2.白熊、愕然とする。
ミナリアはオルソ侯爵家の白熊である。
(――間違えた)
ミナリアはオルソ侯爵家の白熊の姿をした人間である。
つまり、人である。
(姿は白熊だけれども…………)
そして、現在、ミナリアは学園の入学式に出るために、会場で新入生のために用意された席の一番後ろの端っこの方に座り、震えていた。
ミナリアの暮らすこのウィリディス国では魔力を持つものは十八歳までに何れかの魔法学校を卒業しなくてはならないという法律がある。
どの魔法学校も大体三年制で、今年、ミナリアは必ず入学しなくてはいけない歳になってしまったため、ついにミナリアも魔法学校に通うこととなった。
この世界でも数人しかいない『精霊の祝福』をもらい、『精霊の愛し子』でもあるミナリアは、今日、生まれた時から決められていたこのリュミエール魔法学園の高等部に入学する。
本当は十二歳の時に中等部に入学しないかと学園から誘いを受けていたが、ミナリアは対人面に不安が残っていたため断っていた。
しかし、ついに今年はもう逃げられなくなり、ミナリアは一人ここで震えていた。
ミナリアは今日から三年間学園に通わなくてはならない。
つまり、三年間知らない人たちと共に過ごさなくてはならないのだ。
ミナリアも当初はもう少し落ち着いた気持ちで入学式に臨んでいたのだが――――
心の準備をするために、ミナリアは通達された予定時間よりも大分早く学園に到着し、会場入りした。
そこまでは、まだ大丈夫だった。
緊張はするし、落ち着かないものの、まだ心に余裕があったのだが、手続するために受付へと行くと、そこにいた教員たちに驚愕され慄かれることになり、どよんと落ち込んでしまっていた。
今日は式典なので、制服のローブのフードで顔を隠すことができず、頭にちょこんと角帽を乗せている格好で、いつもとは違い顔が丸見えだった。
しかも、普段から来ているローブより丈が短いため、足もよく見えてしまっている。
普段より全く熊感が隠せていない所為で起こった出来事だったので、ミナリアはいつもより余計に落ち込んでしまう。
席に座りながら可能な限り空気と化そうと本人もよく分からないまま謎の努力をしていたが、全く落ち着くことはできずにミナリアの存在はかなり浮いていた。
もし、この入学式で、以前の王宮でのお茶会のように、ミナリアを見て阿鼻叫喚の図になってしまったらどうしようかと気が気ではない。
受付の先生方の反応を見るに、恐らく、これからの学園生活をひとりぼっちで過ごさないといけない確率は非常に高い。
そうなると思うとミナリアは悲しくなってくる。
人間のお友達ができないだろうかと期待し、そわそわしていた気持ちも、もう無理なのではないかと諦め気味になってしまう。
それでも、ミナリアはこの学園で伴侶になってくれる人を探さなくてはならない。
お友達になれそうな人を探すことを諦めても、伴侶を探すことは諦めてはいけない。
いや、伴侶を探すことを諦めることは許されないだろう。
ミナリアは白熊姿だが、一応、侯爵家の令嬢だ。
オルソ侯爵家は直系しか継げず、次代の候補はミナリアしかいない。
血を途絶えさせないためにも、何とか伴侶を探さなくてはいけないのだ。
ミナリアの、いや、オルソ侯爵家の直系の者には『精霊の祝福』の証しとして人とは違う姿、この熊の姿を祝福としてもらっている。
この熊の姿は今のままでは変えることはできない。
とある条件によって解け、人と熊、どちらの姿も自在に選べるようになる。
条件が満たされなければ、一生、熊の姿のままで生きていかなくてはならない。
これは、そう、例えるなら幻のようなものである。
人間だけど人間ではない姿。
熊の姿だけれど熊とは違う。
見た目は完全に熊。
触れるし、感触もある。
感覚としては毛皮を纏っているようなものだ。
特に精霊たちにはこのふわふわの毛皮は大人気だ。
それでも、仕草や動作、思考などは人間のもの。
人間のようでいて、けれどもその姿は誰がどう見ても熊のもの。
そんな複雑な魔法が掛かっている。
それにこれは精霊たちにすら作用する強力なものだ。
その幻が解ける条件が『真実の愛』なのだ。
この『真実の愛』によって擬態は解け、人の姿に戻るのだそうだ。
歴代の者たちも条件を満たし、人と熊の姿を好きに変え、生活している。
父も普段は人間の姿で、家にいる時とミナリアと森に行く時だけは白熊姿になるのだ。
それは母が父の白熊姿が好きだということもあるが、ミナリアだけが注目を集めないように気を使ってくれているのではないかとミナリアは思っている。
そもそも、ご先祖様が精霊を助けた時のお礼としてもらったのがこの『精霊の祝福』だ。
平民ながらに国で一番の魔法使いと言っても名高いご先祖様が、これまでの功績により爵位を賜ることになり、それによって舞い込んできた縁談の申し込みに辟易しており、縁談除けとして授けてもらったそうだ。
『真実の愛』がないと人の姿に戻ることはない。
そのため、貴族でありながら、政略結婚という選択肢は用意されず、自ら相手を探さなくてはならない。
そういった事情もあり、ミナリアは幼い頃、王宮のお茶会に参加したのだが、結果は大敗退。
結局、大混乱を引き起こし、迷惑を掛けただけで終わってしまった。
ミナリア自身は友達ができるかもしれないと思い、出掛けて行ったので、後からそういった事情を教えてもらい、ミナリアは思った。
これは結婚できないんじゃないか、と。
しかし、そうも言ってはいられず、ミナリアは再び、今度は学園で婚活しなくてはならなくなった。
母からは、ミナリアを好きになってくれて、ミナリアも好きになれるような人を見つけなさいねと言われている。
そんな人が現れるのだろうか、とミナリアは疑っている。
何度も言うが、ミナリアは人間ではあるが今は白熊の姿だ。
そんなミナリアを見て好きになってくれる人とはいったいどんな人なのだ、と頭を悩ませてしまう。
第一、歴代とは条件が全く違う。
オルソ侯爵家は元々代々男児が一人しか生まれず、ミナリアはオルソ侯爵家初の女児である。
歴代は全員男で、初代と父を除いた全員が何故か学生時代に伴侶を見つけている。
父は学園卒業後歴代当主と同じように王立図書館の館長を務め、何年か後にミナリアの母で、父からすると妻であるアリアと出会ったらしい。
男であればまた違ったのだろうが、ミナリアは女だ。
(果たして、白熊姿のミナリアを見て好きになってくれる人は現れるのだろうか?)
これからの生活を想像し、ミナリアは落ち込み、俯いてしまった。
愛し、愛される関係になれる人――。
ミナリアがもし相手の希望を上げるのなら、できればミナリアの姿を見ても驚いたり、怯えたり、悲鳴を上げて逃げ出さない人がいいなぁと思う。
そして、できれば優しくて、両親のようにお互いを尊重し、何年経っても恋人みたいに仲が良く、お互いのことを好きでいられるような、そんな人なら尚いいと、つい夢を見てみてしまう。
そう、つらつらと考え、人間の友達も作れない今の自分には遥か遠くの夢物語だとミナリアは嘆息する。
ミナリアがじっとりとした空気を纏い始めた時、突然、近くで大声が聞こえてきた。
「あっ! 森で会った親切な白熊さんじゃん!」
熊、という単語に反応し、自分のことかと驚いてミナリアが顔を上げた時には、すでに目の前は真っ暗になっていた。
何が何だか分からず硬直するミナリアに構わず声の主は話しかけてくる。
「白熊さん、この間はありがとう! おかげで助かったよ」
背中をぽんぽんと叩かれ、我に返ったミナリアが今の状況を理解すると、恐る恐る顔を上げ、声の主を確認する。
目は閉じているのだろうかというくらい開いていないので、瞳の色は分からないが、ややボサッとした黒髪で小さいミナリアよりは大きい男の子。
どうにも見覚えがあるようなないような曖昧な記憶しかなかったのだが、声の主の話の内容から、多分、この間、森で行き倒れていた彼なのではないかということに気が付く。
あれから日にちが経っているので曖昧ではあるが、多分、そうだ。
しかし、尚更、この体勢の意味が分からない。
何故、ミナリアは彼に抱き締められているのだろうか?
ミナリアにはどうしてこうなったのかよく分からなかった。
「白熊さん……?」
混乱のあまり微動だにしないミナリアに気が付いたのか、不思議そうに呼びかけられた。
「えっ……と……?」
ミナリアは固まってしまった状態から復活したが、思考の方はまだ回復しておらず、彼の呼びかけに疑問形で答えてしまう。
そんなミナリアに対し彼は気にした様子もなく、親切にも、もう一度、先程の言葉を繰り返してくれる。
「この間、森で助けてくれてありがとう。白熊さんのおかげで死なずにすんだよ」
「どういたしまして……?」
首をこてんと倒しながら返答するミナリア。
「どうして白熊さんの方が疑問形で答えるの?」
ミナリアからは少し見上げる形になる彼が可笑しそうに笑うその姿を見て、ミナリアの口元も次第に緩んでいく。
「白熊さん、ありがとね。白熊さんのおかげで死なずに無事に生きて帰ってこられたんだ。本当にありがとう」
「いえ、私は、特に何もしていませんよ? 森で摘んだ果実を差し上げただけですし」
行き倒れの彼はすごく感謝してくれるが、ミナリアは特別なことなんて何もしていない。
ただ、タルト用に摘んだ果実を譲っただけだ。
あの苺やベリーも欲しければまた取りに行ける。
現に、数日後、再び摘みに行き、念願の苺のタルトを食べたのだから。
あれは美味しかったとミナリアは思い出して、つい涎が出そうになる。
「ううん。そのおかげで助かったんだよ。……でも、良かったの? あんなに貴重な苺やベリーを貰ってしまって……」
申し訳なさそうに眉を下げる彼にミナリアは笑って返す。
「大丈夫ですよ。あの後、また摘みに行きましたし、食べました!」
何度思い出しても涎が出そうになるほど美味しかったタルトを思い浮かべ、今度の休みにまた取りに行こうとミナリアは決意する。
苺の季節が終わる前にミナリアはあと何回摘みに行くのかは今のところ誰にも分からない。
しかし、意外と食い意地が張っているミナリアは恐らく許される限りは頻繁に通うだろう。
しばらくオルソ侯爵家では苺を使ったお菓子が頻りに登場することは確実だろう。
「そうなの? ……でも、やっぱり申し訳ないから、今度摘みに行く時があったら俺も一緒に、って、痛っ!」
「エリック! 私が目を離した隙に、何をやっているんですか?!」
思わぬ流れで名前が判明した彼は、エリックと言うらしい。
そのエリックは、突然、後ろに現れた人物に頭を叩かれ、その衝撃でミナリアから手を離して、叩かれた頭を押さえて蹲っている。
エリックの頭を叩いた彼は、痛みに呻くエリックを全く気にする様子もなく懇々とお説教を始めた。
「エリック! 私は先に会場に行って、席にっ、座ってっ、大人しくっ! 待っていてくださいと、言ったはずです! どうして、この方に抱き着いているのですか?!」
「ロベルト、痛い。いきなり叩かなくてもいいだろ」
「痛くしているのだから当たり前です! エリック、いいから私の質問に答えなさい!!」
口を尖らせながら文句を言うエリックと激高しているロベルトのやり取りに、ミナリアは呆然としていたが、ロベルトのきつい一喝に我に返った。
「あ、あの、それくらいで――」
「いえ、エリックにはこれくらい言い聞かせないとダメなんです! それでも、全く効果がないこともありますが、だからといって放っておくわけにはいきません! ……申し訳ありませんが、これへのお説教が終わるまで少々お待ちください」
初めて会う人がいるにも拘わらず、尻込みすることなくミナリアはおろおろと諍いを止めようとするが、ロベルトに丁寧な言葉でピシャリと撥ね除けられ、すごすごと引き下がった。
もうこれはそっとしておくしかないのだと理解し、ミナリアは大人しくしていることにした。
手持ち無沙汰になってしまい、何となくミナリアの真正面で正座をしてロベルトに向き合ってお説教を受けているエリックを観察してしまう。
エリックはミナリアと同じようにリュミエール魔法学園高等部のローブを着ており、帽子は先程の衝撃で地面に落ちてしまっていた。
拾ってあげたいが、帽子はエリックとロベルトの間に落ちてしまっているので、流石に拾えそうになく、仕方なく諦めて、改めてエリックを観察する。
エリックは床に直接正座させられているため、全体の大きさは分からないが、ミナリアが腕の中にすっぽり入ってしまうくらいなので、ミナリアよりは大きいことは確実だ。
ややボサッとなっているように見える黒髪は、よく見るとふわふわの癖毛なのかあちこちに跳ねてしまっていて、パッと見た印象で判断されるような状況だと損をしてしまいそうで勿体無い気がする。
瞳の色は――目を閉じているようで見えない。
エリックの瞳の色をみてみたいなぁ、と思っていたミナリアは、そこで何かが引っかかるような気がした。
先程からエリックは目を開いていないように見える。
でも、ミナリアやロベルトの判断が付くあたり、目が見えていないというわけではないようだ。
(いや、そこが問題なのではない。エリックは、何故、ミナリアが森で出会った者だと分かったのだ?)
あの時、エリックは目を開けていたようには見えなかった。
つまり、ミナリアの姿を見ていない、はずである。
(後姿を見られた……?)
いや、それだけでは断定するには情報が足りないだろう。
あの日、ミナリアは赤いローブを着て、頭にはローブに付いているフードを被っていた。
手や足先は見えただろうが、それだけでは弱い気がする。
フードも深く被っていたので、フードが捲れない限りはミナリアの姿は判断できないだろうが、フードは捲れてはいなかったはずだ。
動物や魔獣と間違えて冒険者に狩られたりしないように、パッと見ただけでは分からないようになっているが、正面からじっくり見たらフードの形から違和感を覚え、更によく観察するとミナリアの毛皮や耳の形から熊っぽいことまでは分かってしまう。
今日、エリックはミナリアの姿を見て、森で出会った者だと判断して声を掛けてきたのだ。
(では何故……? …………もしかして、エリックがあの状態で見えているなら、ミナリアが初めから白熊姿だと分かっていたのではないか?)
エリックが何度か顔を上げたあの一瞬でフードを深く被った状態のミナリアの姿からパッと判断することはできないはず。
(なら、どこかのタイミングで直接フードの下の顔を見られていた……?)
そうとしか考えられない結論にミナリアは愕然とした。