。1歩、2歩、3歩。行ける。
そう確信すると、そのままするするとロープを手に登っていく。
枝と蔓を組み合わせただけの即席のロープだし、命綱もない登攀だし、何より自分の体力に自信がないなど、不安要素満点だった。
ただ、この調子で行ければ10メートルくらいならなんとかなりそうだ。
「1人登り終わったら次が続け!」
残った部下たちに言い残し、どんどんと登っていく。
これは結構すぐに行けるんじゃね?
――なんて思った時期が俺にもありました。
「これ……ヤバい」
正直舐めていた。
クライミングの過酷さを。
何より自分の体力のなさを。
あと3メートルほど。
それが遠い。
というか腕がかなり限界だ。
「隊長! もう少しです、頑張ってください!」
ウィットがそう言うが、もう動くこともできない。
いや、この場に留まることすらあとどれくらい持つか。
「隊長殿ー! 落ちてもクロエが受け止めますからね! 安心して落ちてください!」
いやいや。さすがにそれは。
この高さから落ちたら俺もクロエも大けがは必至だろうに。
「隊長、少しお待ちを!」
もう一本のロープを登る男――南郡の視察に同行したグライスだ――が、励ますように言って登っていく。
おいおい、助けてくれるんじゃないのかよ。
お前なら俺をおぶって登れそうなんだけど。
そんな八つ当たりみたいなことを考えるくらい余裕がなくなって来た。
あぁ、もうヤバい。落ちる。
そんな時だ。
俺の体が揺れた。
いや、持ち上がった。
何がと思ったが、俺の掴まっているロープがずりずりと上にあがっていっているのだ。
どうやら先に登ったグライスとウィットでロープを引っ張り、俺を引き上げようということらしい。
「ウィット! ヤバい、蔓が持たない! 隊長を!」
「分かった!」
声がしたかと思うと、ウィットが崖から顔を出し、右手を差し伸べて来る。
「隊長! 手を!」
いや、だから無理だって。
今どっちかの手を放したら落ちる。確信している。
「隊長、お早く! 引き上げるのに擦れて今にも切れます! 落ちます!」
そう言われたらこっちも覚悟を決めるしかなかった。
「わ、分かった。行くぞ!」
「はい!」
いち、にの、さんで俺は思いっきり右手を伸ばした。
途端、自重を支えきれなくなった左手が痙攣してロープから離れた。
完全に宙に浮いた。
このまま何も掴めなかったら、俺の体は10メートル下に叩きつけられて死ぬだろう。
一瞬の浮遊が長く感じ、そして――
「っだぁ!」
ガシッと右手を掴む何か。
ウィットの両手だ。それ以外にない。
今はそれが俺を現世につなぎとめる唯一の希望。
「は、放すなよ! 頼むから!」
「ど、努力します……グライス! 俺を引っ張れ!」
「おう!」
勇ましいグライスの声が響くと、俺を掴んだウィットの体が視界から消え、同時に俺の体がゆっくりと上昇していく。
結果、俺の体が崖の上に引き上げられるまで、十秒もかからなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
崖の上で3人ともが荒い息を吐きながら倒れた。
正直、今の俺の握力はゼロに等しい。
「た、助かった……」
「無理をさせて……申し訳、ありません……」
俺たちが倒れている間も、1本だけとなったロープを伝って次々に登ってくる。
1時間後には200人が全員崖の上に集合した。
とはいえ、それで登頂完了したわけではない。
ここから更に山道を伝っていかなければ敵の背後に出ることはできない。
もう俺の体に力は一滴も残っておらず、どうしようと思案しているときに名乗り出たのが、先ほど俺を助けてくれたグライスだった。
「いーつもすまないねー」
「い、いえ! わ、私は、その! 初めてなのですが! その、光栄です!」
そこからはグライスにおんぶされた格好で、山道を進むことになった。
ただ、その間にちらちらとクロエとウィットを始め、全員がこちらを見て来るのが少し恥ずかしい。
なにせ今この部隊で一番の役立たずは俺だろう。
部隊の隊長がそれとはなんとも情けない話だが、今はそうも言ってもいられない。
敵に気取られないために、今もサカキとブリーダは正面から愚直に攻撃しているはずだ。
俺たちが1分でも1秒でも早く背後を取れば、それだけ被害は抑えられるのだ。
だから誰もが急ぎつつ、かといって山道なのでそれほど素早く動けるわけでもなく、悶々とした時間を過ごしていると、
「着いた!」
ようやく開けたとところに出た。
ちょうど山の中腹になっていて、緑に生い茂る山々を見渡すことのできる場所だ。
今が戦時でなければ、しばらくこの景色に見惚れていたい。そう思わせるほどの絶景だ。
何より右手を見れば、眼下に隘路が横に伸び、その先にワーンス軍が見える。
ここを降りれば完全に敵を挟撃できるだろう。
「一気に降りて全滅させますか?」
ウィットが威勢のいいことを言ってくる。
「いや、ここは敵の大将を討つだけでいい。できれば敵兵は逃がしてやれ」
相手の大将はユン将軍だった。
救援に来た時、あまり友好的な態度ではなかった男だ。
「分かりました。こちらから少し降りられそうですね」
「あぁ、そっちから降りよう。グライス。すまないがもう少しだけ頼む」
「よ、喜んで!」
グライスの喜びを含んだ声に、周囲で小さく聞こえる舌打ち。
なんだろう。部隊の中に不協和音が広がっていく?
まぁ敵意とかじゃなさそうだし、無視して良いレベルなのだろうけど。
それに今はそれどころじゃない。
目の前のことに集中しないと。




