第1話 燃える命
暑い。
燃えるような暑さだ。
いや、実際に燃えている。
赤く揺らめく定型を持たない物体が、そこかしこに自らの存在を誇示するかのように次々と勢力を広げていく。
夜11時32分。
M大学歴史学研究所の一室。
そこは赤と黒によって彩られた死の密室。
咳き込む。苦しい。
この部屋の酸素が食いつくされていく。
本に夢中で気づかなかった俺も大概だが、異変に気付いた時には通路は火の海で、地下一階のこの部屋は天窓しか逃げる場所がないというデッドエンドの袋小路だった。
俺以外に人がいないのを幸と見るか不幸と見るか。
不幸だ。だって俺が助からない。
この時間だ。教授も帰ったし、他の教室も居残っている人はいないだろう。
だからやっぱり幸運だったんだろう。
里奈、彼女がここにいないということが。
俺が死んでも、彼女は生きていられるということが。
……いや、やっぱり嫌だ。死にたくない。
こんなところで、こんな死に方したくない。
口元をジャケットで覆って、背を低くしながらドアに向かう。
「熱っ!」
ノブを触った途端、激痛が走った。
熱で熱せられたノブは一瞬で俺の手の皮を焼き尽くす。
それでも焼け死ぬより良い。
だからジャケットの袖をノブに巻き付けて、力いっぱい引く。手のひらが刺されたように痛い。
開かない。
熱で鍵がひしゃげてしまったようだ。
ならば天窓。
歴史に関する本で埋まった本棚。
あぁ、もったいない。ここまで古今東西の歴史書はそうそうないのに。
だが俺自身が燃えるよりはいい。
だから本棚に足をかけ、天窓へ。
そこは死の黒い煙がもうもうと立ち込める場所。
決死の覚悟で本棚を登るが、それも徒労に終わった。
どうやら神様は俺をどうしても殺したいらしい。
熱で脆くなった木の枠は、俺の体重に耐えきれず崩壊し、俺の体を宙に投げ出す。
一瞬の浮遊感。
背中をしたたかに打ち付けたし、頭も打った。
痛い。
けどそれもどうでもいい。
地面を舐める炎が俺の服に引火した。
熱い、という感覚すらもうない。
酸欠のため頭が働くことを拒否し、加速度的に上がる体温に俺は全てを諦めた。
どうしてこうなったのか。
数時間前には、里奈とそれから同じゼミの椎葉達臣と楽しく語り合っていたのに。
里奈。
歴史の研究に没頭してきた俺にとって初めてできた彼女。
彼女とは、ほんの数週間の付き合いに過ぎない。
だが、ウマが合う人間というのがこれほど楽しく、貴重で、そして尊いものだとは知らなかった。
もう一度里奈に会いたい。
会って話がしたい。
なんの話でもいい。歴史の話は俺が語ってしまうだけだから、未来の話でもいい。
でもきっとお前はこう言うんだろう。
『明彦くんらしくないね』
そして笑う。
少年っぽい闊達とした笑みだと言ったら、ちょっと不貞腐れてた。
でも、俺はそんな里奈が好きだったんだ。
ああそういえば、好きって一度も言ったことないな。
こんなことならはっきり言っておけばよかった。
でもそんなこと無理だろ。
まだ数週間の付き合いで、デートらしいデートもない。家に呼んだことも行ったこともない。
研究室かファミレスでくっちゃべっているだけの、ただの友達以上恋人未満の関係。
読書と勉強が青春だった俺が、そうそうリア充の仲間入りできるはずもない。
でも。
もし時間が戻るのならば。
この結末を知った後であるならば。
過去の俺を殴ってでも告白していたのかもしれない。
それもまた無意味な仮定の話でしかないわけなんだが。
それにしても――
「焼死、か」
声が出た。
これが俺の最期の言葉かと思うと情けない。
焼死なんてそうそう起きないものだと思っていた。
ジャンヌ・ダルクじゃないんだから。
こういう火事でないと今はそんな死因もないわけで。
そんな、どうでも、いいこと、を考え、ているう、ちに、まぶた、が落ち、ていく。
思考、が、遅い。
最期。
ことば。
いう。
「あぁ、死にたくねぇ」