素直になってみるということ
素直。それは、この世で一番と言っても過言ではないくらい、私に似つかわしくない言葉だと思う。
隣にいるカップルは、お互いニコニコと目を合わせながら、「好きだよ。」とか「ずっと一緒にいようね。」とか「お前が一番だよ。」とか照れくさそうに、いや、もはや照れてないのではないか。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいの言葉をスラスラと平気で口に出している。こっちにいる女子高校生のグループは、女子にありがちな、よくある悩み相談でもしていたのだろう。「うちの彼氏がさ~」とか、「バイト先の先輩にさ~」とか。愚痴やら惚気やらを大声で話している。もう小二時間くらい話していると思う。外を見るともう星が出ている。そのことに気が付いたのか、
「そろそろ帰るね。聞いてくれてありがとね。」
と、一人が胸元のリボンを直し、薄茶色のカーディガンを羽織りながら、目を細めて言う。その言葉に続いて、
「もうこんな時間か!こちらこそだよ~。もう皆のおかげで超心軽くなった。」
「それな~マジありがとう。このメンツ大好きだわ。」
「もう本当にみんな大好き!」
そう言いながら、スクールバック持ち、財布を取り出す。そのままレジの方へ向かっていった。彼女たちがテーブルに残していったお皿やコップは、さっきまでの騒々しさを象徴しているかのように散らかっていた。
どうしてそんなにいとも簡単に、「好き」とか恥ずかしいことを口に出せるのだろうか。本当に思って言っているのだろうか。思っていないことを口に出すのは簡単だけれど、本当に思っていることを口に出すのは、なかなかの勇気がいることだろう。少なくとも私は。彼女たちは勇気を出して言っているようには感じなかったけれど。
「真愛。」
名前を呼ばれ、いじっていたパソコンを反射的に閉じて、上を向く。そこには見慣れた姿があった。
「翔太、おはよう。」
「待たせてごめんね。授業長引いちゃって。」
「いいよそんなの。私もレポート書いてたし。」
星の出ている時間におはよう、と挨拶しても不思議がらないこの男。それはそうで、翔太と呼ばれたこの男は、真愛とは中学校一年生のときに同じクラスになってから、大学一年生になった今でも仲良くしている。いわゆる腐れ縁と呼ばれる関係。翔太は私のことを「親友」だと言ってくれる。私もそう思う。けど、本人に向かって「親友だよね。」とは言えない。言ったことがない。かと言って、「俺たち親友だよな!」と翔太に言われて否定することもない。ただ、「うん」と頷くだけ。女友達にだってそう。
「本当は二時間くらい待ってたんだろ?真愛のことだから、もうとっくにレポート終わって暇してたんじゃないの?『遅い!』って言えばいいのに」
「言わないよ」
やれやれ、と翔太は呆れた顔をする。まあ、真愛だもんな、と小声で呟いてから続けた。
「そんなんだから彼氏に振られるんじゃないの?」
「自覚してます。」
そう。真愛はこの間…とはいってももう一年前になるが、高校二年生のときに告白され、一年付き合っってた彼氏がいた。私のどこが好きなの、と聞くと、「顔」と毎回答えていた彼は、真愛の自分の気持ちを表に出さないところ、いえば素直じゃないところ、一年も経てば飽きてしまったのだろう。
「真愛さあ、俺のこと本当に好きなわけ?」
「え…うん」
「はあ…。一年も付き合っているのに一度も『好き』って真愛に言われたことないし、俺がどんなこと
しても怒らないし、いつもどこかに感情置いてきたみたいな顔してるよね。喧嘩だって一回もしてないし。つまんねーわ。」
彼との最後の会話はそれだった。幸い大学は別々だったし、彼と会うことももうないだろう。彼の言葉は間違っていなかった。だけど治す気もなかった。
「だってさ」
「言葉にすると、嘘に聞こえる…って言いたいの?」
「すごい翔太。よくわかったね。」
「真愛の口癖だろ?そんなの言い訳にしか聞こえないけど」
「さっきも隣にいたカップルとかJKが好き好き言い合ってたけどさ、本当に思ってんの?って思っちゃう。なんか、軽く聞こえるんだよね。」
「歪んでんな~。心では思ってる…ってことでいいの?」
「思ってたとしても、言わない。」
そう、言ったって意味ないのだ。人の気持ちなんて簡単に変わる。言葉にすれば、責任も生じるし、一度口に出してしまったら簡単に消すことなんてできないのだ。「あのときそう言ってたじゃん」とトラブルになる可能性だってある。だったら、最初から言わない方がマシだ。それに、私の口から「好き」とか出てくるのを想像するだけで寒気がする。似合わない。私には。
「まあ、真愛の元彼には同情するよ。…彼女から好きって言ってもらわないと不安になるし」
「それがおかしい。」
「なんで?」
「付き合ってんだから、好きなのは必要条件でしょ。」
好きだから、付き合えるとは言い切れないけど、付き合ってたら好きなのは当たり前。喧嘩しなかったのは、真愛が本音を言わなかったのもあるが、「喧嘩になる」って思ったら自分から引き下がることが多かった。それを真愛は「気が合う」からだと思っていたが、彼はそう思ってはいなかったようだ。
「でもさ真愛。」
翔太は、頼んだ紅茶を口に運んだあと、真愛の顔を見て言う。ミルクも砂糖も入っていない紅茶からはまだ湯気が出ている。
「やっぱり、相手の気持ちっていうのは、言葉にしてもらわないとわからないし、人間関係を築く上では必要だと思うけど。さっきのJKたちまでとは言わないけど、言葉にすることは良いことでもあるよ?」
こう言われ続けて六年。もう耳にたこが出来ている。そうは言われても、言葉にするのは難しい。良いことって何だろう。私には、わからない。
「そうだ、今日はどうして私を呼び出したの?」
今日は珍しく、翔太から大学の近くの喫茶店に来てほしい、と呼び出されていた。最初から説教くさくなってしまったが、きっと何か話したいことでもあったのだろう。真愛は冷めきったコーヒーを口に運びながら、翔太の答えを待つ。だが、彼はなかなか口を開こうとしない。
「あー…っと。」
「なに?」
何か言いづらいことなのだろうか。落単したとか?翔太に限ってそんなことはないとは思うが、都内での有名な私立大学に通っているから、無いとは言い切れない。
「真愛さあ、一か月でいいから、俺の彼女になってくれないかな」
「は?」
真愛の返答は正常だった。中学生のころから七年間、友達として関わってきた彼からそんな言葉が出てきたんだから、驚くのも無理がない。思わずコーヒーカップを落としそうになる。翔太の方を見ると、彼は困ったような、恥ずかしいような、そんな顔をしていた。
「一か月…ってどういうこと?」
「実はさ」
翔太の話によると、同じ大学で知り合った女の子からひどく好意を寄せられていて、何度拒否をしても諦めてくれないのだという。「彼女がいないんだったら付き合ってくれてもいいじゃん」とせがまれ、何か良い案がないか友人に相談したところ、彼女がいることにすればいいとアドバイスをもらったのだ。何度振られても諦められないほど、この男には魅力があるのか。真愛は率直にそう思った。もう七年も一緒にいれば、恋愛対象として魅力を感じることはまずないため、客観的な意見がわからなかった。別に真愛は翔太のことを嫌いなわけではないし、彼氏もいない。断る理由はない。
「けどなんで私?翔太、前に私はタイプじゃないんだってさんざん言ってたじゃん」
「だからだよ」
「うん?」
「真愛だって、俺のこと恋愛対象として見てないでしょ?だったらお互い一か月って期間を決めればそれ以上になることもそれ以下になることもないかなって」
「なるほどね」
「もちろん一か月、真愛のことを拘束するような形になってしまうわけだから、それなりに報酬は考える。」
「いいよ、わかった。」
報酬、と聞いて目が輝いた。翔太は昔から誕生日には、真愛が欲しいものや好きなものをわかっているのかと言わんばかりに素敵なプレゼントを贈ってくれる。一か月彼と付き合うふりをするだけでいいのか。真愛はそんなことを考えながら承諾した。翔太はホっと安心した顔をした。熱い紅茶のせいか、少しだけ頬が赤いような気がした。